氷の結晶、八雲の沈黙
氷の結晶、八雲の沈黙
僕はそう言い残し、夕闇が迫る公園の奥へと、キャスターの音を響かせながら進んでいった。
光が丘公園の北端、牛房口。
公園を一周する大きな通りを渡ると、そこには住宅街の隙間に押し込められたような、細長い遊歩道が続いている。
華やかな噴水広場や、若者たちがダンスに興じるIMA付近の喧騒とは対照的に、ここは街灯も疎らで、深い木々に覆われた静寂が支配していた。
夕立の直後ということもあってか、水音はいつもより高く、湿り気を帯びた風が谷底から吹き上がってくるようだった。
ふと、沢の縁に置かれたベンチに、人影があることに気づく。
年の頃は七十を越えているだろうか。仕立ての良い、けれど随分とくたびれた麻のジャケットを羽織り、膝の上には古びた一冊の本を広げている。
この暗がりで文字が読めるとは思えないが、老人の眼差しは、紙面ではなくその先にある水の流れをじっと見つめていた。
「おや? 若い方が来るのは珍しいですね」
不意にかけられた声は、掠れてはいるが、不思議と周囲のせせらぎに溶け込むような穏やかさを持っていた。
僕はトランクを止め、軽く会釈をする。
「……こんばんは。少し、涼みに来ただけです」
「涼む、ねえ。確かにこのあたりは、公園の中でも一番風が抜ける。……特に雨上がりは、土の下から這い出してきた連中の声がよく聞こえるんですよ」
老人はそう言って、膝の上の本を指先でなぞった。
よく見ると、それは市販の本ではなく、手書きのスケッチや座標がびっしりと書き込まれたフィールドノートのようだった。
傍らには、古びたルーペと、昆虫採集に使うような小さなピンセットが置かれている。
「この沢の植生は、かつての武蔵野の記憶をわずかに残していましてね。それを記録するのが、私の……まあ、終わりのない仕事のようなものでして」
老人は、僕の藍色のローブと、重厚なトランクに視線を移した。
その瞳は、ミクロの世界を覗き込み続けてきた者のように、鋭く、それでいてどこか冷徹な光を宿している。
「その格好……。何かを『運んでいる』人のようですね。物理的な荷物ではなく、もっと別の、重たい何かを」
僕は思わず、トランクのハンドルを握る手に力を込めた。
占い師、あるいは整理屋。そう自称する僕を、この老人は「運び屋」として捉えたらしい。
「……整理屋、と名乗っています。中身は、飲み物と、少しばかりの道具ですが」
「整理、ですか。いい言葉だ。ですが気をつけなさい。重い荷物を運ぶ者は、自分自身の重さを忘れがちになる。あるいは、荷物に魂を吸い取られていることに気づかない」
老人は再び、水の流れに視線を戻した。
そこには、夕立の泥を孕んで複雑な渦を作る水の流れがあるだけだ。
「この沢の先には、古い神々の忘れ物があると言われていましてね。……お若いの、貴方が探している『答え』も、もしかしたら下流にあるのかもしれない」
「下流……。八雲神社のあたり、ですか」
僕が問い返すと、老人は小さく、意味深に口角を上げた。
八雲神社。スサノオを祀り、かつてこの地の災厄を食い止めていた古社。
「神様というのは、忘れられることを一番嫌うものでしてね。……優子さん、だったかな。あの子のステップがなぜあんなに急いているのか。貴方のトランクの氷が解ける前に、確かめてくるといい」
老人の口から出た名前に、背筋に冷たいものが走った。
なぜ、この人が優子の名前を。
問い質そうとした瞬間、強めの風が吹き抜け、街灯が一つ、瞬きをするように明滅した。
光が戻ったとき、僕の目の前には、湿ったベンチと、沢のせせらぎだけが残されていた。
牛房口の坂を下り白子川を挟んで丘陵を昇るにつれ、空気の密度が変わるのを感じた。
