夏至点:才能と情熱の天秤(前編)
夏至点:才能と情熱の天秤(前編)
一年で最も日が長い、六月の下旬。
午後六時を過ぎても空は白々と明るく、湿り気を帯びた熱気が校舎の廊下に淀んでいた。
放課後の旧図書室。新校舎へ移転してから使われなくなったこの場所は、窓を開けても風が通りにくく、独特の重い空気が満ちている。
「……待たせてごめんね、晶くん」
重い引き戸を開けて入ってきたのは、優子ちゃんと、その隣でどこか硬い表情を崩さないカルラちゃんだった。
僕は窓際の長机に、あらかじめ用意しておいたものを並べていた。今日は大きなトランクはない。制服のポケットから取り出した、使い込まれたタロットの束と、いくつかのルーン石。それから、さっき自販機で買ってきたばかりの、水滴を滴らせる冷たい麦茶が三本。
「ううん、僕も今来たところ。……座って。今日は三人だけで話そう」
優子ちゃんは、フリマで渡したローズクォーツを握りしめながら、ポツポツと語り始めた。
「……私、ダンスは嫌いじゃないの。身体が音楽に溶け合う瞬間は、確かに心地いいって思う。……でも、カルラちゃんみたいに、将来もずっと踊り続けたい、プロになりたいって思えるほどの……熱意が、私にはないの」
彼女は膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
「みんなは才能があるって言ってくれるけど。……中身が空っぽなのに、形だけ上手くなっていくのが、怖くて。本気で向き合ってるカルラちゃんに、申し訳なくて……」
隣に座るカルラちゃんが、ぴくりと肩を揺らした。
彼女の瞳には、優子への強い嫉妬と、自分をプロの世界へ引っ張ってくれる唯一の相方を失うことへの恐怖が、危ういバランスで同居している。
「……優子ちゃん。君の中にあるのは、嫌いっていう気持ちじゃなくて……ただ、情熱の│欠落なんだね」
僕は独白の中でそう結論づけながら、カードをシャッフルした。
「少しだけ、整理してみようか。優子ちゃんの『今』を」
優子ちゃんが選んだ三枚のカードが、夕闇の迫る机に並ぶ。
過去:『魔術師』の逆位置。
現在:『力』の正位置。
未来:『正義』の正位置。
「過去の『魔術師』が逆なのは、自分の持っている力をどう扱えばいいか分からず、持て余していた証拠だね」
僕は中央のカード、獅子の口を優しく押さえる乙女の絵を指した。
「今のカードは『力』。……優子ちゃんの身体は、もう自分の一部として完璧に制御されている。情熱が追いつかなくても、君の肉体は正しく『踊り方』を知っている。……それは動かしようのない│事実だ」
「……でも、心が、追いつかないの」
「未来に出た『正義』は、天秤を持っている。……これは、情熱と才能を無理に同じ重さにしなくてもいい、っていう暗示かもしれないよ」
僕は彼女の瞳を静かに見つめた。
「圧倒的な『技術』として、ただそこに在るだけの美しさもある。……優子ちゃん。君は、自分の才能を『仕事』として割り切ることを、自分に許せていないんじゃないかな」
優子ちゃんは息を呑んだ。
揺れ続けていた彼女の心の天秤が、初めて水平に近い場所で止まったような、静かな沈黙が訪れる。
けれど、その静寂を切り裂いたのは、これまで唇を噛み締めていたカルラちゃんの、震える声だった。
「……ずるいよ、優子。そんな風に言えるなんて、やっぱり、ずるいよ……!」
カルラちゃんの震える声が、湿った空気の溜まる図書室に鋭く響いた。
彼女は握りしめた拳を膝に叩きつけ、絞り出すように言葉を繋ぐ。
「優子が『中身が空っぽ』だって悩んでる間、私は……優子のその才能に、どれだけ嫉妬して、どれだけ救われてたか! 私が百回練習してやっとできるステップを、優子は一度見ただけで自分のものにする。……もし優子がダンスを辞めたら、私は……。私は、誰と踊ればいいの? 私一人の情熱なんて、優子の才能がいなきゃ、どこにも届かないのに……!」
優子ちゃんは弾かれたように顔を上げ、言葉を失ってカルラちゃんを見つめた。
二人の間に横たわるのは、才能への羨望と、それ以上に深い「独りになることへの恐怖」。
僕は、ポケットの中で静かに音を立てるルーンの袋に触れた。
「カルラちゃん。……覚えているかな。冬の夜の公園で、君が引いた石のこと」
カルラちゃんがハッとして僕を見た。あの夜、自販機の光の下で彼女が手にしたのは、一時的な停止を意味する『氷』のルーンだった。
「あの時、君の心は凍りついていた。でも、今は違う。……もう一度、引いてみて。今の君に必要な『言葉』を」
カルラちゃんは震える手で袋を受け取り、中をかき回した。骨と骨がぶつかり合う、あの夜と同じ、どこか生き物の体温を感じさせる乾いた音が響く。
彼女が掌にこぼしたのは、三つの白い断片。
過去:『│氷』。
現在:『│火』。
未来:『│贈り物』。
「……あ」
カルラちゃんが小さく声を漏らす。過去の場所に、あの時と同じ一本線の紋様――『氷』が座していた。
「あの時の氷は溶けて、水を経て……今の君は『火』の中にいる。ダンスへの情熱が強すぎて、自分自身や、隣にいる優子ちゃんまで焼き尽くそうとしているんだね。……でも、見て。未来にあるのは『ゲボ』。これはXの形……二つの力が交差して、対等な関係になることを意味するルーンだよ」
僕は二人の間に、まだ何も書かれていない藍色の布を広げた。
「最後は、二人で選んで。……石には、理屈じゃない相性があるから」
僕はトランクから出しておいたいくつかの天然石を差し出した。
優子ちゃんは迷わず、フリマで僕が贈ったのと同じ、淡い桃色のローズクォーツと、自分の影を象徴するような漆黒のオブシディアンを指先で拾い上げた。
対するカルラちゃんは、沈んでいた瞳に少しだけ色を取り戻し、彼女らしい明るい色の石を選び出す。
「……私は、この黄色いのと、赤いの。……なんか、元気が出るから」
彼女が選んだのは、陽光のようなシトリンと、燃えるようなカーネリアンだった。
「……いい組み合わせだ。じゃあ、二人で同時に、この布の上に放してみて」
カチ、カチャッ。
四つの石が布の上を転がり、微かな音を立てて止まる。
最初はバラバラに放たれたはずの石たちが、不思議なことに、布の中央でひとつの塊となって寄り添っていた。
優子ちゃんの黒い石がカルラちゃんの赤い石を支え、カルラちゃんの黄色い石が優子ちゃんの桃色の石を照らしている。
「……見て。石は、離れることを選ばなかった」
僕はその配置を指先でなぞりながら、ゆっくりと言葉を置いた。
「優子ちゃんの『静かな技術』は、カルラちゃんの『激しい情熱』を守る盾になる。そしてカルラちゃんの情熱は、優子ちゃんの空っぽな器を彩る光になる。……二人は、同じ重さの熱量を持たなくていいんだ。背中合わせで、互いの欠けた部分を預け合っていれば、この石たちみたいに、一番安定した場所に辿り着ける」
夕暮れの長い影が図書室を浸食し、床に落ちた埃が黄金色にきらめく。
優子ちゃんとカルラちゃんは、重なり合った四つの石を、自分たちの指先を見るような眼差しでじっと見つめていた。




