旧台所会計火印は、王宮共通印の棚で誰の薬と帰路を閉じたのか
リディアは、黒い印箱に手を伸ばさなかった。
箱の札には、煤の染みた文字が残っている。
ヴェルナー伯爵家、旧台所会計火印。
王宮書記官は、喉を鳴らした。
「伯爵家の印が、なぜ王宮厨房共通印棚に」
「開ける前に、先に読みます」
リディアは青い保留札を一枚、印箱の前へ置いた。
「誰が入れたかより先に、この印で誰の生活が閉じられたのかを」
伯爵家の使いが、硬い声で言った。
「旧台所会計火印は、ヴェルナー家の会計確認印です。王宮の生活とは関係ありません」
「関係があります」
リディアは小机の上に、昨日から守っている札を並べた。
リーナの手荒れ薬袋。
カイルの西三つ角灯油札。
薬粥室の夜薬棚札。
南倉夜番エダの未受領賃金札。
次皿番同意欄の空白写し。
その横へ、共通印原簿から写した一行を置く。
旧台所会計火印。使用目的、火入れ会計確認。転用先、王宮厨房共通棚。
「火入れ会計確認、という言葉だけでは読めません。火を入れたのは誰の鍋か。会計で閉じられたのは誰の薬か。確認されたことにされた帰路はどこか。そこまでなければ、生活影響明細ではありません」
王宮厨房監督官セレスティアが、静かに原簿を受け取った。
彼女は棚番号を見て、顔を強ばらせる。
「この下段は、共通印の予備棚ではない。旧印・返却待ち印・廃印を一時保管する棚です。王宮側の保管責任です」
書記官が息を呑んだ。
「では、伯爵家だけの問題では」
「ありません」
セレスティアは、はっきりと言った。
「私の厨房の棚で、生活に影響する印が眠っていた。なら、王宮側も、その印で何が閉じられたかを読まなければならない」
リディアは頷き、旧台所会計火印の使用控えをめくった。
一つ目。
北門施療院、夜薬加温薪、会計火入れ済み。
リーナが薬袋を抱え込む。
「それ、わたしの薬ですか」
「あなた一人ではありません。夜薬棚全体です。火入れ済みと書かれていますが、誰が飲む薬を何時まで温めるかがありません」
リディアは青線を引いた。
夜薬加温薪は、患者別到達確認まで未完了。
二つ目。
西三つ角灯油、晩餐会警備費へ振替済み。
カイルが札を握った手を震わせる。
「俺の帰り道を、台所の火印で」
「帰った人の足元を読まずに、警備費へ移したことになっています」
リディアは、灯油札の余白へ書く。
帰宅路灯油は、本人帰着・鍵箱返却・次番引継ぎまで未完了。
三つ目。
南倉夜番賃金、旧台所係火守り補助費にて相殺済み。
エダの名が、そこにあった。
ただし、本人受領欄は空白だった。
「相殺済みではありません」
リディアは声を落とした。
「エダさんの賃金袋は、本人が名前で受け取り、帰り道を持つまで未完了です。旧台所会計火印は、誰かの賃金を火守り補助費へ変える印ではありません」
伯爵家の使いが、耐えかねたように言った。
「会計印を疑えば、晩餐会全体の精算が止まるぞ」
「止めるのではありません」
リディアは、黒い印箱を見た。
「閉じてはいけないものを、未完了へ戻すだけです」
セレスティアが、新しい仮規則を読み上げた。
旧台所会計火印による火入れ済み・振替済み・相殺済みは、本人到達確認と生活影響明細が添付されるまで、薬・帰路灯油・賃金・同意欄を閉じない。
小さな規則だった。
夜薬棚一段。
西三つ角の灯り一皿。
エダの賃金袋一つ。
空白のまま守られた同意欄一枚。
けれど、古い家の火印が王宮の棚で鳴らしていた閉鎖の音は、そこで止まった。
リディアはようやく、印箱の留め金を見た。
留め金には、ヴェルナー伯爵家の封蝋だけではない。
王宮厨房の予備鍵を借りた時に押す、細い銀線の封が巻かれていた。
セレスティアの眉が動く。
「この銀線は、王宮保管室の貸出封です」
リディアは、黒い箱へ触れずに、もう一枚の青札を立てた。
「次は、貸出簿を読みます。誰がこの印を借り、誰の薬と帰路を閉じる棚へ戻したのかを」
旧台所会計火印は、伯爵家の古い道具では終わらなかった。
王宮保管室の貸出簿の中で、まだ誰かの夜を閉じたまま、静かに眠っていた。




