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第二話 雨の日の粥と、新しい台所

屋敷の門を出て三つ目の角で、私は吐いた。


馬車道から外れた石塀の陰にしゃがみ込み、空の胃が何度もひきつる。晩餐の前だったから、吐くものはほとんどない。喉の奥が焼け、涙が勝手に落ちた。


雨は細く、冷たかった。


「……行かなくては」


誰に言うでもなく呟き、私は鞄を抱え直した。母の銀の匙が中で小さく鳴る。母の料理帳は置いてきた。あれはヴェルナー家の台所にあるべきものだ。ただ、私の名だけは置いてこなかった。


それでよかったはずなのに、胸の真ん中が空いたように痛む。


財布を開くと、銀貨は六枚。雨宿りのできる宿なら、安い部屋で一晩二枚。明日の朝食をつければ三枚。王都の中心では足りない。


私は北門の方へ歩いた。貴族街から遠ざかるほど石畳は荒れ、灯りも少なくなる。通りのパン屋が閉め支度をしていたので、硬くなった昨日のパンを一つ買った。銅貨に崩してもらう時、店主の目が私の濡れた裾と小さな鞄に向いた。


「お嬢さん、家出かい」


「仕事を探しています」


嘘ではない。


「北門の施療院なら、夜でも人手を探していることがある。けど、貴族のお嬢さんが行く所じゃないよ」


「貴族のお嬢さんでは、なくなりました」


店主はそれ以上聞かなかった。代わりに、少し欠けたチーズを紙に包んで渡してくれた。


「捨てるところだった。持っていきな」


礼を言うと、声がまた詰まった。


北門施療院は、城壁に近い古い修道院を改めた建物だった。戦で怪我をした騎士、工房で火傷した職人、身寄りのない子どもが運び込まれる場所だ。伯爵家の晩餐会に出すような銀皿は一枚もない。代わりに、煮沸した布と薬草の匂いがした。


門の下で雨を払っていると、中から少年の泣き声が聞こえた。


「熱い、痛い、もう嫌だ」


「トマ、暴れない。布がずれる」


「お腹、気持ち悪い」


声を聞いた瞬間、足が勝手に動いた。


開いた扉の向こうで、十歳ほどの少年が椅子に座らされていた。右手に火傷を負い、手首まで赤く腫れている。看護婦らしき女性が薬を塗ろうとしているが、少年は泣きながら身をよじっていた。


鍋のそばには、冷めた豆の煮込みがある。油が浮き、濃い香草の匂いがした。火傷の痛みで吐き気がある子どもには重すぎる。


「すみません」


私は濡れた髪を押さえながら言った。


「その子、今は豆ではなく薄い粥のほうがいいです。塩を少し、卵は入れず、麦を細かく潰して。できれば白い根菜を一切れ」


看護婦が振り向いた。鋭い目だった。


「誰だい、あんた」


「料理人です」


言い切ってから、胸が小さく震えた。


伯爵家の娘ではなく、婚約者でもなく、修道院へ送られる余り者でもない。


料理人。


その言葉は、雨に濡れた体の奥で、かすかに温かかった。


「貴族の娘に見えるけど」


「今夜、家を出ました。台所なら使えます。使わせていただけるなら、その子の粥を作ります」


「金は払えないよ」


「いただきません。火傷の子どもに、豆は重いので」


看護婦は私をしばらく見た。濡れた靴、震える指、抱えた鞄。疑う理由はいくらでもある。


それでも、少年がまたえずいたので、彼女は短く言った。


「メイナだ。鍋はそこ。勝手な薬草は入れるんじゃないよ」


「はい」


台所は小さかった。伯爵家の竈の三分の一ほどしかない。薪は湿り、鍋の底には古い焦げが残っている。だが、水は清潔で、麦もある。白い根菜は萎びていたが、芯は甘い。


私は袖をまくった。右手の指先が赤くなっている。料理帳から糸を抜いた時、小刀で少し切っていたらしい。今になって痛みが来た。


痛くても、手は動く。


麦を布で包み、石で軽く叩いて割る。鍋に水を張り、根菜を薄く削る。塩は、最初ではなく沸き際に少し。火傷の熱で体がこわばっている時は、舌に強い味を置かないほうがいい。


竈に火を入れると、炎は素直に鍋底を舐めた。


私は息を吐いた。


ヴェルナー家の火ではない。母の料理帳もない。けれど、火はここにもある。水は煮える。麦はほどける。私の手は、まだ何かを作れる。


背後で、低い男の声がした。


「メイナ。見知らぬ令嬢が台所に立っていると聞いたが」


振り向くと、濃紺の外套を着た男性が入口に立っていた。二十代半ばだろう。雨を浴びた銀灰色の髪を後ろへ撫で、剣帯を外して腕に掛けている。騎士の体格だが、目は驚くほど静かだった。


