本人記述保持欄は、本人確認印の有無だけで無効にできません
王宮書記の紙片には、赤い細線で欄が引かれていた。
『本人記述保持欄は、本人確認印のあるものに限り有効』
リディアは、紙の端を持ち上げた。赤線はきれいだった。誰が見ても、どこに印を押せばよいか分かる。
けれど、机の上には印を押せないものがあった。
エダの署名は、雨で少しにじんでいる。カイルの帰宅灯札には、灯油の匂いがついていた。ニアの薬薪札には、薪屑が一粒ついている。メイの母の匙の横札には、小さな指で押さえた跡が残っていた。
書記は、慎重に言った。
「本人確認印がなければ、後で別人の記述と区別できません。王宮としては、印のあるものだけを有効にしなければ」
「本人確認印は、必要です」
リディアがそう言うと、書記は一瞬だけ安堵した。
「では」
「ただし、印は本人の言葉を探すための目印です。本人の言葉を消すための蓋ではありません」
リディアは、エダの賃金袋を赤線の下へ置いた。
袋の受取欄には、まだ乾ききらない字で『エダ・ミルン、今夜受領』とある。王宮の本人確認印はない。だが、袋の中には銅貨があり、戸口の向こうには、今夜の寝床代を待つ宿の灯りがある。
「この字が本人のものかどうか、印だけで決めるなら、エダの今夜は明朝まで閉じられます」
「偽造の恐れがあります」
「だから、印以外の確認欄を作ります」
リディアは余白に三つの欄を書いた。
『本人発声』
『現場到達』
『補助証言』
エダは、濡れた袖を握ったまま、一歩前へ出た。
「私は、今夜、名を呼ばれて受け取ります。寝床代にします。明朝の照合まで、扉の外で待てません」
リディアは、その言葉を『本人発声』へ写した。賃金袋の紐をほどき、銅貨の数をエダと書記の前で数える。
「賃金袋が本人の手に届く。これが現場到達です。宿の扉が閉まる時刻も、生活影響明細に添えます。印がないから無効ではなく、印がない時に何で本人と生活到達を確認するかを記録してください」
エダは自分の名をもう一度言い、銅貨を受け取った。濡れた署名の横に、書記はしぶしぶ『本人発声確認』と細く書いた。
次に、ニアの薬薪札が残った。
「ニアには王宮印がありません」
書記の声は、少し弱くなっていた。
「でも、薬薪の時刻を見ています」
リディアは小竈を振り返った。ミラの夜薬は、まだ細い湯気を上げている。泡は消えかけていたが、ニアが選んだ薪で、鍋の縁にもう一度白い輪が戻った。
「本人確認印がない子の字でも、現場で薬が冷める前に届くなら、生活到達の証言です。王宮印が後で必要なら、後で写しに添えればいい。今この湯気を、印が来るまで無効にしてはいけません」
ニアは小さく頷き、薪箱の数を指で示した。
「細薪、あと二本。これで夜明け前まで保ちます」
リディアは『現場到達確認――ミラ夜薬、湯気維持』と書き、ニアの札をそこへ留めた。
カイルは帰宅灯札を持って戸口に立っていた。
「俺は行っていいのか」
「行ってください。灯りを点ける前に本人確認印を取りに戻ったら、帰る前の灯りではなくなります」
カイルは短く笑い、灯油小瓶を握って外へ出た。戸口の雨が開き、すぐに西三つ角の方へ足音が遠ざかる。
メイは、母の匙を両手で包んでいた。
「これは、誰の鍋か間違えないためです。私の印がなくても、匙を閉じる順へ入れない理由です」
「その理由も残します」
リディアは、母の匙の横札に新しい行を足した。
『本人記述保持欄。本人確認印未着。現場用途確認済。閉鎖順編入不可』
王宮書記は、赤線の紙片を見下ろした。
「これでは、印の意味が薄くなります」
「薄くしません。印は、後で同じ本人記述を探すために使います。偽造を防ぐためにも使います。遠い写しを照合するためにも使います」
リディアは赤線の横に、もう一本、青い細線を引いた。
『本人確認印:照合用。未着時は本人発声・現場到達・補助証言を添えて保留有効』
「でも、印がないことだけを理由に、今夜の賃金、薬薪、帰宅灯、母の匙の理由を無効にはできません。本人の言葉は、印が押されて初めて生まれるのではありません。生活へ届く途中にあるから、印であとから探せるようにするんです」
エダは銅貨を胸に抱き、ニアは小竈の火を見た。外では、西三つ角の灯りが一つ点いた。メイは母の匙を閉鎖順の束から離したまま、青紐の内側へ戻した。
赤線の紙片は捨てなかった。
リディアはそれを、索引用の束に綴じた。ただし、赤線だけでは生活欄を閉じられないよう、青線の保留条件を上に重ねた。
その時、書記が最後の紙を取り出した。
『現場到達確認欄は、王宮指定立会人の署名があるものに限り有効』
リディアは、小竈の湯気と、雨の中で点いた西三つ角の灯りを見た。
「では、夜薬が冷める前に、その立会人はここへ来られるのですか」




