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第三話 契約料理人リディア・ローゼ

ヴェルナー伯爵家の台所では、夜明け前から怒号が飛んでいた。


「火を強くしろ。王宮の使いが午前に来る」


父エルンストの命令に、料理番たちは青い顔で薪を足した。薪は乾いている。油もある。鍋も磨かれている。けれど炎は鍋底を避けるように揺れ、仔牛の骨は白いまま沈んでいた。


「なぜ煮えないの」


マリベルが料理帳を抱えて立っている。桃色の朝着の袖に、煤がついていた。


「ここに書いてある通りにしたわ。水を張って、骨を入れて、火にかけて、香草を」


料理番のバルトが、疲れた顔で答えた。


「お嬢様、火の欄に名がないのです」


「名前くらい、わたしが書けばいいでしょう」


マリベルは羽根ペンを取り、リディアの字が消えた下に自分の名を書いた。赤い糸を通そうとして、針が紙を弾く。


何度刺しても、糸は頁に入らない。


「どうして」


「料理帳は、毎朝火を起こして、食べる人の名を覚えさせて、失敗した日も責任を負った者しか受け入れません。ローザ奥様がそう教えてくださいました」


「では、リディアを呼べばいいじゃない」


マリベルは当然のように言った。


父の眉間が深く刻まれる。


「昨夜、封書を送った。返事はまだない」


「返事を待つ必要なんてあるの? お姉様はヴェルナー家の娘よ。戻れと言えば戻るわ」


台所の入口で、レナードが咳払いをした。彼も昨夜は眠れなかったらしく、襟元が乱れている。


「王宮納入の契約書を確認した。署名欄に、リディアの名がある」


父が振り向いた。


「家名ではなく?」


「家名もありますが、料理責任者としてリディア・ヴェルナーと。王宮側の控えにも同じ署名があるはずです。今夜の晩餐で不履行となれば、違約金だけでは済まないかもしれません」


鍋の中で、骨がこつりと音を立てた。煮えていない。沈んだだけだ。


父は初めて、母の料理帳ではなく、空の竈を見た。


「……あれは、台所にいただけの娘ではなかったのか」


誰も答えなかった。


同じ朝、私は北門施療院の台所で麦を研いでいた。


昨夜、水に浸けた麦はふっくらと膨らんでいる。トマの火傷はまだ痛むだろうが、熱は上がっていない。今日は根菜を少し増やし、食べられるなら鶏のほぐし身を入れる。


体は重かった。寝台は硬く、雨に濡れた服は乾ききらず、夜中に何度も目が覚めた。夢の中で父が鍵を返せと言い、私は何度も空の掌を開いた。


それでも、朝の火は素直だった。


「リディア殿」


クラウスが入口で声をかけた。


「昨日の契約書を作った。確認してほしい」


差し出された紙には、整った字で条件が並んでいた。


北門施療院付き臨時料理人。勤務は日の出から昼過ぎまでと、必要時の夕刻一刻。夜間の呼び出しは本人の同意を要する。賃金は日払い。道具の持ち込みと保管箱の使用を認める。怪我人用の食事に関する判断は、看護婦長メイナと料理人リディアの合議とする。


最後に、契約名の欄が空いている。


「家名は書かないのですか」


「あなたが望むなら書く。望まないなら不要だ。身元確認は、仕事が始まる前に私が責任を持つ」


「それでは、クラウス様が困るのでは」


「困る可能性はある。だから聞いている。あなたは、どの名で働きたい」


紙の上の空欄を見た。


リディア・ヴェルナー。その名は、父の家の娘としての名だ。昨夜までの私を全部否定するつもりはない。けれど、今ここで台所に立つ私を、父の所有物として書きたくなかった。