メイナが薬箱を閉じる。


「クラウス様、この子は料理人だそうです。火傷のトマに粥を作ると」


「本人がそう言ったのか」


男性――クラウスは、私ではなくメイナに確認した。私を勝手に値踏みする視線ではない。それだけで、少し呼吸が楽になった。


「はい。リディアと申します」


「家名は」


口にしようとして、止まった。


ヴェルナー、と言えば、すぐに迎えが来るかもしれない。言わなければ、怪しまれる。


私が黙ると、クラウスは一歩だけ距離を取った。


「言いたくない事情があるなら、今は聞かない。ただし、ここは施療院だ。毒と盗みを防ぐため、台所に立つ者の責任者は必要になる」


「責任者は、私です」


声が震えた。


「その粥については、私が責任を持ちます」


クラウスの表情が、ほんの少し変わった。


「分かった。では、見せてもらう」


粥が煮えた。麦が完全に崩れる前に火から外し、木椀に注ぐ。根菜は潰し、塩はほんの少し。最後に、パン屋でもらったチーズの欠けを爪ほど削った。脂は少ないが、匂いが丸くなる。


「チーズを?」


メイナが眉を上げた。


「痛みで泣いた子は、喉が閉じています。少しだけ匂いがあるほうが、飲み込むきっかけになります」


私は椀をトマの前に置き、膝をついた。


「一口だけでいいの。嫌ならやめる」


「熱くない?」


「熱かったら、私の失敗」


木匙で少しすくい、先に自分の唇に当てた。ぬるすぎず、熱すぎない。トマが涙で濡れた目をこちらに向け、恐る恐る口を開ける。


一口。


飲み込んだ後、少年の肩から力が抜けた。


「……痛いの、少しだけ遠くなった」


「よかった」


膝の力が抜けそうになった。私は床に座り込まないよう、椅子の脚をつかんだ。


メイナが無言でトマの額に触れた。


「吐き気が止まってるね」


クラウスは椀の中を見てから、私に向き直った。


「リディア殿。北門施療院は、明日の朝から三日間、臨時の料理人を必要としている。怪我人用の食事を作れる者が足りない」


「私は……身元が確かではありません」


「だから臨時だ。賃金は日ごとに銀貨三枚。寝台は女中部屋の空きを一つ。台所に入る時はメイナの確認を受ける。嫌なら断っていい」


断っていい。


その一言に、胸がひどく痛んだ。


父は命じた。レナードは決めた。マリベルは当然のように鍵を求めた。けれどこの人は、雨に濡れた私に選ばせている。


「……銀貨三枚は、多すぎます」


「専門の仕事には払う。ここでは、善意だけで人を台所に縛らない」


唇の奥が震えた。今度こそ泣きそうだった。


「では、三日間だけ。契約書をお願いします。私の仕事名も書いてください」


「仕事名?」


「料理人、と」


クラウスは頷いた。


「分かった。北門施療院付き、臨時料理人リディア。家名は空欄。契約名が必要なら、明日決めればいい」


メイナが乾いた布を私に投げた。


「髪を拭きな。粥を作って倒れられちゃ困る」


布は粗く、温かかった。


私はそれを両手で受け取った。やっと、自分が寒かったことに気づく。指が震え、布をうまく握れない。


トマが椀を抱えたまま、私を見上げた。


「お姉ちゃん、明日も粥ある?」


「あるわ」


答えた瞬間、体の奥に小さな火が灯った。


明日作るものがある。食べる人がいる。名前を書いてもいい契約がある。


その頃、ヴェルナー伯爵家では、別の火が消えていた。


後で聞いた話だが、前祝いの晩餐は一皿目で止まったらしい。仔羊は芯まで生で、林檎は黒く縮み、父の胃痛に出すはずだった麦粥は水と粉に分かれた。客の一人が怒って帰り、王宮の使いが献立確認のため夜半に訪れた時、台所には焦げた匂いだけが残っていたという。


私が女中部屋の硬い寝台に腰を下ろした時、門番が封書を持ってきた。


封蝋には、ヴェルナー家の紋章。


開かなくても、中身は分かる気がした。


クラウスが私の手元を見て言った。


「読むかどうかは、あなたが決めることだ」


私は少し考え、封書を机に置いた。


「今は読みません。明日の粥の麦を、水に浸けてからにします」


クラウスは笑わなかった。ただ、当然のように頷いた。


「では、台所へ案内しよう」

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