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原札不要にされた火守り係の帰る場所を、転記前の札へ戻します

原札不要、という言葉は、紙を捨ててよいという意味ではない。


 リディアは焦げた薄紙を母の料理帳の横に置き、王宮厨房へ返す写しとは別に、原札の欠けた端を青糸で押さえた。


「王宮へ転記済みなら、王宮の帳面で探せばよいのではありませんか」


 カイルがそう言った。怒っているのではない。早くアベル・ロークという名の人を見つけたいのだ。


 だが、リディアは首を振った。


「転記されたのは、名と役目です。帰る場所まで移ったとは限りません」


 薄紙には、きれいな字でこう残っている。


 旧台所棟夜半火守り、臨時記録係。


 アベル・ローク。


 王宮厨房へ転記後、原札不要。


 リディアはその三行の下に、小さな欄を四つ作った。


 どの建物の火を見たか。


 勤務後、どこへ戻る予定だったか。


 油皿をどの棚へ返すはずだったか。


 その夜の記録を、誰の責任で残したか。


「この四つがないまま原札を不要にすれば、アベル様は王宮厨房の帳面に名前だけ残って、旧台所棟へ帰る足を失います」


 ノラが古い油皿を持ち上げた。底には煤と油が薄く固まり、縁の一か所だけ、指で何度も押さえたように黒くなっている。


「この皿、王宮の主火場のものとは違います。もっと低い火です。夜番が足元を見るための、小さい火」


「ええ」


 リディアは油皿を紙片の角へ近づけた。焦げた端に、丸い油染みが重なる。まるで、その紙が長いあいだ油皿の下に挟まれていたようだった。


 テッサが目を細める。


「棚番号が、残っていませんか」


 薄紙の裏、焼け残った繊維の中に、かすかな文字があった。


 三段目。


 旧台所棟、夜半火守り棚。


 リディアは息を止めた。


 そこは王宮厨房ではない。伯爵家の今の台所でもない。母の料理帳がまだ毎夜の火を数えていたころ、夜半の油皿を戻す小さな棚だ。


「アベル様の帰る場所は、まだ完全には消えていません」


 リディアはそう言い、青い保留札を一枚切った。


 油皿一枚。


 旧台所棟夜半火守り棚三段目へ返却待ち。


 アベル・ローク本人帰着確認まで、王宮厨房転記完了扱い不可。


 カイルが、帰着印の横へその札を置いた。


「つまり、王宮厨房に転記されたからといって、この皿を王宮へ返してはいけない」


「はい。皿だけではありません」


 リディアは、アベル・ロークの役目を指でなぞった。


「夜半火守りは、火を見ます。臨時記録係は、見たものを残します。もしその人の原札を不要にしたら、火を見た場所も、記録を残した責任も、帰ってきたかどうかも、全部まとめて消えてしまいます」


 ノラが小さく眉を寄せた。


「でも、原札を残すと、王宮からは整理が遅いと言われませんか」


「整理が遅いのではありません。帰着条件が未完了なのです」


 リディアは写し用の紙へ、王宮の言葉と北門の言葉を並べた。


 転記済み。


 ――本人の足はまだ転記されていない。


 原札不要。


 ――油皿返却先と帰る棚が残っているため不要ではない。


 所属整理済み。


 ――旧台所棟夜半火守り欄の本人確認が未了。


 帰着印確認済み。


 ――門音、名乗り、返却物、帰る場所が未確認。


「王宮の帳面は、探すための写しです。閉じるための印ではありません」


 リディアの声は低かった。


 アベル・ロークという人を、彼女はまだ知らない。顔も、声も、どんな癖で油皿を持ったのかも知らない。


 けれど、紙片に残った時刻の字は細かかった。夜半一刻、芯を切る。夜半二刻、低火を半分に落とす。夜半三刻、裏階段の灯りを消さずに残す。


 乱れた字ではない。


 眠い夜に火を見ながら、それでも次に来る人が困らないように数えた字だった。


「この人は、雑に閉じてよい仕事をしていません」


 テッサが、油皿の煤を拭かずに紙の横へ戻した。


「煤も残しますか」


「残します。煤は、この皿がどの火を見たかの証人です」


 リディアは母の料理帳の余白に、さらに一行を書き足した。


 原札は、本人帰着確認まで未綴じ保全。


 王宮転記は、検索用写しに限る。


 油皿返却先は、旧台所棟夜半火守り棚三段目。


 その三行が入ると、原札不要という冷たい言葉は、少しだけ意味を変えた。


 不要にできないものが、見えるようになった。


 アベル・ロークの名は、もう王宮厨房に転記された誰かではない。


 旧台所棟の夜半に火を見て、油皿を三段目へ返すはずだった人。


 帰着印だけ先に押され、帰る棚を外された人。


 そして、消される前の夜を記録していた人だった。


 カイルが鍵箱の空き欄に、仮の棚札を差し込んだ。


「アベル・ローク。油皿三段目、返却待ち。本人帰着まで閉鎖不可」


 ノラがその札の前に、小さな火を一つ置く。


 明るい火ではない。けれど、帰る棚の文字を読むには十分な火だった。


 そのとき、油皿の底に残った煤の下から、さらに細い紙片が一枚ずれた。


 アベルの字だった。


 夜半記録紙片、一枚。


 旧台所棟より、王宮厨房主火場へ回収済み。


 最終行だけが、煤で黒く縁取られて残っている。


 ――帰り道の灯り、先に消すな。


 リディアは、仮棚札の火を手でかばった。


「次に取り戻すのは、アベル様が残した帰り道です」

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