王宮保管室の貸出簿は、旧火印で閉じた夜を借用扱いにしません
銀線の封は、黒い印箱を縛ったまま細く光っていた。
リディアは箱を開けず、封の端に残る番号だけを読んだ。
王宮保管室、貸出封、七三一。
王宮書記官が慌てて帳面を取り寄せる。
「貸出簿を見れば、誰が借りたかは分かります」
「借りた人の名より先に」
リディアは、青い保留札を貸出簿の上へ置いた。
「この印で、誰の夜が借りられたことにされたのかを読みます」
伯爵家の使いが、苛立った声を出した。
「貸出は物品管理です。印箱が戻っているなら、王宮保管室の処理は完了でしょう」
「返却棚に戻ることと、生活が戻ることは違います」
リディアは、昨日から小机に置き続けている三つの札を並べた。
リーナの手荒れ薬袋。
カイルの西三つ角灯油札。
南倉夜番エダの未受領賃金袋。
その横に、王宮保管室の貸出簿を開く。
七三一番。
旧台所会計火印。
貸出時刻、宵二刻。
貸出理由、旧台所係確認済み処理。
返却棚、王宮厨房共通印棚下段。
返却済み。
セレスティアの指が、貸出理由の行で止まった。
「旧台所係確認済み……リディア、あなたは読んだ覚えがありますか」
「ありません」
リディアは首を横に振った。
「私の名で確認済みにするなら、私が読んだ欄が必要です。けれど、ここには貸出理由しかありません。誰の薬を止めるか、誰の帰り道を暗くするか、誰の賃金袋を閉じるかがない」
書記官が、貸出簿をめくる手を止めた。
「貸出簿は、物を借りた記録であって……」
「だからこそ、物の外へ出た影響を閉じてはいけません」
リディアは、宵二刻の横へ三本の青線を引いた。
宵二刻。
夜薬加温薪、削減開始時刻。
西三つ角灯油、晩餐会警備費へ振替時刻。
南倉夜番賃金、相殺済み処理時刻。
リーナが、自分の薬袋を胸に抱いた。
「貸出簿に、わたしの薬の時刻もあるんですか」
「貸出簿にはありません。でも、同じ時刻に閉じられた生活があります」
リディアは、手荒れ薬袋の札へ小さく書いた。
貸出済みは、薬の到達確認ではない。
今夜分の加温薪は、患者別確認まで保全。
カイルの灯油札にも書く。
返却済みは、帰宅路の点灯完了ではない。
本人帰着、鍵箱返却、次番引継ぎまで消灯不可。
最後に、エダの賃金袋の空欄へ青札を重ねた。
返却棚に戻った印では、本人未受領の賃金を相殺できない。
エダの名は、まだ本人受領欄に戻っていなかった。
けれど、相殺済みの赤い線だけは、その場で止まった。
伯爵家の使いが声を荒らげる。
「それでは、貸し出された印が使われた会計を全部読み直すことになる!」
「全部ではありません」
リディアは静かに答えた。
「薬、帰路、賃金、同意欄。生活が動いたものだけです。印箱が棚に戻っても、その四つが戻っていなければ、完了ではありません」
セレスティアが、貸出簿を王宮書記官へ返さず、自分の前に置いた。
「王宮保管室の責任範囲を明文化します」
彼女は新しい紙に、きっぱりと書いた。
王宮保管室の貸出済み・返却済みは、印箱の所在確認に限る。
旧火印により動いた薬・帰路灯油・賃金・同意欄は、生活影響明細と本人到達確認が添付されるまで閉じない。
小さな規則だった。
貸出封一本。
貸出簿の時刻一つ。
返却棚の番号一つ。
けれど、リーナの薬袋は今夜の薪へ戻り、カイルの西三つ角は消灯できなくなり、エダの賃金袋は相殺済みの線から外れた。
リディアは、貸出簿の下段にある追記欄を見つけた。
返却者。
そこには、借用者と同じ名ではなく、細い王宮代理返却印が押されていた。
さらに、その横に一文。
旧台所係リディア、本人読了済みとして返却処理。
リディアは、自分の名の横に空白の読了欄が残っているのを見た。
「私の読了欄は、まだ空いています」
セレスティアの目が冷えた。
「次は、代理返却印です」
リディアは、貸出簿を閉じなかった。
返されたことにされた印箱の裏で、まだ返っていないのは、誰かの夜だけではなかった。
リディア自身の名もまた、読んでいないまま返却済みにされていた。




