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母の料理帳に、誰の名を書かせるのですか

王宮厨房の小竈は、伯爵家の大竈よりずっと低かった。


火口は古く、煤もついている。けれど、薪は乾いていた。水桶には清潔な布が掛けられ、粥用の米と干し貝、薬草は別々の皿に分けて置かれている。


私は袖を上げ、まず皿の数を数えた。


「一椀だけではないの?」


王宮厨房監督官セレスティア様の書記が、戸口で首をかしげる。


「王太后陛下の一椀を作るために、味見用、薬草の濃さを見る小椀、温度を落とす皿、残った分を廃棄せず確認する器が必要です。食べるのは一人でも、守る手順は一つではありません」


セレスティア様はうなずき、書記に言った。


「今の言葉も記録なさい。ヴェルナー家から届いた控えと照合します」


その名を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。


王宮に来る途中、馬車の窓から見えた伯爵家の灯りは、いつもより明るかった。晩餐会のためだ。けれど、火が明るいだけでは料理にならない。


米を研ぎ、干し貝を戻し、薬草を布で包む。


母の料理帳では、この粥の欄に小さく但し書きがあった。


――喉の弱い方には、香りを先に立て、塩は最後。皿の銀ではなく湯気を見ること。


母は貴族の名誉など書かなかった。誰の喉が、いつ、何を通せるかを書いていた。


火が安定した頃、王宮厨房の扉が乱暴に開いた。


「リディア!」


父だった。ヴェルナー伯爵。隣には、白いドレスの妹マリベル。彼女の手には、母の料理帳が抱えられている。


胸が痛んだ。


鍵は返した。台所も出た。けれど、その紙束だけは、母と私の毎朝だった。


父は私を見るなり、低い声で命じた。


「王太后陛下の粥は、ヴェルナー家の献上料理として扱う。お前は手伝いに戻っただけだ。料理帳の名義欄には、マリベルの名を書く」


マリベルは怯えたように私を見た。


「お姉様、少しだけならいいでしょう? 私、晩餐会で紹介されるの。お父様が、料理帳は家のものだって」


鍋の湯気が白く上がった。


私は火を弱め、薬草の袋を引き上げた。焦って答えれば、粥が苦くなる。


「いいえ」


父の眉が跳ねた。


「親に向かって」


「母の料理帳に、誰の名を書かせるのですか」


私は濡れ布巾で手を拭き、セレスティア様の前に料理帳を置いた。


「王太后陛下の薬粥欄に必要なのは三つです。作った者の名。食べる方の名。確認した証人の名。献上者の飾り名ではありません」


「飾りだと?」


「はい」


声が震えないように、表を指で押さえた。


一、食べる人――王太后陛下。


二、作る人――北門施療院付き契約料理人リディア・ローゼ。


三、同席証人――王宮厨房監督官セレスティア。


四、謝礼到達先――北門施療院会計、および契約料理人本人。


五、手柄欄――なし。薬粥は手柄ではなく、喉へ届く食事。


セレスティア様が書記へ目配せした。紙の上に、さらさらと羽根ペンが走る。


父は一歩踏み込んだ。


「その欄を空白にするつもりか。家の名誉が消える」


「空白ではありません」


私は小椀に粥を取り、温度を確かめた。


「喉へ届いたら完了です。家名へ届いても、王太后陛下の喉に通らなければ未完了です」


マリベルの指が、料理帳の端で白くなっている。


私は妹を見た。


「マリベル、あなたはこの粥を作りましたか」


「……いいえ」


「塩を最後にする理由を、読んで確認しましたか」


「読んで、ない」


父が鋭く妹をにらむ。


けれどマリベルは、料理帳を抱え直して、小さく首を振った。


「私、お姉様の字を真似して書けって言われた。でも、王太后陛下が苦しくなるなら嫌」


厨房の空気が変わった。


セレスティア様が静かに言う。


「ヴェルナー伯爵。王宮厨房では、読んでいない者の名を確認欄へ入れません。まして、食べる方の体調に関わる欄ならなおさらです」


父の顔が赤くなった。


「我が家の内部の問題だ」


「王太后陛下の喉は、あなたの家の内部ではありません」


その一言で、父は黙った。


粥がちょうどよい柔らかさになった。私は銀皿ではなく、湯気の立ち方を見る。香りは先に立っている。塩は最後に、ほんの少し。


小椀をセレスティア様に渡すと、彼女は味ではなく温度を確かめた。


「よろしい。運びなさい」


私は盆に椀を置いた。


その横に、料理帳の写しと生活影響明細を添える。手柄欄は作らない。代わりに、到達確認欄を作った。


――王太后陛下、三口以上召し上がる。


――咳き込みなし。


――残りは医師へ確認。


――リディア・ローゼ、北門施療院へ帰院。


料理が終わっても、私が帰れなければ手順は完了しない。


廊下へ出る直前、マリベルが料理帳を差し出した。


「お姉様。これ、持っていって」


父が声を荒げる。


「マリベル!」


妹は震えながらも、初めて父を見返した。


「だって、私は読んでいないもの。読んでない料理帳で、誰かに食べさせるのは怖い」


私は料理帳を受け取らなかった。


その代わり、王宮の証紙を一枚、料理帳の該当欄に挟んだ。


「今日は、ここで預けます。これは私だけの思い出ではなく、食べる人の記録です。誰の家の棚に置くかは、王太后陛下の粥が届いてから決めます」


セレスティア様が証人欄に署名した。


「料理帳は王宮厨房監督官預かり。名義争いの品ではなく、体調別調理記録として扱う」


父の手が、途中で止まった。


廊下の向こうで、王太后陛下の部屋の扉が開く。


私は盆を持ち直した。


銀皿の重さではない。一椀の湯気の重さだ。


王太后陛下が三口目を飲み込み、小さく息をついた時、書記が到達確認欄に丸を付けた。


「喉へ到達。咳き込みなし」


その丸を見て、私はようやく笑えた。


けれど、まだ最後の欄が残っている。


――リディア・ローゼ、北門施療院へ帰院。


王宮の窓の外では、ヴェルナー伯爵家の晩餐会の鐘が鳴っていた。


父が何かを言う前に、セレスティア様が扉を閉める。


「料理人を、家名のために足止めしないこと。粥はもう、喉へ届きました」


私は盆を下げ、母の料理帳から目を離した。


帰る場所がある。帰って、トマの椀とミラの薬湯を確かめる。


母の料理帳に今日書くべき名は、家名ではなかった。


食べた人。作った人。証人。そして、帰る台所。


その四つがそろうまで、私の仕事は終わらない。

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