優しき少女と狂信者
小難しい心理学を交えつつ話は進みます。(後半部分は特に心理学に宗教と魔術の混雑した内容ですので、そうした事柄に詳しい方もそうでない方も、あまり真剣に受け取らないようお願いします)
体を蝕む疲労と苦痛により意識を失った俺は、その日も壁に拘束されたまま冷たい部屋に取り残された。
聖なる罰という名の拷問は停止したが、えぐり取られた眼球は二度と戻ってはこない。
その痛みが今は和らいでいた。──左目を開けると、そこには治癒師の少女が立っていて、俺の顔の前に手を翳し、回復魔法を掛け続けていた。
「……もういい」
俺が目を覚ましたのを知ると、少女は驚いた様子で一歩離れた。部屋の奥には椅子に腰かけた男が一人、腕組みをして船を漕いでいる。
傷口は完全に塞がっていたが、痛みは当分の間ぶり返しそうだった。
眼球をえぐられるという痛みと喪失感は、俺に憎しみを抱かせるのに十分すぎるものだった。
いち早くこの場所から抜け出さなければならない。──でなければ間違いなく神殿に連行され、そこで殺されるだろう。
幸いファーレーフが吹き続けていた為に、俺の情報がこの砦より外に漏れる心配はない。
ここに居る連中同士の話では、今日明日にでも猛吹雪は止むと予想していた。────時間はない。
なんとか必要な物を獲得する手段を考えなければ。
そんな事を考えていると、少女は申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「……ごめんなさい。まさか目をえぐり出すなんて、そんな残酷な事をする人たちだとは」
「君は秩序団についてなにも知らないのか。国外にも彼らの非情さは伝わっているというのに」
「まさか秩序団の人たちがそんなにも冷酷だなんて……」
「君はネシス派か、それともマギビス派か?」
「ネシス派です。ここの人たちはアドン派が多いと聞いていましたが、まさかそれが……」
彼女もうっすらと感づいていたらしい──アドン派の連中の危険性を。
少女の体は震えていた。寒さだけが原因ではない様子だ。その震えは、仲間だと思っていたものに対する恐怖心が芽生えた所為だろう。
それは彼女の中で、信仰心と自我の対立が起こっているのを意味していた。
彼女が理想とする信仰の道と、実際に歩んでいる道との違和感に、少女の理念と自我が軋轢を感じているのだ。
そうした意識が生まれるのは、彼女が正常な証だ。
自身の活動の基盤となる理念が揺らいでいる時、それを直すのもまたその本人の意志なのだから。
自身の本質的な意思である個我(上位意思)と、表層的な自我のぶつかり合いでなにを選び取るか。
多くの人間はそこで安易な選択をする。大抵は妥協的な協調性に加わったり、同調圧力に呑み込まれるのだ。
自らの知性にも理性にも自信の持てぬ者は、たいがい安易な思い込みで自らの姿を偽る。
それは弱者特有の精神活動であり、自分が特別であると思いたがる幼児性から抜け出せなくなるのだ。
そうして作り上げた彼ら自身という幻想は、神という壮大な非現実の幻想を確固たるものとして自らに結びつけようとする。
それが不可能ごとであるのは誰の目にも明らかだというのに、幻想の中の彼らはそれが可能だと信じて止まない。
彼らはその幻想に取り憑かれ、その為の行動すべてを善であると思い込む。
たとえそれが外部の人間にとって明らかに害悪な活動に見えていても、彼らには関係がない。
(神と共にある)自分がなにより正しいのだから。
神と結びつけられた自我はどこまでも膨れ上がり、自己の傲慢さを尊い行為だとでも認識してしまうのだ。──神の意思を代行する騎士だとでも言うように──
だから彼らは自分に同意し、同調するもの以外を認めないのだ。
「絶対的に正しい神の僕たる自分たちは神のように正しい」という訳だ。
これほど馬鹿げた話があるだろうか。
誰もその正しさの根拠である神の存在を証明できないのに、すべての責任をその不明瞭な存在に押しつけ、自分たちには責任がないとでもいった態度でいるなど、それはもはや邪悪な意思(存在)そのものではないのか。
「秩序団に入る時に友人たちから止められていたのですが、彼女らの言葉をもっと汲み取るべきでした……」
少女は現在の己の立ち位置に不安を感じ始めているらしい。
友人たちのした噂話をただの噂だとするには、彼女はもう深く秩序団に関わり過ぎていた。
猛吹雪に閉ざされたこの建物の中で俺たちは沈黙し、ドアの外から聴こえてくる小さな風の音に身を震わせた。
「君は秩序団など抜けて、もと居た場所に戻るべきだ。レファルタ教の中でも特別に盲目的な信徒たちに影響されて、己の信仰を裏切る前にな」
