補填費は、今夜の薪を食べられません
薪箱の中には、三束しかなかった。
私は蓋を閉めた手を、そのまま少しだけ置いておいた。木の冷たさが掌に移る。伯爵家会計の控えは、机の上で乾いた音を立てていた。
――晩餐会補填費。
――銀皿破損、客対応、名誉損失。
――王宮謝礼より相殺予定。
紙の上では、きれいな言葉だった。
けれど北門施療院では、違う。
「トマ。三束の行き先を、もう一度」
「はい」
トマは薪箱の前に膝をつき、一本ずつではなく、束ごとに指を置いた。
「一束目、今夜の夜薬を温め直す火。二束目、明朝の粥。三束目、薬棚を洗う湯です」
奥の寝台で、ミラが毛布の中から目だけを出した。
「夜の薬、冷たいと……苦いです」
「冷たくしません」
私はそう答えてから、伯爵家会計の控えを王宮書記の前へ押した。
灰色の外套を着た書記は、さっきから筆を持ったまま動けずにいる。父エルンストの印が押された紙と、薪箱と、ミラの寝台を順番に見ていた。
「リディア様。伯爵家側は、王宮晩餐会で発生した損失を、王宮謝礼と同一案件として処理すると」
「同一案件ではありません」
私は控えの余白に、短く線を引いた。
「銀皿が傷ついたこと。招待客へ謝ったこと。伯爵家の名誉が損なわれたこと。それらが事実かどうかは、ここでは争いません」
レナードが息を吸う音がした。まだ扉のそばに立っている。帰る理由を失ったような顔だった。
私は続けた。
「けれど、それを北門施療院へ到達する前の謝礼から相殺するなら、動くものはお金ではありません。今夜の薪です」
院長先生が会計帳を開いた。
粗い紙の上には、昨日から今日にかけての小さな数字が並んでいる。薬草、小麦、塩、乾いた枝。伯爵家の銀皿よりずっと安い。けれど、ここでは一行でも欠けると、誰かの喉が困る。
「北門施療院会計として確認します」
院長先生は筆を取った。
「王宮薬粥依頼の謝礼は、到達確認後、今夜の夜薬、明朝の粥、薬棚洗浄に割り当て済みです。相殺されれば、夜薬加温が不足します」
「不足では弱いです」
私は首を振った。
「何が消えるか、名前で書きましょう」
新しい紙を一枚、机へ置く。
生活影響明細。
一、銀皿破損費として相殺した場合――今夜の夜薬を温め直す薪一束が消える。
二、客対応費として相殺した場合――明朝の粥の麦と火が減る。
三、名誉損失として相殺した場合――薬棚を洗う湯が沸かせない。
書き終えると、部屋の中で紙だけがやけに白く見えた。
「補填費は、伯爵家の机では数字です」
私は父の印を指さした。
「でも、この部屋では、今夜の薪を食べます」
レナードが小さく言った。
「伯爵は、そんなつもりでは」
「つもりの欄はありません」
私は赤い封蝋の下へ、青い木札を置いた。
「食べる人の欄があります。火の欄があります。帰院確認の欄があります。そこを読まずに相殺するなら、つもりではなく、結果で確認します」
トマが薪箱から一束を抱え上げた。
細い腕には少し重い。けれど彼は落とさず、竈の横へ置いた。
「これは、今夜の分です」
「はい」
私はうなずいた。
「今夜の分は、相殺対象外。まずそこだけを保留します」
王宮書記がようやく筆を動かした。
「王宮厨房監督官控えに入れます。ヴェルナー伯爵家晩餐会補填費、生活影響明細未添付につき、北門施療院夜薬加温薪一束への相殺不可。王宮謝礼の到達先確認まで、相殺保留」
言葉は長い。
でも、火を守るには、長い言葉が必要な時がある。
ミラが毛布の中で、ほっと息を吐いた。
「じゃあ、夜の薬、温めて飲める?」
「飲めます」
院長先生が薪束の横に小さな丸を付ける。
「今夜分、確保」
それだけの丸だった。
伯爵家が負けたわけではない。父が謝ったわけでもない。銀皿の傷が消えたわけでもない。
それでも、今夜の火は消えない。
トマが竈に細い枝を入れると、昨日から残っていた赤い種火が、ぱち、と音を立てた。私は小鍋に夜薬を移し、焦げないように底をなぞる。薬草の苦味が、湯気にまじって少し丸くなった。
ミラの手が、椀を受け取れる形に出てくる。
「熱すぎないようにします」
「はい」
その声を聞いてから、私はマリベルの薄桃色の便箋を見た。
――私の字で、誰かの薬がなくなるのですか。
「妹のために保留するのではありません」
私は書記へ言った。
「マリベルを許したわけでも、彼女が何もしていないと言うわけでもありません。けれど、読んでいない名で今夜の薪を消させることはできません」
書記は静かにうなずいた。
「本人確認未了の欄も、相殺保留の根拠に添付します」
「お願いします」
花文字は、声ではない。
そして、声のない署名で、火を消してはいけない。
レナードがようやく扉から離れ、机の前まで来た。彼は伯爵家会計の控えを見下ろし、眉を寄せる。
「リディア。君は、伯爵家の損失を全部、北門施療院へ押し付けるなと言っているのか」
「違います」
私は夜薬の椀をミラへ渡した。
「食べた人、飲む人、火を守った場所へ先に届かせてください、と言っています」
ミラが椀に口をつけた。
湯気で少しだけ目を細める。
「……あったかい」
その一言で、相殺保留の札は紙ではなくなった。
今夜の火になった。
王宮書記は控えをまとめ、赤い封筒の底を確かめた。すると、折り込まれていた別紙が一枚、机の上へ滑った。
古い帳簿の写しだった。
表題には、伯爵家台所会計、とある。
その一番下の行に、見覚えのある母の字が細く残っていた。
――薪を買った者の名ではなく、火を失う者の名を先に書くこと。
その横には、父エルンストの太い印で、別の言葉が重ねられていた。
――家内労働につき、謝礼不要。
私は椀を持つミラの手を見た。
温かい。
けれど、母の料理帳の火は、もっと前から紙の上で食べられていたのかもしれない。
「次は」
私は古い台所会計の写しを、青い木札の下へ置いた。
「母の火を、誰の無償欄に入れたのか確認します」




