迷える電気羊は、アンドロイドと夢を見るか
迷える電気羊は、アンドロイドと夢を見るか
5月中旬。梅雨入りを前にして、夜の空気はすでに夏の予行演習を始めていた。
アスファルトが昼間に吸い込んだ熱を吐き出し、街灯の周りには羽虫が重たく渦を巻いている。
僕は改修を終えたトランクを傍らに、いつものベンチに腰を下ろしていた。
新しく組み込んだ冷蔵ユニットは快調だ。かすかに聞こえるファンの排熱が、夜の静寂に溶け込んでいる。
「……暑いな」
額の汗を拭い、トランクに手をかける。
その時、並木道の暗がりから、ふらふらと頼りない足取りで近づいてくる影があった。
人影は、僕が掲げた「整理屋」の看板、淡く光るLEDのロゴの前で立ち止まり、じっとそれを見つめていた。
「……それ、電気使える?」
掠れた、小さな声。
見れば、パーカーのフードを被った中学生くらいの少女だった。
数日間、友人宅のソファーを渡り歩いてきたのだろうか。服には隠しきれない生活の皺があり、肩のリュックは重そうに形を崩している。
何より、手元にある│スマートフォン《Android》の画面が真っ暗なのが、彼女の不安を象徴しているようだった。
「はい。バッテリーがありますから、充電できますよ」
「……いくら? 今、あんまり持ち合わせないんだけど」
少女の瞳には、困窮と警戒が混ざり合っていた。
友人にも頼りづらくなり、かといって家に帰る踏ん切りもつかない。そんな「行き止まり」の顔だ。
「お金はいりませんよ。……今日だけは、サービスです。どうぞ」
僕はトランクから予備のケーブルを引き出し、彼女に差し出した。
少女は一瞬、戸惑うように僕を見たが、やがて吸い寄せられるようにベンチの端へ座り、スマホを繋いだ。
充電開始を示す小さな音が鳴り、画面に微かな光が戻る。それだけで、彼女の強張っていた肩の線が少しだけ緩んだ。
「喉、乾いてませんか」
「……別に」
強がりの返事。けれど、その唇は乾いて白くなっていた。
僕は何も言わずにトランクを開けた。
ふわりと溢れ出した冷気が、僕と彼女の間に漂う。
「……わ、涼しい」
少女が小さく呟く。僕はトランクの中から、冷えた自家製レモンティーと、はちみつジンジャーの瓶を取り出した。
「氷を入れて、冷たくして飲んでみて。暑さで溶けそうな心も、少し冷やせますよ」
僕は彼女の答えを待たず、静かに準備を始めた。
トランクの中で冷やされていたグラスが、外気との温度差ですぐに白い露を纏い始める。
「はちみつジンジャーレモンティーです。……少しだけ、休んでいってください」
差し出したグラスを、彼女はおずおずと受け取った。
一口含んだ瞬間、冷たさと甘さに驚いたように目を丸くし、それから慈しむようにゆっくりと飲み干した。
「……おいしい。生き返る」
その呟きを聞き届けながら、僕はトランクの奥から、まだ透明度の高い大きな氷の塊を取り出した。
「少し、占いをしてみませんか。今のあなたの、心の形を見るんです」
僕は、彼女に小さな真鍮のハンマーを差し出した。
少女は差し出された真鍮のハンマーを、壊れ物を扱うような手つきで受け取った。
僕は彼女の前に、浅いステンレストレイを置く。その上には、街灯の光を透かして青白く光る、一塊の氷。
「僕が占うのではなく、あなたが砕いてください。……今の気持ちのままに、一度だけ」
少女は戸惑いながらも、氷の冷たさに吸い寄せられるように、ハンマーを振り下ろした。
『パキン』という、硬質で涼やかな音が静かな公園に響く。
鋭く砕けた氷の粒が、火花のようにトレイに飛び散った。
大きな塊が中央に残り、その周囲を無数の細かな欠片が囲んでいる。少女は、自分が壊してしまった氷をどこか悲しげな目で見つめていた。
「……これ、どう見るの?」
僕はトレイに広がる氷の配置を、じっと観察する。
自分の主観を混ぜないよう、呼吸を整えてから、氷が溶け始める前の刹那の形を読み取った。
「砕けた氷が、四方八方にバラバラですね……。今のあなたの心が、あちこちに散らばって、どこに重心を置けばいいか分からなくなっている状態です」
少女の肩が、びくりと揺れた。
「でも……見てください。この真ん中の大きな塊」
僕は指先で、溶け始めた氷の中心を指した。
「これだけ強く叩いたのに、この一番芯の部分だけは、しっかり形を保っています。これは、あなたがどれだけ追い詰められても、絶対に譲りたくない『守りたいもの』が、まだちゃんと残っている証拠ですよ」
「守りたい、もの……」
彼女は自分の手元、充電が30%を超えたスマートフォンに視線を落とした。そこには、友人との思い出や、切り捨てられない日常の断片が詰まっているのだろう。
「家出をしても、友だちの家を転々としても……。あなたは、自分を完全に壊してしまいたかったわけじゃない。ただ、この芯を守るために、一度バラバラになるしかなかったんですね」
僕は短く言葉を切り、間を置いた。
夜風が彼女のフードを揺らし、トレイの上の氷が、静かに水へと戻っていく音が聞こえるような気がした。
「……優子ちゃんも、どこかで同じ気持ちを抱えているのかな」
不意に、独白のような言葉が口をついて出た。
彼女と同じように、どこにも帰れず、けれど「自分」という芯だけは捨てられずに、ただ静かに削られていく同級生の横顔を思い出す。
少女はしばらく沈黙していた。やがて、トレイの水を指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「……私、もう一度、連絡してみようかな。お母さんに」
それは決意というほど強いものではなかったけれど、少なくとも、行き止まりの壁を叩く音ではあった。
「いいと思います。氷も溶けきれば、ただの透明な水になりますから。また新しい形を、作り直せますよ」
少女はゆっくりと立ち上がり、充電ケーブルを僕に返した。スマホの画面には、誰かからの着信通知がいくつか灯っていた。
「……あの。またここに来てもいいですか?」
「ええ。いつでも来てください。次は、もう少し冷たい飲み物を用意しておきます」
少女は小さく頷くと、来た時よりも少しだけ確かな足取りで、街灯の向こうへと消えていった。
僕は一人、残されたトレイの水を片付ける。
5月の夜風は、先ほどよりも少しだけ涼しく感じられた。
「夏が本格的に来る前に……もっと拠点を強くしないとな」
大学進学の調査票を出し終えた今、僕はこの整理屋という場所を、もっと誰かのための「冷たい避難所」として完成させたいと考えていた。
来月には、夏至がやってくる。




