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第一話 母の料理帳は妹のもの

「母の料理帳は、今夜からマリベルのものにする。お前は婚約者も台所も妹に譲って、明朝、修道院へ行け」


父の声は、晩餐前の広間によく響いた。


銀の燭台には火が入り、白い卓布には王宮から借り受けた紋章入りの皿が並んでいる。明日の夜、ヴェルナー伯爵家は初めて王宮晩餐会の一部を任される。その前祝いとして、今夜は親族と取引先を招いていた。


その席で、私は自分の椅子を失った。


「……お父様。今、なんと」


喉が詰まり、声が紙をこすったようにかすれた。


父エルンストは、私を見ずに言った。


「聞こえなかったか。料理帳はマリベルに渡す。お前が台所にこもって作ってきたものも、今日からは妹の手柄として出す。家のためだ」


隣で妹のマリベルが、淡い桃色の扇を口元に当てた。


「お姉様、そんな顔をしないで。わたし、王宮の方々の前で失敗しないように頑張るわ。お姉様が書いた細かな手順も、ちゃんと読むもの」


「読む、だけでは……」


「では何だ?」


父が初めてこちらを見た。冷えた灰色の目だった。


「お前は、皿を作った。それは認める。だが、伯爵家の台所で、伯爵家の材料を使い、伯爵家の客に出した料理だ。ならば功績も家のものだ。家を飾るのに、どちらの娘を立てるべきかは明らかだろう」


指先が冷えていく。


母の料理帳は、私が十歳の時に受け継いだ。革表紙の角は焦げ、頁には塩水の跡がある。母は亡くなる前、震える手で私に台所の鍵を握らせた。


火は嘘を嫌うのよ、リディア。

食べる人の名を覚え、作る人の名を覚える。

だから、誰のために作るのかだけは間違えないで。


その言葉を、私は毎朝守ってきた。


夜明け前に竈へ塩を落とし、料理帳の火の欄に署名する。父が胃を痛めれば薄い麦粥を炊き、マリベルが舞踏会の前にむくめば香草水を整え、取引先の老婦人が肉を噛めないと聞けば、舌でほどける鶏の煮込みを出した。


皿が空になるたび、父は言った。


「ヴェルナー家の台所はよくやる」


一度も、私の名は呼ばなかった。


それでもよかった。母の鍵があり、母の料理帳があり、台所に私の手が必要とされていたから。


「リディア」


婚約者のレナードが、私の向かいからため息をついた。


「君は昔から表に立つのが苦手だっただろう。マリベルのほうが華やかで、王宮の方々にも受けがいい。婚約も、彼女に移したほうが両家のためになる」


「婚約も、ですか」


「君には静かな修道院が向いている。料理帳の写しを渡してくれれば、生活に困らない程度の支援はする」


胸元の布を握った。爪が食い込み、痛みでやっと息が戻る。


私は今夜、婚約者を失い、家を失い、母の遺品まで妹の飾りにされようとしていた。


広間の端では、下働きのアンナが青い顔をしている。明日の仕込みはまだ半分残っていた。王宮から届いた仔羊は、今夜のうちに下味を入れなければならない。蜜煮にする林檎は、客の一人が蜂蜜で咳を起こすから、砂糖楓に替える必要がある。


