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北門施療院の火は、帰ってきた名で燃えます

北門施療院の竈は、王宮厨房の小竈よりさらに低かった。


扉を開けた瞬間、湿った薪の匂いがした。火は消えていない。けれど、鍋の底を温めるほど強くもない。灰の下で、細い赤だけが息をしている。


「リディアさん!」


トマが飛びつくように振り返った。額に煤がつき、袖口は濡れている。手には、私へ届けに来た帰院確認札と同じ木札がもう一枚握られていた。


「ごめんなさい。火、守ろうとしたんです。でも王宮から戻るまで薪を足していいのか、誰の名前で書けばいいのかわからなくて」


「怒らないわ」


私は外套を脱ぎ、手を洗った。


王宮の銀盆より、施療院の木桶の水の方が冷たい。けれど、その冷たさで指が戻ってくる。私はここへ帰ってきたのだと、体が先に知った。


「火は、名誉では燃えないもの」


私は灰を寄せ、乾いた小枝を一本ずつ選んだ。


「誰が今夜、何を飲むか。誰が見て、誰が明日の朝まで起きていられるか。それが書けて、初めて薪を足せる」


寝台の奥で、小さな咳がした。


ミラだった。薄い布団の中で、頬だけが熱を持っている。院長先生が脈を見ていたが、私を見るとほっと息をついた。


「戻れたのね、リディア。王宮は」


「王太后陛下の椀は空になりました。でも、私の仕事はまだ完了していません」


私はトマの木札を受け取り、竈の横の釘へ掛けた。


――リディア・ローゼ帰院待ち。ミラ夜薬、薄味確認未完了。


その下に、まだ空いている欄があった。


――帰院完了。


トマが羽根ペンを持ち上げる。


「僕が書いてもいいですか」


「あなたが見たのなら、あなたの名で書いて」


トマは大きくうなずき、震える字で書いた。


――リディア・ローゼ帰院確認。トマ立会。


たった一行だった。


伯爵家の晩餐会の招待状より、王宮の証紙より、私にはその一行の方が重かった。


「これで、火を足していいの?」


「ええ。今度は、ミラのために」


私は小鍋に湯を移し、母の料理帳を思い出す。


現物は、今夜まだ王宮預かりだ。セレスティア様の証紙の下、勝手に伯爵家へ持ち出されないよう封じられている。けれど、料理帳の全部が紙にあるわけではない。


喉の弱い子には、香りを先に立てる。塩は最後。皿の銀ではなく湯気を見ること。


母の字は、私の手の順番に残っている。


「トマ、木匙を温めて。冷たい匙だと、ミラがびっくりする」


「はい」


「院長先生、熱が上がった時の水は」


「枕元に。けれど、先ほどの薬湯は飲み切れなかった」


「なら、今夜は半椀にします。王太后陛下と同じ濃さでは強すぎる。薄く、でも香りだけは消さない」


王宮で一椀を空にした誇りを、ここへ持ち込んではいけない。


空椀は手柄ではなかった。だから、満たす椀も手柄ではない。飲み込む人の体に合わせるための器だ。


ミラが薄く目を開けた。


「……リディアさん?」


「ただいま、ミラ」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。


伯爵家を出てから、私は自分に帰る場所があると言い切れなかった。台所の鍵を返し、料理帳の火の欄から名を外し、ただ歩いてきた。


でも今、ミラが私の名を呼んだ。


トマの木札には帰院確認がある。院長先生の帳面には、北門施療院付き契約料理人リディア・ローゼと書かれている。竈の火は、私が戻るまで細く待っていた。


処理済みではない。


私は、ここでまだ続いている。


「いつもの、薄いの?」


ミラが小さく尋ねる。


「ええ。今日は半椀だけ。飲めたら、明日の朝は少しだけ粥に戻しましょう」


「王宮の人と、同じ?」


「いいえ」


私は笑った。


「あなたの喉に合うものよ。王宮の椀と同じでなくていい」


トマが温めた木匙を渡してくれる。私は湯気を見て、香りを立て、最後にほんの少し塩を落とした。


一匙。


ミラの唇が触れる。喉が動く。咳は出ない。


院長先生が静かに丸を付けた。


――ミラ夜薬、一匙到達。


トマが小さく拳を握った。


「飲めた」


「まだ一匙よ」


そう言いながら、私も笑ってしまった。


小さすぎる勝利だ。王宮晩餐会の客なら、誰も拍手しないだろう。銀皿も証明書も出ない。


けれど、この一匙が通れば、ミラは眠れる。院長先生は次の患者を見られる。トマは薪を足す順番を覚えられる。明日の朝、施療院の火は消えずに済む。


それで十分だった。


扉が叩かれたのは、三匙目を飲ませた時だった。


夜番の衛兵が、濡れた封筒を差し出す。


「王宮厨房監督官セレスティア様より、北門施療院へ至急」


封蝋は王宮のものだったが、宛名は伯爵家でも、私個人でもなかった。


――北門施療院台所 帰院確認欄担当者へ。


私は手を拭き、封を切る。


中には、王宮厨房の写しが二枚入っていた。


一枚目は、王太后陛下の薬粥到達確認。手柄欄なし、料理人帰院完了未了の青い保留線つき。


二枚目は、母の料理帳預かり証。


その下に、セレスティア様の細い字が添えてあった。


――王宮は、料理帳の現物を一晩保管する。だが火の手順は、食べる人のいる場所で確認されるべきもの。北門の火を絶やさないこと。明朝、伯爵家より「晩餐会成功証明」請求が来る見込み。


トマが不安そうに私を見る。


「また、伯爵様が来るんですか」


「来るでしょうね」


私は二枚の写しを畳まず、竈の横の板に留めた。飾るためではない。湿気で読めなくならないよう、火から少し離した場所を選ぶ。


「でも、ここには手柄欄を作りません」


ミラが半分眠りながら、木匙を握っていた。


私は帰院確認札の下に、新しい欄を引く。


一、夜薬到達。


二、料理人帰院確認。


三、明朝粥の火、保留ではなく継続。


四、晩餐会成功証明への転用、不可。


院長先生がうなずき、トマが自分の名を書いた。


私は最後に、母の料理帳の現物がない欄へ、自分の名を書いた。


――北門施療院の火。リディア・ローゼ、帰って確認済み。


竈の赤が、少し太くなった。


王宮の鐘は、もう聞こえない。


代わりに聞こえるのは、ミラの寝息と、湯の小さな音だ。


明日の朝、伯爵家は銀皿を掲げるかもしれない。晩餐会の成功を、私の名ごと持ち出そうとするかもしれない。


けれど今夜、この火だけは違う。


北門施療院の火は、帰ってきた名で燃えている。

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