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台所の火は、家名では燃えません

王宮からの依頼書は、昼食の片づけが終わる頃に届いた。


濡れた封蝋には、王宮厨房監督官の紋章が押されている。差出人はヴェルナー伯爵家ではない。王宮厨房監督官。宛名は、北門施療院付き契約料理人リディア・ローゼ。


私は紙を机に置き、まず手を拭いた。


「急ぎなら、今すぐ開けてもいいんじゃないの」


メイナが薬棚から顔を出す。


「急ぎだからこそ、濡れた手で開けません。依頼書は、後で誰が何を頼んだかを残すものですから」


クラウスがうなずき、扉のそばに立った。証人の位置だ。


封を切ると、条件は思ったより短かった。


王太后陛下の薬粥一椀。昨年と同じ料理責任者による調理。材料確認権を認める。支払いは王宮厨房会計から北門施療院へ。施療院の契約料理人リディア・ローゼに作業謝礼を支払う。


最後の一行だけ、筆圧が違った。


ただし、調理場所はヴェルナー伯爵家厨房とする。


「罠ですね」


私が言うと、トマが椀を磨く手を止めた。


「罠なの?」


「王太后陛下の喉を助ける仕事は本当。でも、台所に入った瞬間に『娘が家に戻った』と扱われる可能性があります」


紙の上で、二つの名前がぶつかっている。


王宮は、昨年の料理責任者を呼んでいる。伯爵家は、家名を戻したい。けれど薬粥を飲むのは、どちらの名誉でもない。王太后陛下の喉だ。


私は依頼書の余白に、細い線を引いた。


「生活影響明細を付けます」


レナードが使いとして戻ってきたのは、そのすぐ後だった。昨夜よりさらに顔色が悪い。彼は私の前で膝を折りかけ、途中で思い直したように立ち尽くす。


「リディア。依頼書は届いたな。馬車を待たせている」


「その前に確認があります」


私は依頼書の余白に書いた表を見せた。


一、薬粥を飲む人――王太后陛下。


二、食べる時刻――今夜、晩餐前。喉が乾く前。


三、火を守る責任者――リディア・ローゼ。ただし北門施療院との契約時間外作業。


四、台所の鍵――調理中のみリディアが保持し、終了後は王宮厨房監督官へ返却確認を行う。


五、料理帳の名義――王太后陛下の薬粥欄には、作った者と食べる者の名を並べる。妹マリベルの手柄欄には入れない。


レナードの顔が引きつった。


「そんな細かいもの、父上が認めるわけがない」


「では、王宮厨房監督官に返します。依頼は受けられません、と」


「王太后陛下を見捨てるのか」


その言葉だけは、胸に刺さった。


けれど、私は鍋を見た。北門施療院の鍋だ。トマが食べ終え、火傷の痛みをごまかすように椀を磨いている。奥では、熱を出した洗濯女が薬を待っている。


誰かを助けるために、別の誰かの食事と名前を踏みつけるなら、それは母の火ではない。


「見捨てません。だから明細にします」


私はペンを持った。


「王太后陛下の薬粥は作ります。ただし、家名のためではありません。喉のためです。台所の火は、家名では燃えません」


クラウスが静かに言った。


「北門施療院も同席証人を出す。施療院の契約料理人を連れ出すなら、帰院時刻と謝礼、代替食の手配も記録する」


「代替食?」


レナードが眉を寄せる。


メイナが薬箱を閉めた。


「リディアを連れていく間、ここで誰が粥を作ると思ってるんだい。トマの夕食、洗濯女の薬湯、夜勤兵の温かい麦。王宮の銀皿の裏には、ここの木椀が三つあるんだ」


レナードは、初めて台所を見回した。


煤けた竈。欠けた椀。干された布。伯爵家なら捨てるような古い鍋。


けれど、ここでは全部が誰かの今日に繋がっている。


私はその三つの木椀の名を書き足した。


トマ――火傷後の夕粥。


洗濯女ミラ――薬湯後の薄麦。


夜勤兵三名――巡回前の温麦。


「この三つの代替手順を、伯爵家から来た私用では止めません。私が出る前に仕込みます。帰院が遅れるなら、王宮厨房から温石と麦を借り受けます」


レナードは長く黙った。


やがて、小さな声で言う。


「君は、そんなふうに毎日考えていたのか」


「毎日ではありません」


私は首を横に振った。


「食べる人がいるたびに、です」


その時、外で馬車の扉が開く音がした。


現れたのは、父ではなかった。黒い上着の老婦人が、王宮の紋章を付けた書記を連れて入ってくる。背筋はまっすぐで、視線は鋭い。


「王宮厨房監督官のセレスティアです。依頼書に明細を付けた料理人は、あなたね」


私は深く頭を下げた。


「リディア・ローゼです」


「よろしい。王太后陛下は、昨年の粥を覚えておいでです。『銀皿の味ではなく、喉を通る味だった』と」


胸の奥が熱くなった。


セレスティアは、私の書いた表を一読した。


「家名ではなく、喉のため。よく書けています。では、ヴェルナー伯爵家厨房ではなく、王宮厨房の小竈を使いなさい。材料確認権、台所鍵、施療院への代替食補償、すべて王宮が証明します」


レナードが息を呑んだ。


「しかし、ヴェルナー家の晩餐会は」


セレスティアの目が冷えた。


「晩餐会は、食べる人のためにあります。家名の飾りではありません」


私は机の上の真鍮の鍵を取った。


北門施療院の鍵。小さくて軽い、私の仕事の鍵。


「メイナさん、夕粥の麦は二刻分まで水に浸けました。トマ、椀は熱いまま触らないこと。クラウス様、帰院時刻の証人をお願いします」


「任せろ」


「リディア姉ちゃん、王宮から帰ってくる?」


トマの声が不安げだった。


私は笑った。


「帰ってきます。ここが、今の私の台所ですから」


王宮の馬車へ向かう時、雨は上がっていた。


けれど遠く、ヴェルナー伯爵家の方角から、別の鐘が鳴る。晩餐会開始まで、あと四刻。


王宮の小竈で火を起こせば、薬粥は作れる。


問題は、その火が消えたあと、父が母の料理帳に何の名を書こうとするかだった。

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