全部、私の頭の中に入っている。


「お姉様、鍵を」


マリベルが小首を傾げた。


「今いただける? 明日の朝だと、わたしが困ってしまうから」


その言葉で、何かが静かに切れた。


唇を噛むと、鉄の味がした。


「分かりました」


広間が、少しざわめいた。


父は満足げに顎を上げる。


「ようやく聞き分けたか」


「はい。鍵を返します」


私は腰の鎖から、黒い鉄の鍵を外した。母の手から受け取った時は、両手で包まなければ持てないほど大きく感じた鍵だ。今は、掌に食い込む冷たさだけが重い。


だが、鍵だけでは足りない。


「その前に、台所へ行かせてください。料理帳から、私の名を外します」


父の眉が寄った。


「何をする気だ」


「お父様がおっしゃった通り、これからはマリベルの手柄です。ならば、私の名で火が入っていてはおかしいでしょう」


「そんな手続きがあるの?」


マリベルが目を丸くした。初めて聞いた、という顔だった。


料理帳を継ぐと言いながら、火を起こす最初の手順も知らない。


私は笑わなかった。笑えば、泣き声が混じりそうだった。


「あります」


「リディア、余計な真似はするな」


父の低い声を背に受け、私は膝に力を入れて立った。立てたことが不思議だった。


台所へ向かう廊下は、いつもなら焼いた肉と香草の匂いが満ちている。今夜は、どこか焦げ臭い。若い料理人たちが私を見るなり道を開けた。


「お嬢様、旦那様は本気なのですか」


料理番のバルトが、粉のついた手で帽子を握った。


「ええ」


「明日の献立は、お嬢様でなければ」


「今日からはマリベルが立ちます」


そう言うと、バルトの顔が歪んだ。私は見ないふりをした。見れば、足が止まる。


竈の上の棚に、母の料理帳がある。


革表紙に触れた瞬間、背中に汗が伝った。母の手の温度はもうない。それでも、焦げた角を撫でると、幼い頃に抱き寄せられた匂いがした。


料理帳の最後には、火の欄がある。歴代の台所を預かった者の名が、細い赤い糸で綴じ込まれていた。母ローザの名。その下に、十歳の私が震える字で書いたリディア。


私は小刀を取った。


「お嬢様」


アンナが泣きそうな声を出す。


「止めないで」


「でも、それを切ったら……」


「私の名で、私を捨てる家の火を燃やすことになる」


声は震えていた。けれど、手順は間違えなかった。


赤い糸の結び目を探し、母の名を傷つけないよう、私の署名だけを束からほどく。糸は意外なほど簡単に抜けた。十歳の私の字が、頁から薄く浮き上がり、灰のように崩れる。


竈の火が、ふっと細くなった。


鍋を見ていた下働きが悲鳴を上げた。


「火が、落ちました」


「薪を足せ」


バルトが命じる。薪はすぐにくべられた。けれど、炎は赤くならない。青白く揺れるだけで、鍋の底を温めようとしなかった。


仔羊の鍋から、脂が白く固まっていく。蜂蜜を使わず砂糖楓で煮るはずの林檎は、芯だけが黒ずみ、果肉は生のままだった。


廊下の向こうから、父の足音が荒く近づく。


「リディア、何をした」


「私の名を外しました」


私は料理帳を閉じ、台所の鍵を父の前に差し出した。


「この台所は、今日からマリベルのものです」


「戻せ。今すぐ戻せ」


「戻す欄はありません。火は一度、名を失った相手を勝手には覚えません」


父の顔から血の気が引いた。


マリベルが遅れて駆け込んできて、半煮えの鍋を見て口元を押さえる。


「お姉様、意地悪しないで。明日は王宮の方が召し上がるのよ」


「ええ。だから、手柄を受け取る方が作るべきです」


「そんなの、ひどいわ」


ひどい。


その言葉が、胸の奥で静かに反響した。


母の料理帳を奪い、婚約者を奪い、家から出て行けと言った口で、妹は私をひどいと言う。


私は鍵を父の掌に置いた。


「支援は不要です。写しも渡しません。母の料理帳はここに置いていきます。ただし、私の名はもうありません」


「リディア、家に逆らって生きていけると思うな」


「分かりません」


正直に言った。指先はまだ冷えている。膝も震えている。明日の寝床も、明後日の食事も分からない。


それでも、私は母の料理帳を妹の飾りにはしない。


「でも、私の名を奪われたまま生きるよりはましです」


父が腕を上げた。叩かれる、と思った。


その時、食堂の方で陶器の割れる音がした。続いて、客の怒鳴り声が響く。


「スープが冷たいぞ。肉が生だ」


「ヴェルナー家の台所はどうなっている」


父の手が止まった。


私はその横をすり抜け、台所の出口へ向かう。荷物は小さな鞄一つ。母の銀の匙と、着替えが二枚。財布には銀貨が六枚。これが私の全部だった。


玄関広間で、レナードが追いついてきた。


「リディア、待て。少し冷静に話そう」


「婚約は、マリベルに移すのでしょう」


「それは家同士の判断だ。だが、君がここまで怒るとは思わなかった。明日の晩餐だけ戻せば、修道院行きは考え直しても」


「レナード様」


私は初めて、彼の顔をまっすぐ見た。


「私の仕事を妹の手柄にする話に、あなたは賛成しました」


「だから、それは」


「では、私がいなくても困らないはずです」


扉を開けると、夜の雨が石段を濡らしていた。冷たい空気が肺に入る。屋敷の中ではまだ誰かが怒鳴り、誰かが走っている。


背後から、アンナの声がした。


「お嬢様、厨房の火が全部つきません」


私は振り返らなかった。


「妹の手柄なら、妹に頼んで」


そう言って、私は伯爵家を出た。

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