彼女は俺の言葉を受けてもうなだれたままだった。反論しようなどとは思いも寄らない様子だ。
すでにこの少女の中では、秩序団の仲間たちについていけないという気持ちが大半を占めているようだった。
「おい、なにをしている」
壁際の椅子で寝こけていた男が目を覚ますと、開口一番でそう言ってきた。
その男は見張りの役目を負った兵士というよりは、神官に近い身なりをしている。外套の下に防具となるような物は身に着けておらず、厚手の生地を使った白い法衣を着込んでいた。
立ち上がった男は俺と同年代くらいに見えた。
いささか痩せぎすで、この部屋の寒さに凍えているのは一目瞭然だった。
「その男と口を利くな」
吐き捨てるように言う男は、アドン派の神官であるようで、腰からは金属の鎚を下げている。
いかにも人を信用しなさそうな顔つきの男は、神経質で臆病そうに視線を彷徨わせ、俺に視線を向けると「嫌なものを見た」とでもいった具合に表情を歪ませた。
「邪神の配下の者と会話などするな、穢れるぞ」
「そんなこと……」
少女が反論しようとすると、男の表情に狂気に似たものが浮かんだ。
「そんなこと──、だと? その言葉の続きはなんだ!? そんなことはない、とでも言うつもりか!」
その男の大声は部屋の中に反響したが、他の部屋まで伝わるような力はなかった。
もともと声量の弱い男の声には覇気もなく、弱々しい姿と声から、まるで飢えた野犬を思わせた。
こいつらはどいつもこいつも、まるで違いのない反応をするようだ。自分たちの同胞から異論が出るのをなによりも嫌っているらしい。
「うるさいな、静かにできないのか。野良犬のように喚くんじゃない」
「なんだと!」
思わず叫んだ男の表情には、怒りと同時に俺に対する恐怖が滲んでいた。
邪神の配下に対する嫌悪以上に、邪眼を持っていた者への恐怖があるのだろう。
「虜相手にそんなに怯えるなよ。あんたは神官なんだろ? どうか俺に、あんたらの信仰について教えてくれないか」
俺の言葉に男は興味を引かれた様子だった。
邪神に仕えていた男を鞍替え(宗派替え)させ、自分の信仰が正しいのだと確認したいらしい。
その為に奴は己の学び得てきた叡智(神学)の力で、邪神の信奉者がいかに許されざる存在かを説こうとしている顔をしていた。──甘い認識だと言わざるを得ないが──
その表情はいかにも挑戦的で、狡猾そうな詐欺師の心の内を曝け出しているかのようだった。
奴らが他宗教を排撃してきたのは、神の教えと言いながら、その神が実際には誰にも姿を見せない事への懸念がある為だろう。
彼らの中には常に迷いと葛藤がある為に、そうしたものに心を囚われない為にも、異なる信仰対象や思想を認めようとはしないのだ。
外部への攻撃的な否定は、そうした不安の裏返しに過ぎない。
自身の信仰するものへの揺らぎ(迷い)。それを直視できない弱い者はそこ(教義の矛盾点など)から目を背ける為に、別のものへとその矛先を向けるのである。
そうして作られるのが「敵(異端)」なのだ。
他人の中にある認められないものとは、己の中にある否定的な部分が投影された影に過ぎない。それは魔術師ならば誰でも理解しているものだ。
否定しようと思えば思うほど、その意識は己の中に影を定着させ、それを他者に投影してはさらなる否定の衝動を形成していく。
そして自我だと思っていたものは影に支配され、個我もまた忘却の中に没してゆく。影に呑み込まれた自我は個我にとって、もはやなんの価値もないものとして棄てられ、意識領域から遠ざかってしまう。
自我が個我との連結を失った時、上位世界への鍵も失うのである。
彼は二度と神(上位意識)に触れる機会を失い、惑いと不安と不条理な怒りに包まれ、争いや喪失の中でもがき続けるのだ。
こうして自身の影に敗北した者は、外部に憎しみと悪意を振り撒く存在となる。
なにかを正しいものとして、それ以外を悪だとしたがる者の多くはただ単に、保身の為に口実を必要とし、自らの平安を守ろうとして他者を攻撃するのだ。──そうしている時だけ彼の中にある悪意は、自我に平穏を感じさせるのである──その平安がそもそもまやかしであるとは気づこうともせずに。
偽りの揺り籠の中で安らぎに浸る為に、そういった連中は攻撃するなにかを常に求めている。
平穏無事な世界を求めながら、いつも敵意や不満を抱えているという矛盾に、彼らは絶対に気づけないのだ。
個我を「上位意思」とするのは誤りかもしれませんが、ここでは「神のごとく魂もまた光であり闇である」といった意味合いで個我を上位意思として捉えています。上位意思とは、下位世界に囚われずに存在する魂としての自己(霊的に上位の自己)、といったものを想像していただければ。




