晩餐会の銀皿は、夜薬の木札より先ではありません
朝の北門施療院は、王宮より先に湯気で目を覚ます。
竈の灰を寄せると、昨夜足した火がまだ細く残っていた。私は小鍋に水を張り、麦をひとつかみ落とす。ミラの喉は夜明け前にもう一度熱を持ったけれど、半椀の薬湯は戻さずに済んだ。
「リディアさん、木札、乾きました」
トマが竈の横から、昨夜の帰院確認札を外した。
――リディア・ローゼ帰院確認。トマ立会。
その下に、院長先生の小さな字が増えている。
――ミラ夜薬、半椀到達。咳なし。明朝粥へ。
私はその一行を指でなぞらなかった。汚れるからではない。嬉しさで、字の上に指を置いたら泣いてしまいそうだったからだ。
「火を足していいですか」
「ええ。でも今日は大鍋ではなく小鍋から。ミラが食べる分、夜勤明けの二人が食べる分、院長先生の分。それから、薬棚を洗う湯」
「銀皿は?」
トマが首をかしげた。昨夜、王宮から戻った私の話を聞いて、彼の中では銀皿と薬粥がまだ同じ棚に並んでいるらしい。
「銀皿は、ここでは最後」
私は麦をかき混ぜた。
「まず、喉。次に手。帰ってきた足。それから皿」
その時、表の扉が三度叩かれた。
朝早すぎる音だった。患者なら院長先生が出る。薬草商なら裏口へ回る。表から、三度、金具を鳴らす叩き方は、貴族の使いだ。
院長先生が出る前に、レナードが入ってきた。
雨に濡れた外套を着たまま、彼は封筒を胸に抱えていた。ヴェルナー伯爵家の赤い封蝋。私が昨夜、出てきた家の印だ。
「リディア」
「北門施療院では、患者の前で大きな声を出さないでください」
レナードは口を閉じた。少しだけ、周囲を見た。細い寝台。薬草の棚。竈の横で乾く木札。昨夜の火に手をかざすトマ。奥の寝台で眠るミラ。
彼の靴だけが、この部屋で余っていた。
「伯爵から、王宮厨房監督官へ出す書類を預かってきた」
「セレスティア様へなら、王宮へ」
「君の確認が必要だ。王太后陛下が薬粥を完食された。王宮晩餐会も、客に大きな事故はなかった。だから、ヴェルナー伯爵家は『晩餐会成功証明』を受け取る資格がある。謝礼は伯爵家へ。母君の料理帳も、家の資産として返還されるべきだ」
トマが小さく息をのんだ。
私は火から目を離さずに言った。
「その封筒を、竈の横の机へ置いてください」
「リディア、これは家同士の」
「ここでは、食べる人の机です」
レナードは黙って封筒を置いた。
私は手を洗い、布で拭いてから封を切った。赤い封蝋には、父エルンストの印が深く押されている。書類の一枚目には、きれいな文字でこうあった。
――王宮晩餐会成功証明申請。
その下の理由欄。
――王太后陛下薬粥完食。招待客苦情なし。ヴェルナー家台所名義による献上成功。
さらに下。
――謝礼到達先、ヴェルナー伯爵家会計。
――料理帳返還先、ヴェルナー伯爵家台所。
私は二枚目をめくった。そこに、マリベルの名があった。
――料理責任者、マリベル・ヴェルナー。
署名欄は空白ではなかった。薄い桃色のインクで、花のような飾り字が書かれている。けれど、私は知っている。妹は料理帳の火の欄を読めない。昨夜、空白を空白のまま守ることを覚え始めたばかりだ。
「彼女が書いたの?」
レナードは答えなかった。
「伯爵が、家の判断として」
「では、彼女の名であって、彼女の確認ではありません」
私は書類を院長先生へ見せた。
「先生。昨夜の夜薬の記録をお願いします」
院長先生は、棚から薄い帳面を持ってきた。
北門施療院会計。薬材受領。夜薬到達。帰院確認。
王宮の紙より粗い。けれど、ここには誰が飲み、誰が見て、誰が火を守ったかが書いてある。
