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帰れなかった人の賃金は、晩餐会警備費へ一括振替できません

南倉の床に置かれた水椀は、まだ半分しか減っていなかった。


エダは粉袋にもたれ、ほどかれた足首を両手で包んでいる。カイルは南倉鍵を鍵箱へ戻したあとも、箱の蓋を閉めなかった。鍵音は戻った。けれど、帳面の上でエダが帰ったことになるには、まだ足りないものが多すぎた。


書記官が拾った札を、震える指で読み上げる。


『南倉臨時夜番賃金、伯爵家晩餐会警備費へ一括振替済み』


その字は、帰着済み仮印よりも乾いていた。


「警備費へ振替済みなら、臨時夜番賃金は支払済み扱いです」


書記官はそう言ってから、自分で言葉を飲み込んだ。水を飲み切れていないエダの前で、支払済みという字だけが先に歩いている。


リディアは札を奪わず、南倉扉の外へ小机を寄せた。北門小竈横仮窓口の写し札を一枚、そこへ置く。


「支払済みは、誰の手に届いたところまでですか」


「賃金台帳から、警備費台帳へ移っているので」


「台帳から台帳へ移っただけでは、エダさんの手に届いていません」


リディアは青い紙を三つに折り、見出しを分けた。


『一、本人名』

『二、夜番賃金』

『三、帰宅条件と次勤務同意』


「この三つが揃わないかぎり、晩餐会警備費へ移せません。賃金は、人が帰るための足と食事を支えるものです。帰れなかった人の賃金を、帰着済みの書類で先に王宮へ渡さないでください」


エダが椀を抱えたまま、かすれた声を出した。


「……臨時、だから。あとでまとめて、と言われました」


カイルが顔を上げる。


「誰に」


エダは首を振った。声にしようとして咳き込む。リディアは答えを急がせなかった。椀の横へ、小さな麦粥の碗を置くだけにする。


「言えないなら、言えないことも本人欄です。代わりに書きません」


書記官が写し本帳に羽ペンを当てる。


「では、『本人発声困難』と」


「いいえ。まず、本人が今できる手順を一つにしてください」


リディアはエダへ、空の木札を差し出した。


「名前だけで構いません。書けなければ、手を置いてください。手も無理なら、それを書きます」


エダは少し迷い、木札の端に指を置いた。粉で白くなった指跡が残る。


カイルが読む。


「南倉夜番エダ、本人指跡あり。賃金受領は未了」


その瞬間、臨時夜番一名という行が、エダという人の行に戻った。


リディアは次に、賃金袋の欄を作る。小さな袋の絵を描き、その横へ言葉を並べた。


『夜番一刻分。南倉閉じ込め中の延長分。帰宅までの食事分。足首手当のための半日保留分』


書記官は目を丸くした。


「そこまで賃金に入れるのですか」


「晩餐会の警備費に入れるなら、警備できた時間だけを見ます。エダさんの生活へ戻すなら、帰れなかった時間と、帰るために必要な時間まで見ます」


カイルが、鍵箱の蓋を開けたまま頷いた。


「南倉鍵が戻るまで、エダは次の現場へ行けない。足首が腫れているなら、明日の朝番も無理だ」


「では、次勤務同意欄は閉じません」


リディアは三つ目の欄に青線を引く。


『次勤務同意、本人が水と粥を取った後に再確認。無発声時は同意にしない』


書記官は、さきほど自分が持っていた本帳を見下ろした。


「しかし、晩餐会警備費は伯爵家側の補填費から出ています。南倉夜番の賃金を戻すには、警備費の総額が合わなくなります」


「合わない数字を、先に生活へ返します」


リディアは母の料理帳を開かず、空椀確認欄の写しを小机に置いた。ミラの喉、ノラの湯温、テッサの包帯、カイルの帰着鍵。どれも、総額が合う前に守ってきた小さい到達だった。


「王宮晩餐会の警備費は、誰が立っていたかで数えられます。でも、エダさんの賃金は、エダさんが帰る道と、明日働かないで休める権利まで届かなければ、支払済みにはできません」


エダが、麦粥の碗へ手を伸ばした。


今度は、椀を少しだけ持ち上げた。縁が震えて、粥が一滴こぼれる。けれど、自分の手で口元へ近づけた。


カイルが、今にも泣きそうな声で読み上げる。


「本人手で麦粥一口。賃金未受領。帰宅条件未完了」


書記官はそのまま写したあと、古い振替札の隅に青い保留印を押した。


『一括振替済み、生活到達未完了につき保留。本人名、賃金袋、帰宅条件、次勤務同意を確認するまで警備費化不可』


廊下の向こうから、別の足音が近づいてくる。伯爵家の紋をつけた男が、警備費台帳を抱えていた。


「その賃金はもう晩餐会の警備費です。臨時夜番は帰着済み、本人同意も勤務継続で処理されているはずだ」


リディアは、エダの指跡が残る木札を小机の中央に置いた。


「ここに本人の指があります。ここに、未受領の賃金袋があります。ここに、帰る道と休む同意がまだ空いています」


男が笑う。


「空いているなら、担当者が補完すればいい」


「空いているから、本人のために空けてあります」


リディアは青い保留印の上へ、もう一行を添えた。


『補完不可。帰れなかった人の賃金は、本人が帰るまで未完了在庫として数える』


鍵箱の中で、南倉鍵が小さく鳴った。


それはもう、扉を閉めるための音ではなかった。エダという人がまだ帰り切っていないと、廊下じゅうへ知らせる音だった。


男の警備費台帳から、薄い紙片が一枚落ちた。


『未受領賃金束、晩餐会警備費不足分へ充当後、帰宅路灯油を停止』


リディアはその紙片を拾い上げ、エダの水椀の横へ置いた。


「次は、帰る道の灯りまで支払済みにされた理由を読みます」

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