雨音のトポロジー
雨音のトポロジー
五月の中旬。梅雨の走りというには重たく、夏の気配を孕んだ湿り気が放課後の教室を支配していた。
窓の外では、アスファルトを叩く雨が白く煙っている。
「……ごめんね、晶くん。こんな時間に呼び出しちゃって」
誰もいない三組の教室。教卓の端に腰を下ろした│一宮 千夜さんは、湿気で少しうねった髪を気にしながら、消え入りそうな声で言った。
彼女は僕と同じ二年生で、図書委員の仕事を通じて知り合った、物静かな同級生だ。
「いいよ。僕でよければ、いつでも」
僕は自販機で買ってきたばかりの麦茶のペットボトルを、彼女の前の机に置いた。結露した水滴が、木目の机に小さな染みを作っていく。
「これ、飲んで。少しだけ、心を冷やして、リセットできるかもしれないから」
「ありがとう……」
千夜さんは冷たいボトルを両手で包み、祈るように目を伏せた。
「……先輩のこと、聞いた? 志望校、やっぱり地方の海洋大学にするんだって。あそこ、全寮制だし……船に乗って、何ヶ月も帰ってこない実習もある。……合格したら、もう、今のままの距離じゃいられないよ」
彼女の付き合っている先輩が、その難関大を第一志望に据えたことは、図書室の掲示板でも話題になっていた。
「先輩の毎日が、私の知らないもので埋まっていくのが、怖いの。……どう整理したらいいのか、自分でも分からなくて」
千夜さんの震える指先を見て、僕は、先輩が彼女の知らない│物語を積み重ねていくことへの不安を、静かに感じ取っていた。
夢を追う背中は眩しいはずなのに、その│目的地が遠ければ遠いほど、彼女の心には深い│孤独が刻まれていく。
窓の外、激しく降る雨。
……ふと、最近あまり笑わなくなった優子ちゃんの顔が脳裏をよぎる。彼女も、何かに怯えているのだろうか。僕に言えない│痛み《ノイズ》を抱えて、一人で耐えているのだろうか。
「……千夜さん。今日は、星もカードも使わない占いをしてみようか」
僕は静かに、間を置いて提案した。
「……雨音占い。……今、外で降っている雨の音に、意識を集中してみてくれる?」
「雨の、音……?」
「うん。目を閉じて、耳に届く音をそのまま、心の中に響かせて。……その音が、千夜さんにはどんな│擬音として聞こえるかな。……言葉じゃなくていい。感覚で、教えてほしいんだ」
千夜さんは戸惑いながらも、ゆっくりと瞼を閉じた。
放課後の校舎に響く、雨の│多重奏。
トタン屋根を叩く音、窓ガラスを滑る音、排水溝へ流れ込む音。
数十秒の沈黙の後。
彼女の薄い唇から、微かな音が漏れた。
「……ザワ、……ザワ……。……ドロ……ドロ。……時々、……ピチャッ」
それは、ただの雨音の模写ではなかった。
彼女の心の底に溜まった、整理のつかない│感情の残滓が、雨の形を借りて吐き出された瞬間だった。
僕は彼女の紡いだ音を、空気に馴染ませるようにゆっくりと繰り返した。
千夜さんは目を開け、不安げに僕の言葉を待っている。
「千夜さんの心の中、今は激しい雨が降り続けているみたいだね。……不安が溢れて、止まらない状態。ドロドロとした音は、足元が見えないくらいの焦りかな」
僕は机の上の麦茶を見つめた。琥珀色の液体は、振動もなく静止している。
「でも……『ピチャッ』っていう小さな音が混じっているのは、救いだよ。それは、どこかで雨が止むのを待っている、千夜さんの本来の│静寂が残っている証拠だから」
「……止むのを、待ってる……?」
「うん。先輩が遠くへ行くこと、距離ができること。それは変えられない事実だけど……。その事実をどう受け止めるか決める前に、今はまず、心の中のザワザワを逃がしてあげよう」
僕は窓の外、少しだけ勢いの弱まった雨に目をやった。
「恋愛の結末なんて、僕にはわからないよ。なるようにしかならないから。……でも、この雨音が少しずつ『ポツポツ』に変わっていけば、千夜さんはもっと楽に、先輩を待てるようになるんじゃないかな」
「ポツポツに……」
千夜さんは僕の言葉をなぞるように、もう一度そっと目を閉じた。
