署名欄の花文字は、妹の声ではありません
北門施療院の朝粥は、薄める順番を間違えると、すぐに水の味になる。
私は小鍋の底を木べらでなぞり、麦の粒がほどけたところで火を弱めた。ミラの椀には塩を控えめに、夜勤明けの門番二人には少しだけ干し肉を足す。院長先生の分には薬草の苦味を消すため、最後に刻んだ葱を落とす。
「リディアさん、薪箱、残り三束です」
トマが蓋を開けたまま報告した。
「今夜の夜薬、明朝の粥、薬棚を洗う湯。ぎりぎりですね」
「だから、謝礼の到達確認が今日中に必要なの」
そう答えた時、表の扉が短く一度叩かれた。
昨日と同じ、王宮職員の音だった。けれど入ってきた厨房書記は、灰色の外套の下にもう一通、赤い封蝋の封筒を挟んでいた。
「リディア・ローゼ様。監督官セレスティアより、料理責任者署名の本人確認票をお持ちしました」
書記は机の上に王宮の紙を置き、その横へ赤い封筒を置いた。
「同時に、ヴェルナー伯爵家より追伸です。マリベル嬢は体調不良のため、父エルンスト卿が代理確認を行う、と」
トマの手が薪箱の縁で止まった。
奥の寝台で、ミラが半分だけ身を起こす。
私は椀を配る手を止めなかった。
「本人確認は、食べる手を止めない形で行います。ミラ、先に半椀」
「……はい」
ミラが両手で椀を受け取る。湯気が彼女の頬を少しだけ赤くした。それを見届けてから、私は手を洗い、王宮の紙を開いた。
本人確認票。
一、署名者は、料理責任者欄の意味を読んだか。
二、署名者は、薬粥到達先を確認したか。
三、署名者は、謝礼到達先が今後の薬材・薪・朝粥へ影響することを理解したか。
きれいな欄だった。昨夜の伯爵家書類よりずっと短い。けれど、読むべき場所がある。
書記が眼鏡を上げた。
「通常なら筆跡照合で足ります。ですが、監督官は『料理責任者の署名は、筆の形ではなく声で照合する』と」
私はうなずいた。
「花文字は整っていました。でも、料理責任者の声がありませんでした」
赤い封筒を開く。
中には、父の字で書かれた追伸があった。
――マリベルは伯爵家の娘であり、家長の判断に従う。本人確認は家長代理で完了とする。
その下に、もう一枚、小さな紙が挟まっていた。薄桃色の便箋。端が少し濡れて、文字が滲んでいる。
――お姉様。私は、昨日の紙に何が書かれていたのか知りません。父に、名前の練習だと言われました。王宮の火のことも、謝礼のことも、聞いていません。
最後の一行は、ためらうように細かった。
――私の字で、誰かの薬がなくなるのですか。
部屋の空気が、竈の前だけ静かになった。
トマが小さく言う。
「マリベル様、知らなかったんですか」
「知らなかった、だけでは足りません」
私は便箋を折らずに、本人確認票の横へ置いた。
「知らないまま名前を使われた。そのまま完了にしてはいけないんです」
レナードが昨日持ってきた花文字の写しも並べる。桃色の飾り字は、確かに華やかだった。舞踏会の招待状なら褒められたかもしれない。
でも、火の前で責任を持つ字ではない。
私は書記へ向き直った。
「確認します。マリベル・ヴェルナーは、王太后陛下の薬粥が誰の喉へ届いたか、確認していません。北門施療院の夜薬が謝礼に依存していることも、知りません。料理帳返還が、今夜の薪と薬材へ影響することも、説明されていません」
院長先生が会計帳を開き、薪箱の横に置いた。
「北門施療院としても証言します。昨夜から今朝にかけて、謝礼到達先が未確定のため、薬材の発注を半分に抑えています。ここで代理署名を有効にすれば、今夜の夜薬が減ります」
「父の代理確認は」
書記が父の追伸を見た。
「家長権限として提出されています」
「では、その権限が動かすものを、ここに書きましょう」
私は新しい紙を取り、三つの欄を作った。
料理責任者予定者。
謝礼受領予定者。
料理帳返還予定者。
その横に、それぞれ生活語で書き直す。
火の前で、食べる人の喉に責任を持つ人。
今夜の薬材と薪を受け取る先。
料理帳を、食べる人の利益のために読める保管先。
「家長権限という言葉だけでは、誰の薬材を動かすのか見えません」
私は父の追伸の下へ、青い木札を置いた。
「エルンスト・ヴェルナー代理確認、生活影響明細未添付。マリベル本人確認、未了。代理署名、有効化不可」
書記の筆が止まった。
「その文言で、王宮控えに入れます」
「お願いします」
ミラが椀を両手で包んだまま、ぽつりと言った。
「じゃあ、私の夜の薬、なくならない?」
私は彼女を見る。
「今日の分は、なくさせません」
大きな勝利ではない。伯爵家が反省したわけでも、父が謝ったわけでもない。けれど、今日の夜薬は薄めずに済む。トマが薪を数え直す必要も、院長先生が明朝の粥を半分にする必要もない。
書記は本人確認票の署名欄に、朱で書いた。
――本人確認未了。代理署名扱い不可。
その下に、私が青い木札を添える。
――署名欄の花文字は、妹の声ではありません。
私は妹を許したわけではない。
羨ましさや怒りが消えたわけでもない。マリベルは、私の仕事を飾りとして欲しがった。私の婚約者を奪うことに笑った夜もあった。
それでも、読んでいない欄で誰かの夜薬を奪わせることと、妹を責めることは同じではない。
花文字は、声ではない。
声がないなら、空白として守る。
書記が封筒をしまおうとした時、赤い封筒の底からもう一枚、厚い紙が滑り落ちた。
伯爵家会計の控えだった。
――晩餐会補填費。銀皿破損、客対応、名誉損失。王宮謝礼より相殺予定。
その下に、父の印。
相殺予定額の横には、北門施療院へ届くはずの謝礼と同じ数字が書かれていた。
私は薪箱を見た。
三束。
今夜の火と、明朝の粥と、薬棚を洗う湯。
伯爵家の補填費は、紙の上では銀皿の損かもしれない。けれど、この部屋では違う。
「これは、銀皿の傷ではありません」
私は控えを机に置き、薪箱の蓋を閉めた。
「今夜の薪を、父の印で食べようとしているんです」




