代理返却印は、本人未読の私の名を返却済みにできません
貸出簿の追記欄に押された王宮代理返却印は、紙の上では細く、きれいだった。
けれど、その横に書かれた一文だけが、リディアの名を勝手に畳んでいた。
旧台所係リディア、本人読了済みとして返却処理。
リディアは指を置かず、まず空白を見た。
本人読了欄。
そこには、何も書かれていない。
「読了済みなら、読んだ者の名と、読んだ生活影響が要ります」
彼女は青い保留札を、代理返却印の上ではなく、空白の読了欄の横へ置いた。
「印を消すためではありません。この空白を、勝手に埋めさせないためです」
王宮保管室の係官が、顔色を変える。
「代理返却印は、返却者が確かに印箱を戻した証です。保管室としては、棚に戻った時点で処理済みになります」
「棚に戻ったのは、印箱だけです」
リディアは、貸出簿の下に三枚の札を並べた。
リーナの手荒れ薬袋。
カイルの西三つ角灯油札。
エダの未受領賃金袋。
「この印で動いた薬、帰り道、賃金、同意欄は、まだ誰の手にも戻っていません。そこへ、私が読んだことにする一文を添えるなら、私がどこまで責任を読んだのかを示してください」
伯爵家の使いが笑った。
「旧台所係の名がある。お前の仕事の範囲だろう」
「いいえ」
リディアは、静かに首を振った。
「旧台所係という名は、何でも閉じる鍵ではありません。夜薬の火加減を読んだのか。西三つ角の帰宅灯を消してよい条件を読んだのか。エダさんの賃金袋を本人が受け取ったかを読んだのか。同意欄の本文を本人が読めたかを読んだのか。範囲を分けなければ、私の名で誰かの生活を返却済みにできます」
小机の端で、ノラが湯温札を押さえていた。
昨日から何度も濡れたその札には、北門施療院の小竈の熱がまだ薄く残っている。
「名前が一つで済むなら楽です。でも、その名前で閉じたあと、熱い湯を持つ手も、暗い角を帰る足も、賃金を受け取る声も、別々に残ります」
リディアは、湯温札を貸出簿の横へ置いた。
「だから、私の名を使うなら、私がどの手と足と声を読んだのかを分けてください。分けられないものは、読了済みではありません」
リーナが、薬袋を胸に抱き直した。
「リディアさんが読んでいないなら、わたしの薬も、読了済みじゃないんですね」
「はい」
リディアは、リーナの薬袋の札に一行を足した。
本人未読欄を代理返却印で補完しない。
今夜分の加温薪は、患者別確認まで支給待ちとして残す。
王宮書記官が息を呑んだ。
「保留ではなく、支給待ち……」
「止めるための空白ではありません。届くまで守るための空白です」
次に、カイルの灯油札へ書く。
代理返却印は、本人帰着確認の代わりにならない。
西三つ角の灯油は、鍵箱返却と次番引継ぎまで点灯継続。
最後に、エダの賃金袋へ青札を重ねた。
返却処理済みの文言では、本人未受領賃金を相殺しない。
本人名で受領または未受領を読めるまで、支払い待ち。
赤い相殺線の上に、青い線が一本のった。
それだけで、エダの賃金袋は、警備費不足分の紙から外れた。
セレスティアが、貸出簿を自分の前へ引き寄せる。
「王宮代理返却印の効力を限定します」
彼女は新しい紙に、硬い字で書いた。
王宮代理返却印は、物品が返却棚へ戻った所在確認に限る。
本人読了済み、旧台所係確認済み、生活影響承認済みへの転用を認めない。
読了欄の空白は、記入漏れではなく、本人未到達の保護欄として扱う。
伯爵家の使いが、唇を歪めた。
「そんな空白を残せば、王宮の処理が遅れる」
「遅れるのではありません」
リディアは、空白の読了欄を見た。
そこに、自分の名をまだ書かない。
「私が読んでいないものを、私の名で早く閉じないだけです」
胸の奥で、少しだけ息が戻った。
母の料理帳から外された名。
台所の鍵と一緒に返したはずの名。
誰かの薬や帰り道や賃金を閉じるために使われかけた名。
それは、まだリディア自身の読める場所に残っていた。
「私の名前は、返却済みの印では戻りません。私が、誰の生活を読む責任なのかを読んでからでなければ」
王宮書記官が、代理返却印の横にある小さな番号へ気づいた。
「監督官殿。この一文、保管室の手書きではありません。返却文言番号がついています」
セレスティアの目が、代理印ではなく、その番号へ移った。
返却文言登録、王宮書記局返却処理係、定型句二十七。
旧台所係本人読了済みとして返却処理。
リディアは、貸出簿を閉じなかった。
代理の印では、棚の箱は戻せても、読んでいない名までは返却済みにできない。
次に読むべきものは、印ではなかった。
誰かが用意した、本人読了済みという言葉そのものだった。




