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王太后の空椀は、誰の手柄でもありません

王太后陛下の椀は、銀の盆で戻ってきた。


中身は空だった。米粒も、薬草の葉も、底に残っていない。けれど私は、すぐに喜ばなかった。


空の椀は、終わりの印ではない。喉を通ったあと、誰が熱を見たか。残りを誰が確認したか。作った者が帰れるか。そこまでそろって、ようやく一椀は完了する。


私は盆を受け取り、王宮厨房の作業台にそっと置いた。


「王太后陛下、三口以上。咳き込みなし。残量なし」


書記が到達確認欄に丸を増やす。


王宮厨房監督官セレスティア様は、椀の内側を見てから私へうなずいた。


「よく通りました。医師からも、今夜の薬はこの濃さでよいと返答が来ています」


胸の奥で、張っていた糸が少し緩んだ。


けれど、その糸を別の手が乱暴につかむ。


「ならば十分だ」


父の声だった。


ヴェルナー伯爵は、扉の前で外套の襟を正していた。晩餐会へ戻るつもりなのだろう。白い手袋の指先が、空椀の銀盆を指す。


「王太后陛下がお召し上がりになった。つまり、ヴェルナー家の料理帳は王宮で認められた。今すぐ証明書を出してもらおう。晩餐会の客へ披露する」


「お父様」


マリベルが小さく止めた。


父は聞かなかった。


「料理帳は家の資産だ。リディアは一時的に手を貸しただけ。空の椀は、家の名誉が届いた証拠になる」


私は盆の端を押さえた。


空の椀が、急に冷たいものに見えた。


名誉。証明書。披露。


父の言葉には、王太后陛下の喉も、夜の薬も、私が帰る台所も入っていない。


セレスティア様が書記へ視線を送る。


「リディア。あなたの手順では、空椀は何を証明しますか」


私は深く息を吸った。


王宮の火は、伯爵家の火より静かだ。静かだからこそ、焦げる匂いも、湯気の弱さも、よくわかる。


「空椀は、手柄の皿ではありません」


父の眉が上がる。


私は確認欄の横へ、新しい線を引いた。


一、王太后陛下の喉へ到達。


二、医師確認済み。


三、食器返却済み。


四、残り薬草の廃棄先確認。


五、料理人帰院完了。


六、謝礼到達先確認。


その下に、私は大きく書いた。


――手柄欄なし。


「何を勝手に」


「勝手ではありません。食べるための記録です」


私は空椀を持ち上げ、父ではなく、セレスティア様と書記に向けて見せた。


「この椀が空なのは、王太后陛下が召し上がったからです。ヴェルナー家の名誉が入っていたからではありません。だから、空椀から作れる書類は、献上証明ではなく到達確認だけです」


父の顔が赤くなる。


「家名を消すつもりか」


「いいえ」


私は首を振った。


「家名ではなく、喉へ届いた手順を残します。もし家名が必要なら、どの薪を割り、どの水を沸かし、どの薬草の濃さを読んだかを、読める人の名で書いてください」


マリベルの手が、母の料理帳の上で止まった。


「……私は、読めない」


その声は小さかった。けれど厨房の中では、鍋の湯気よりはっきり聞こえた。


「お姉様の字は真似できても、咳き込みなしの丸はつけられない。私、王太后陛下の顔も見ていないもの」


父が妹をにらむ。


「黙れ」


「黙らせないでください」


思ったより強い声が出た。


私は自分でも驚きながら、マリベルの前に確認欄を置いた。


「読んでいない人の名を入れないことは、罰ではありません。あなたが怖いと思ったことを、記録に残すための空白です」


マリベルは目を伏せた。


「……空白のままで、怒られない?」


「怒る人はいるでしょう。でも、空白を埋めたせいで誰かが苦しむよりは、ずっといい」


セレスティア様が静かに羽根ペンを取った。


「王宮厨房監督官として記録します。マリベル・ヴェルナーは、当該薬粥の作成・確認に関与せず。本人申告により、名義欄への記入を保留」


父が一歩踏み出した。


「王宮が我が家の娘を侮辱するのか」


「侮辱ではありません」


セレスティア様の声は冷たくなかった。ただ、火加減のように揺れなかった。


「読んでいない欄に名を書かせないことは、娘を守る手順です。あなたが必要としているのは娘の名ではなく、娘の名を使った家の飾りでしょう」


父は言葉を失った。


その時、廊下から別の足音が近づいた。北門施療院の見習いトマだった。息を切らし、片手に小さな木札を握っている。


「リディアさん! ミラの熱、下がりました。でも夜の薬湯、いつもの薄さじゃないと飲めなくて。院長先生が、帰院確認札を持っていけって」


トマは厨房の空気に気づき、慌てて背筋を伸ばした。


「す、すみません。王宮なのに」


私は木札を受け取った。


そこには、北門施療院の乱れた字で書かれていた。


――リディア・ローゼ帰院待ち。ミラ夜薬、薄味確認未完了。


胸が、熱くなった。


豪華な銀皿より、ずっと重い木札だった。


「見なさい、ヴェルナー伯爵」


セレスティア様が父へ言う。


「あなたが手柄証明を急ぐ間に、この料理人を待っている椀があります。王太后陛下の空椀も、施療院の夜薬も、同じ手順でつながっている」


私は確認欄の五番目に丸を付けなかった。


まだ帰っていないからだ。


代わりに、青い保留線を引く。


――料理人帰院完了、未了。


「リディア」


父の声が低くなった。


「今戻れば、晩餐会で席を用意する。お前の働きも、家の内側なら認めてやる」


かつての私なら、その言葉に泣いていたかもしれない。


でも今、私の手には帰院確認札がある。王太后陛下の空椀と、ミラの夜薬が同じ台の上に並んでいる。


私は父に向き直った。


「私の席は、手柄の隣ではありません。飲み込む人のそばです」


マリベルが息をのむ。


「お姉様」


私は彼女へ、母の料理帳を指した。


「その料理帳は、今日は王宮預かりです。明日、セレスティア様と北門施療院長の前で、どの棚に置けば食べる人の役に立つかを決めます。家の棚か、王宮の棚か、施療院の棚か。名誉ではなく、届く椀で決めます」


セレスティア様が証紙を押した。


「王宮厨房は、この判断を支持します。ヴェルナー伯爵、今夜この料理帳を持ち出すことは許可しません」


父の手袋が、くしゃりと鳴った。


けれど、厨房の誰もその音に従わなかった。


私は空椀を洗い場へ渡し、木札を胸元にしまう。


トマがほっとした顔で言った。


「帰れますか」


「帰るわ。夜薬を見ないと、今日の仕事が終わらないもの」


厨房の出口で、マリベルが小さく頭を下げた。


「お姉様。空白、残してくれてありがとう」


私はうなずいた。


「空白は、あとで正しい人が読むために残すの。あなたも、自分で読める欄だけに名を書いて」


王宮の廊下へ出ると、晩餐会の鐘はまだ鳴っていた。


でも、私が追う音はそれではない。


北門施療院の夜の火。ミラの薄い薬湯。トマの木札。


王太后陛下の空椀は、誰の手柄でもなかった。


それは、次の椀へ帰るための確認だった。

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