帰ったことにされた水番たちの、本当の帰り道を読みます
黒く塗られた十七の欄を、リディアは削らなかった。
削れば、名は出るかもしれない。けれど、誰がいつ塗ったのか、何を隠すための黒だったのかまで、一緒に失われる。
「名前を掘り出す前に、閉じられない場所を作ります」
リディアは井戸小屋の戸板を外し、そこへ古い水番名簿を広げた。ミレイは毛布を肩に掛けたまま、青い布の端を押さえている。ノラは半分の水を薬粥室へ運び終え、戻ってきた札をまだ手に持っていた。
セレスティア監督官が息を整え、短く言った。
「十七人全員を今夜見つけるのは無理だ」
「はい。だから今夜は、十七人全員を帰着済みにできないようにします」
リディアは黒塗りの横に押された同じ印を見た。
――主火場補充済み。
一つ目の欄には、油皿番号だけが残っていた。皿は主火場へ戻ったことになっている。だが、カイルの門灯記録には、同じ時刻の帰路灯りが点いていない。
「これは、皿だけが戻った人です」
リディアは青い線を引く。
「油皿到着。本人帰着未確認。帰路灯り未点灯。朝水到達、不明」
二つ目の欄には、賃金袋の番号だけが残っていた。袋には赤い小さな印が押されている。支払済み。
エダが唇を噛んだ。
「その袋、受け取り声の欄がない。南倉の仮払いと同じ形です」
「では、支払済みではありません」
リディアは、赤印の上から塗り潰さず、横へ書き添えた。
「本人名未確認。受領声なし。帰宅路未確認。賃金袋、本人棚へ戻るまで未完了」
三つ目の欄には、次番同意済み、とだけ残っていた。
ミレイが震える声で言う。
「前の人が帰らないと、次の水番は受けられません。桶の数も、井戸綱の結びも、夜明けの凍り方も、前番から聞くから」
「それを書きます」
リディアは三つ目の黒塗りにも、同じ青を置いた。
「前番帰着未了。井戸綱引継ぎ未了。次番同意、無効ではなく保留。本人が読めるまで動かさない」
伯爵家の使いが、戸口で苛立った声を上げた。
「そんな札を十七枚も作れば、主火場の帳面が止まる。晩餐会の火をどうする」
「火だけを急がせたから、水番が帰らなかったのです」
リディアは声を荒げなかった。荒げる代わりに、黒塗り名簿の横へ、新しい小札を十七枚並べる。
本人名。
帰路灯り。
朝水到達。
賃金。
前番から次番への手渡し。
「この五つのどれか一つでも空いているなら、主火場補充済みは帰着証明になりません」
セレスティアがその言葉を受け、王宮厨房監督官の印を取り出した。
「原本は削らない。黒塗りのまま封をし、写しを十七枚作る。分類は、本人帰着未確認水番。主火場補充済み印は、帰着・支払・同意の証明に使うことを停止する」
その場の空気が少しだけ変わった。
十七人の名はまだ戻らない。けれど、十七人はもう、帰ったことにされない。
ノラが一枚目の小札を持ち上げた。
「この人の桶、薬粥室のものと同じ欠けがあります。朝水を届けようとしていた人です」
「では、その人の朝水棚を空けておきます」
リディアは小札を薬粥室の扉脇へ掛けた。黒塗りの誰かのために、明日の水の席が一つ空いた。
ミレイが深く息を吐いた。
「名前がまだ読めなくても、帰っていないって言っていいんですね」
「言っていいのではありません」
リディアは十七枚の青い札を見た。
「そう数えなければ、次の人も帰れなくなります」
そのとき、セレスティアの部下が主火場から駆け込んできた。手には別の薄い台帳がある。
「監督官。主火場補充済み印ですが、水番名簿だけではありません」
開かれた台帳には、洗い場、薬粥室、夜灯係の欄が並んでいた。
その横にも、同じ印が押されている。
――主火場補充済み。
リディアは十七枚の札を閉じず、さらに空の札束を取り出した。
「次は、火に補充されたことにされた手と、まだ生活へ帰っていない仕事を読みます」




