表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
60/120

帰っていない人に押された帰着印を、消えない灯りの下で未完了へ戻します

帰着印は、消してはいけない。


 リディアはそう言って、アベル・ロークの名の横へ伸ばしかけたカイルの手を止めた。


「偽物なら、削ればよいのでは」


 カイルの声には、怒りよりも怖さが混じっていた。自分たちの帰る表に、知らない名が入り、しかも先に帰ったことにされている。その気味悪さは、灯りの下でも薄れない。


「消すと、誰が何を閉じようとしたかまで消えます」


 リディアは母の料理帳を開き、余白に四つの小さな欄を作った。


 本人が門を通った確認。


 所属または帰る場所。


 印を押した手。


 同じ夜を見た場所。


「帰着済み、という言葉は、この四つがそろって初めて使えます。名簿にない人の横に印だけがあるなら、帰着済みではありません」


 彼女は青い糸で、赤い帰着印の周りを四角く囲った。


「本人帰着未確認。印責任者照会中。灯り予約分、閉鎖不可」


 ノラが、洗い桶を抱えたまま小さく息を吸った。


「知らない人の分でも、灯りを残すのですか」


「知らないからこそです」


 リディアはアベル・ロークの名を、もう一度だけ声に出した。


「名前を知らないことは、その人が帰った証拠にはなりません。名簿にないことは、帰る場所がない証拠にもなりません」


 テッサが包帯棚から、古い油皿を持ってきた。帰宅路の端に置く、小さな平皿だ。そこには昨夜の煤が薄く残っている。


「アベル、という名は聞いたことがありません。でも、この煤の色なら見覚えがあります。北門の裏灯ではなく、旧台所棟の低い火です」


 リディアは油皿を帳面の横へ置いた。


 伯爵家台所。


 北門施療院。


 王宮厨房。


 三つの表のどこにもアベル・ロークはいない。けれど、煤だけは旧台所棟の火と同じ色をしている。


「名簿にない人ではなく、名簿から抜かれた人かもしれません」


 カイルが鍵箱を開き、昨夜の出入り札を一枚ずつ並べた。


「北門の門札にはありません。王宮の受領札にもありません。伯爵家の厨房札にも、今のところありません」


「では、帰着印を押した人は、何を見て帰ったと書いたのでしょう」


 リディアは、帰着印の端に針先ほどの欠けを見つけた。印泥の赤が、紙の繊維に沈む前に、右下だけ少し滑っている。


 急いで押した跡だった。


 本人が戻ってきたのを待った印ではない。表を閉じるために、先に置かれた印だ。


「この印は、アベル様が門を通った音を聞いていません」


 リディアはそう書いた。


 帰着印を否定するのではなく、帰着印が聞いていないものを記録する。


 門の音。


 本人の名乗り。


 帰る場所。


 油皿を返す手。


「帰っていない人の印は、嘘として捨てるのではありません。帰っていないことを示す証拠として、灯りの下に残します」


 ノラがうなずき、油皿の横に小さな火を点けた。明るい火ではない。けれど、赤い印の欠けを読むには十分だった。


「この火は、誰の帰り道ですか」


 ノラが聞く。


「今は、アベル様がまだ帰っていないことを見失わないための火です」


 リディアは答えた。


 テッサが紙片を切り、青い保留札を作る。札の上には、帰着済み、と書かず、帰着を待つ、と書いた。


「待つ、と書けば、閉じないでいられますか」


「ええ。閉じないことも、手順です」


 カイルが鍵箱の空欄に、アベル・ローク、本人確認待ち、と書いた。さらに、横へ小さく追記する。


 門音なし。


 名乗りなし。


 帰る場所未記載。


 その三行が加わると、赤い帰着印は、もう完了の印には見えなかった。むしろ、完了に見せかけるには足りないものを並べている印になった。


 誰も知らない名が、初めて「帰ったことにされない名」として呼ばれた。


 それだけで、帳面の冷たい赤が少し重くなった。


 リディアは王宮へ返す写しに、短く記した。


 旧台所係欄アベル・ローク。本人帰着未確認。


 帰着印は消去せず、先押し印として保全。


 灯油予約分は、本人確認または所属欄判明まで未完了。


 そのとき、油皿の底から、焦げた薄紙が一枚はがれた。


 古い控えだった。文字は半分焼けている。


 けれど、読めるところがある。


 ――旧台所棟夜半火守り、臨時記録係。


 ――アベル・ローク。


 ――王宮厨房へ転記後、原札不要。


 リディアは、消えない灯りの前でその薄紙を押さえた。


「不要にされたのは、原札だけではありません」


 彼女は、赤い帰着印の欠けを見つめた。


「この人の帰る場所そのものが、転記の時に外されています」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