十秒。二十秒。
やがて、彼女の表情から強張りが消え、深い呼吸が戻ってくる。
「……不思議。さっきより、雨の音が優しく聞こえる気がする。……私、先輩が遠くに行くのが寂しいんじゃなくて、寂しさに飲み込まれるのが怖かっただけなのかもしれない」
彼女は目を開けると、少しだけ口角を上げた。まだ雨は降っているけれど、その瞳の奥には確かな│余裕が生まれていた。
「ありがとう、晶くん。少しだけ、頭の中が軽くなった気がする」
「……よかった。心の雨は、もう止みかけてるよ」
千夜さんは飲みかけの麦茶を手に取り、一礼して教室を出ていった。
廊下に響く彼女の足音は、先ほどよりもずっと軽やかだった。
一人残された教室で、僕は窓際の席へ移動した。
恋愛が成就するか、それとも壊れるか。そんなことは「整理屋」の仕事じゃない。
僕がしたかったのは、彼女が再び自分の足で歩き出すための、ほんの少しのゆとりを作ること。ただ、それだけだ。
(……優子ちゃんも、どこかで同じ雨を聞いているのかな)
彼女の心の中では、今、どんな擬音が鳴り響いているのだろう。
もしそれが「ゴロゴロ」という雷鳴だとしたら、僕にそれを止める術はあるのだろうか。
遠くで光った稲光が、一瞬だけ無人の教室を白く塗りつぶした。
その光に追いつくように、机の上のスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、エミさんからのメッセージだった。
『アトリエ・ウィステリア』の常連であり、僕のトランクの改造も手伝ってくれた、腕のいいレザークラフト職人。僕にとっては、クラフト仲間であり、理解者の一人だ。
『晶くん。今週末の光が丘公園のフリマ、私の隣のブースに空きが出たわ。一緒にどう? あなたが彫ってるあのルーン石や、季節のハーブを詰めた小瓶……ああいう「意志のある小物」は、こういう場所でこそ、本当に必要な人の目に留まると思うの』
ただの在庫整理ではなく、僕の「おまじない」をクラフトとして正当に評価した上での、粋な誘いだった。
……そうだ。僕も、自分の中に溜まった「答えの出ない観測データ」を、何かの形にして手放したかったのかもしれない。
「……返信、しなきゃ」
僕は短い感謝と承諾を送り、雨が小降りになったのを見計らって席を立った。
校門を出ると、湿ったアスファルトの匂いが鼻をつく。
駅へ向かう道すがら、僕はいつものコンビニの前で、雨宿りをしている優子ちゃんを見つけた。彼女はビニール傘を杖のようにつき、ぼんやりと信号機を見上げていた。
「優子ちゃん。……まだ帰ってなかったの?」
「あ、晶くん……」
彼女は弾かれたように僕を見た。その瞳は、千夜さんが見せていた不安とはまた質の違う、もっと暗くて、深い場所に根を張ったような│停滞を感じさせた。
「……ねえ、晶くん。雨ってさ、地面を洗って綺麗にするけど……。流された汚れは、どこに行くのかな」
唐極な問い。彼女の手は、制服のポケットの中にある「何か」を、強迫的に弄っているようだった。
「……見えない場所に溜まるだけだよ。下水とか、海の底とか。消えてなくなるわけじゃない」
僕がそう答えると、彼女は少しだけ悲しそうに笑った。
「……だよね。……私も、そう思う」
「今週末、光が丘のフリマに店を出すんだ。エミさんに誘われて。……もしよかったら、手伝ってくれない? お礼に、何か一つおまじないグッズをあげるから」
僕の誘いに、彼女は一瞬だけ躊躇いを見せた。けれど、すぐに小さく頷く。
「うん。……行く。……晶くんの作るもの、私、好きだから」
そう言って歩き出した彼女の背中は、雨上がりの街灯に照らされて、今にも溶けてしまいそうなほど頼りなかった。
彼女の心の中で鳴っている擬音が、まだ「ザワザワ」ですらなく、音の消えた│空白であることに、僕は気づかないふりをした。
いよいよ、梅雨が本格的に始まる。
湿った風が、僕のトランクに詰め込まれた「おまじない」たちを、静かに揺らしていた。