母の名はローザだった。


「リディア・ローゼでお願いします」


少しだけ変えた母の名。母そのものを名乗るのは恐れ多い。けれど、私の手がどこから来たのかは忘れたくない。


クラウスは頷き、ペンを差し出した。


「では、リディア・ローゼ。読めない条項はあるか」


「ありません。夜間呼び出しの同意のところ、病人の命に関わる場合は例外で構いません。ただし、その時も記録を残してください」


「分かった。追記する」


彼はすぐに書き加えた。


そのやり取りを、メイナが鍋を覗き込みながら聞いていた。


「いい契約だね。うちの古い料理人たちにも見せたいくらいだ」


「古い料理人がいるのですか」


「いたんだよ。腰を悪くして辞めた。だから今は、怪我人に豆を食わせるような有様さ」


メイナの声には自嘲が混じった。私は首を横に振る。


「豆も悪くありません。働く人には必要です。ただ、火傷した子には順番が早かっただけです」


「そういう言い方ができるなら、あんたはここで嫌われにくい」


思わず笑いそうになった。笑うには胸が痛すぎたが、口元だけは動いた。


契約書に署名すると、クラウスは一枚を私に渡した。


「保管箱は台所の奥だ。鍵はこれ。部屋は狭いが、今日中に毛布を一枚増やす。机は古いものなら用意できる」


鍵。


その言葉に、指がこわばった。


クラウスは気づいたらしい。鍵を私の掌に押しつけず、机の上に置いた。


「受け取る時でいい」


私は息を吸い、ゆっくり吐いた。


「今、受け取ります」


小さな真鍮の鍵だった。伯爵家の台所の鍵よりずっと軽い。それでも、掌に置くと、昨日失ったものとは違う重さがあった。


これは誰かから奪われた鍵ではない。契約で渡された、私の仕事のための鍵だ。


トマが扉から顔を出した。


「リディア姉ちゃん、今日の粥は?」


「今できるわ。手は痛む?」


「痛い。でも昨日より怖くない」


「では、怖くない粥にしましょう」


メイナが吹き出し、クラウスが少しだけ目を細めた。


私は粥を椀に注いだ。昨日より少し粒を残し、鶏を細かく裂いて乗せる。トマが一口食べて、真剣な顔で頷いた。


「昨日より、元気な味がする」


「よく分かったわね」


「おれ、北門施療院の味見係になる」


「その仕事は危ないね。熱いものを急いで食べる子には任せられない」


少年がむくれる。台所に小さな笑いが落ちた。


その笑いが消えないうちに、門の方が騒がしくなった。


「リディア・ヴェルナー嬢はどこだ」


聞き慣れた声だった。レナードだ。


私の手から、木匙が滑りそうになる。背中に汗が伝った。父ではない。けれど、昨日まで婚約者だった人の声は、まだ私の胸を縮ませる。


クラウスが私の前に出ようとした。


私は首を横に振った。


「私が話します」


「無理はしなくていい」


「無理かどうかも、私が決めます」


そう言うと、クラウスは一歩下がった。ただし、扉の横に立った。遮るためではなく、必要なら証人になるための位置だった。


玄関広間に出ると、レナードが濡れた外套のまま立っていた。昨夜より顔色が悪い。後ろにはヴェルナー家の馬車があり、御者が焦った様子で手綱を握っている。


「リディア、ようやく見つけた。すぐ戻ってくれ」


「私は今、勤務中です」


レナードは一瞬、言葉を失った。


「勤務?」


「北門施療院付きの契約料理人です。リディア・ローゼの名で契約しました」


「何を馬鹿な。君はヴェルナー家の娘だ」


その言葉に、胸は痛んだ。けれど、昨日ほど息は詰まらなかった。


「昨日、修道院へ行けと言われました」


「それは旦那様も言いすぎたと」


「婚約者も台所も妹に譲れと、あなたも言いました」


レナードの唇が動き、何も出てこなかった。


私は続けた。


「ご用件をどうぞ」


「……王宮晩餐会の仕込みが進まない。旦那様が、君を至急戻せと」


「命に関わる病人はいますか」


「は?」


「今この場で私が施療院の仕事を止めなければ死ぬ方が、ヴェルナー家にいますか」


レナードは苛立ったように眉を寄せた。


「そういう話ではない。王宮契約だ。家の名誉が」


「では、今日の昼の勤務後に伺います」


「リディア」


「料金は通常の三倍。王宮契約の責任者として私の名を使うなら、料理責任者の報酬と権限を書面で出してください。母の料理帳をマリベルの手柄にする話も撤回。台所の鍵は、私の勤務中だけ私が持ちます」


自分で言いながら、膝が少し震えた。


けれど倒れなかった。


レナードの顔が赤くなる。


「君は、家を脅すのか」


「いいえ。仕事の条件を出しています」


背後で、クラウスが静かに言った。


「北門施療院は、契約料理人リディア・ローゼの勤務を妨害されれば抗議する。彼女が外部の仕事を受けるかどうかは、本人の判断だ」


レナードが彼を睨む。


「あなたは何者です」


「クラウス・オルヴァン。北門騎士団副団長で、この施療院の補給責任者だ」


侯爵家の名を聞き、レナードの肩がわずかに落ちた。


私は契約書の控えを胸に抱いた。


「返事をお父様に伝えてください。命に関わらないなら昼過ぎ。料金は三倍。書面がなければ、私は台所に入りません」


「……王宮の使いが、君を指名している」


レナードは低く言った。


「王太后陛下の薬粥だ。今夜の晩餐で出す予定だったものが、今朝の試作で失敗した。王宮側は、昨年と同じ料理責任者を出せと言っている」


王太后陛下。


その名を聞いて、台所の温度が変わった気がした。


昨年、私は一度だけ王太后のために粥を作った。喉を痛め、固形物が取れないと聞き、米ではなく麦を使い、乳ではなく根菜で甘みをつけた。皿は戻ってこなかった。空になった椀だけが返された。


あの方の喉に関わるなら、単なる家の名誉ではない。


だが、それでも私は、父の命令で走って戻る娘ではない。


「分かりました」


レナードが安堵の息をつきかける。


私はその前に言った。


「王宮から直接依頼書をください。依頼者はヴェルナー家ではなく王宮。支払い先は北門施療院経由のリディア・ローゼ。材料と台所の状態を確認する権限も必要です」


「そんな条件が通るわけ」


「では、通してください。王太后陛下の喉に関わるのでしょう」


レナードは言葉を失った。


遠くで、施療院の鐘が鳴る。朝の食事を配る時間だ。


私は踵を返した。


「返事は、朝食を作り終えてから伺います」


扉を閉める直前、レナードのかすれた声が聞こえた。


「リディア、君は変わったな」


私は振り返らずに答えた。


「名前を返してもらっただけです」


台所へ戻ると、トマが空の椀を掲げていた。


「おかわり、ある?」


「あります」


私は鍋の蓋を開けた。


麦の湯気が、朝の光に白く上がる。伯爵家の竈ではない。王宮の銀皿でもない。それでも、ここが今の私の台所だ。


そして次に向き合うべき問題は、一つだけ。


王太后陛下の薬粥を、誰の名で作るのか。

ここまで読んで「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

第四話から、王宮からの正式依頼と、伯爵家の台所に戻る条件交渉が始まります。

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