台所会計の無償欄は、母の火を閉じられません
夜薬の椀が空になっても、薪束はまだ一本、竈の横に残しておいた。
トマが不思議そうに見る。
「リディア様。今夜分は、もう温め終わりました」
「終わっていません」
私は薪束を薪箱へ戻さず、青い木札の上に置いた。
木札には、さっき王宮書記が書いたばかりの字が乾きかけている。
――相殺保留。夜薬加温薪一束。
火は使えば終わりではない。薬を飲んだ子が眠り、夜番が小鍋を洗い、明け方にもう一度、喉が痛む人へ湯を渡せるところまで続いている。
だから私は、古い伯爵家台所会計の写しを、薪束の隣へ並べた。
母の細い字。
――薪を買った者の名ではなく、火を失う者の名を先に書くこと。
その上から、父エルンストの太い印が押しつぶしていた。
――家内労働につき、謝礼不要。
王宮書記は息を止めるようにして、その二行を見た。
「これは、ヴェルナー伯爵家の内部会計です。王宮謝礼とは別件に見えますが」
「別件にしたから、閉じられたのです」
私は母の字を指でなぞらないよう、少し離して見た。紙は古く、角が毛羽立っている。けれど火を失う者の名、という一行だけは、昨日書かれたように目に入った。
「家の中だから無償。母だから無償。娘だから無償。そう押せば、誰が食べたか、誰が温まったか、誰が夜を越えたかを数えなくて済みます」
院長先生が、施療院の夜番表を机へ置いた。
「北門施療院の夜番表です。今日、夜薬を温めた火は、ミラ、ガストン老人、南門から来た荷運び人の喉へ届きました」
トマが小さく手を上げる。
「あと、薬棚を洗う湯もです。冷たいままだと、苦い匂いが残ります」
「ありがとう」
私は新しい紙を出した。
生活影響明細、と上に書く。
一、家内労働につき謝礼不要と処理した場合――火を起こした者の名が消える。
二、火を起こした者の名が消えた場合――薬粥を食べた者の到達確認が、家名の手柄欄へ吸われる。
三、到達確認が吸われた場合――次の夜に火を失う者の名が、先に書けなくなる。
王宮書記の筆が、私の紙を追って動き出した。
「リディア様。つまり、無償欄そのものを無効にするのではなく」
「無効にしたいわけではありません」
私は首を振った。
「家族が家族へ作った一皿まで、全部、銀貨で払えと言っているのではありません。けれど父の印は、母の火を閉じるために使われています。閉じたなら、どの火がどこへ届いたのか、最後まで書かなくてはいけません」
レナードが、古い写しを見つめていた。
「君のお母上は、伯爵家の晩餐を支えていた。そういう話なら、謝礼や名誉の問題になるのではないか」
「名誉にすると、また手柄欄ができます」
私は薪束へ目を落とした。
「母が書いたのは、名誉ではありません。火を失う者の名です」
寝台の方で、ガストン老人が少し咳をした。夜薬の温かさが、まだ喉に残っているらしい。
「わしの名も、そこへ入るのかね」
「入ります」
私は答えた。
「ミラの名も。トマが洗った薬棚も。北門施療院の小鍋も。母の料理帳に残っている火加減は、伯爵家の食卓だけではなく、火を失う人へ届く手順でした」
母の料理帳は、今は王宮厨房監督官セレスティア様の預かりになっている。返してほしい。そう言えば、胸の奥が痛くなる。
けれど、今ここで所有権だけを叫べば、父と同じ手柄欄に戻ってしまう。
だから私は、古い写しの横にもう一枚、青い札を置いた。
――母の料理帳、火の手順未閉鎖。保管責任、北門施療院到達確認付き。
「この料理帳を、私の手柄として返してくださいとは言いません」
私は王宮書記へ言った。
「母の手柄として飾ってくださいとも言いません。まだ閉じてはいけない火の手順として、保管してください。誰かの名義で晩餐会へ戻す前に、火を失う者の名を先に確認してください」
王宮書記は深くうなずき、封筒の上へ青い札を重ねた。
「王宮厨房監督官控えに追記します。ヴェルナー伯爵家台所会計『家内労働につき謝礼不要』印は、生活影響明細未添付。母の料理帳に記載された火の手順は未閉鎖。北門施療院到達確認欄と照合するまで、伯爵家名義・妹君名義・晩餐会補填費への再分類を保留」
長い言葉だった。
でも、長い言葉の先で、ミラが毛布の中から小さく笑った。
「じゃあ、明け方に咳が出ても、火はまだありますか」
「あります」
私は薪束を、使い終わりの場所ではなく、未閉鎖の棚へ置き直した。
「これは未使用ではありません。夜明けまで閉じない火です」
トマが薪棚の空いている板に、青い札を掛けた。
――夜明けまで閉じない火。
その札が揺れるだけで、部屋の温度が少し戻った気がした。
伯爵家が謝ったわけではない。父の印が消えたわけでもない。母の料理帳が、私の手に戻ったわけでもない。
それでも、母の火は、無償欄で閉じられなかった。
王宮書記が古い写しを封筒へ戻そうとして、ふと手を止めた。
「裏面に、もう一行あります」
紙を返すと、母の字が、表よりさらに薄く残っていた。
――晩餐会用大釜一基。北門の冬火、三晩分を奪う。
私は青い札を見た。
夜明けまで閉じない火。
けれど母は、もっと大きな火が、三晩分どこかへ運ばれることを知っていた。
「次は」
私は古い写しの裏面を、生活影響明細の下へ差し込んだ。
「その大釜が、どの夜から火を奪ったのか確認します」