先ほどまでの公園の開放的な闇とは違い、湿った土と古い木々が吐き出す、濃密な夜の気配。
辿り着いた八雲神社は、小さな丘の縁にひっそりと鎮座していた。
夕立に洗われた石段は、街灯の光を鈍く反射して黒光りしている。手水舎の龍の口から滴る水音が、メトロノームのように規則正しく静寂を刻んでいた。
鳥居をくぐると、ふと妙な違和感に足が止まった。
境内は、清掃したての瑞々しさはない。けれど、不自然なほどに凪いでいた。
夕立の後だというのに、落ち葉の吹き溜まりも深い水たまりもなく、あるべきものが収まっている。
何かが失われることも、新しく生まれることも拒んでいるような……停滞した均衡。
老人の言葉が耳の奥で蘇る。
『神様というのは、忘れられることを一番嫌うものでしてね』
ここは、誰かが忘れさせないために、必死に時間を止めている場所だ。
僕は拝殿から少し離れた、末社へと続く石段の脇にトランクを置いた。
トランクを開くと、冷却ユニットの僅かな駆動音が、神域の沈黙を汚すように響いた。
今日は客のためではなく、僕自身の「現在地」を確かめるために、一つだけ儀式を行うことに決めた。
――氷柱占い。
師匠からは、自分のことや身近な人間を占うなと釘を刺されている。主観という名のノイズが混ざり、都合のいい解釈という毒を盛るからだ。
だからこれは、未来を予言する「占い」ではない。
この場所の空気と、僕が持ち込んだ温度が、どう反応するかを確かめるだけの、ただの観測。さっき出会ったおじいさんのイメージがそう思わせたのか
そう自分に言い聞かせた。
トランクから、まだ角の鋭い大きな氷塊を取り出す。
小さな真鍮のハンマーで、その中心を丁寧に叩いた。
『パキッ』と、乾いた音が境内に木霊する。
砕けた氷をカップに入れ、残ったはちみつジンジャーを注ぐ。
そして、手元に残った「溶け残りの氷」を、トランクのステンレストレイの上に置いた。
トランクから冷気が漏れているはずなのに、氷の表面が異様な速度で滲み始めた。
外気はそれほど高くない。なのに、内壁にうっすら水滴がつき、氷の鋭い角が、何かに削り取られるように丸くなっていく。
「……拒まれている、のか」
いや、違う。
僕はトレイの上の氷を、吸い込まれるように見つめた。
氷が溶け、トレイに広がる水はどこまでも透明だ。
そこに映っているのは、優子のダンスそのものだった。
彼女のステップには、プロを目指す者のような「野心」も、何かを伝えたい「叫び」も混ざっていない。
ただ、学校に行けない空白の時間を、自分が空っぽであることを忘れるために、肉体を極限まで動かして塗りつぶしているだけ。
それは、完成に向かう研鑽ではなく、「何者でもない自分」を削り落として消滅へ向かう作業に見えた。
彼女は削られているんじゃない。
最初から、形を保つための「芯」になる熱がないんだ。
老人の言った『氷が解ける前に』という言葉が、不吉な手触りで腑に落ちた。
彼女の形がなくなる前に。全部が溶けて、ただの水に戻ってしまう前に。
「整理……できるかな。中身が空っぽのものを」
僕は飲みかけのカップを置き、トランクの蓋を閉めた。
氷はもう、ほとんど形を留めていない。
整理屋の仕事は、あるものを並べ替えることだ。
けれど、もし彼女が「何もないこと」に絶望しているのなら。
僕はその空っぽの器に、せめて一杯の温かい飲み物を注ぐことしかできない。
藍色のローブの裾が、夜風に冷たく揺れた。
「……行こう」
僕は闇の奥、優子が一人で戦っている「忘れられた時間」の中へ、一歩を踏み出した。
未来という名の、透明な欠落を確かめるために。