「王太后陛下の椀が空になったことは、王宮の到達確認です」
私は一行ずつ、声に出して読んだ。
「リディア・ローゼ、北門施療院へ帰院確認。トマ立会。ミラ夜薬、半椀到達。咳なし。明朝粥へ。北門施療院の火、継続」
レナードが眉を寄せる。
「それは、晩餐会と関係ないだろう」
「関係があります」
私は伯爵家の書類の上に、青い木札を置いた。
「私が帰れなければ、ミラの夜薬は薄められませんでした。謝礼が伯爵家へ行けば、今夜の薬草と薪が欠けます。料理帳が伯爵家の棚へ戻れば、ここで誰の喉に合わせるかを読めません。成功証明に必要なのは、銀皿の数ではありません。誰が食べて、誰が帰れて、誰の薬が間に合ったかです」
奥の寝台で、ミラが目を開けた。
「……半椀、飲めた」
小さな声だった。けれど、その一言で、伯爵家の赤い封蝋より強く部屋が動いた。
トマが、木札を両手で持った。
「僕、見ました。リディアさんが帰ってきてから火を足しました。ミラの匙、温めました」
院長先生が会計帳に丸を付ける。
「北門施療院としても確認します。昨夜の薬材は王宮依頼の謝礼到達を前提に出しています。謝礼が伯爵家へ移るなら、今夜の夜薬は不足します」
レナードの顔色が変わった。
彼は初めて、銀皿ではなく薬棚を見た。棚には小瓶が五つ。空に近い瓶が二つ。薪箱には、今夜分の乾いた枝が残っているだけだ。
「そんなこと、伯爵は聞いていない」
「聞く欄を作っていないからです」
私は新しい紙を取り、伯爵家の書類の横へ並べた。
一、王太后陛下薬粥、到達確認済み。
二、料理人リディア・ローゼ、北門施療院へ帰院確認済み。
三、ミラ夜薬、半椀到達。
四、謝礼到達先、北門施療院会計および契約料理人本人。
五、晩餐会成功証明への転用、不可。
六、料理帳返還、保留。食べる人の利益で保管先を再確認。
私は五番目の文字を少し濃く書いた。
「晩餐会の銀皿は、夜薬の木札より先ではありません」
レナードは何か言いかけ、やめた。
その時、表の扉がもう一度叩かれた。今度は三度ではない。短く一度。入室を求める王宮職員の音だった。
入ってきたのは、セレスティア様の使いの厨房書記だった。灰色の外套に、王宮厨房監督官の白い紐を結んでいる。
「リディア・ローゼ様。監督官セレスティアより、到達確認書の写しをお届けします」
彼は机へ書類を置いた。
王宮の紙には、献上成功証明とは書かれていなかった。
――王太后陛下薬粥到達確認。
――調理担当、契約料理人リディア・ローゼ。
――帰院先、北門施療院。
――謝礼到達先、北門施療院会計および本人。
私は息を吐いた。
勝った、とは思わなかった。勝ち負けなら、伯爵家を出た夜にもうたくさん失っている。
けれど、今夜の薬草は買える。薪も一本増やせる。ミラの朝粥は、銀皿の残りではなく、彼女の喉に合わせて炊ける。
レナードが、伯爵家の封筒を手に取った。
「これは、持ち帰る」
「持ち帰る前に、ひとつ確認を」
私は桃色の署名欄を指した。
「マリベルは、自分でこの字を書いたのですか」
レナードは答えられなかった。
沈黙は、空白ではない。誰かが埋めたくない欄を隠している音だ。
私は青い木札をもう一枚取り、そこへ書いた。
――マリベル・ヴェルナー料理責任者署名、本人確認待ち。
「妹を責めるためではありません」
私はレナードを見る。
「読んでいない名で、誰かの夜薬を奪わせないためです」
竈の小鍋が、ことりと鳴った。
ミラの朝粥が炊けた合図だ。
銀皿は伯爵家へ戻らなかった。けれど、夜薬の木札には、確かに食べた人と帰れた人の名が残っている。
だから私は、成功証明の一番上に、銀ではなく木の札を置いた。




