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帰着済みの仮印では、戻っていない鍵を鳴らせません

南倉へ向かう廊下は、昼の王宮厨房から一枚だけ音を抜かれたように静かだった。


カイルは鍵箱を抱え、歩くたびに箱の中を小さく鳴らした。北門、薬棚、裏戸、薪置き場。四つの音は返る。けれど、いつも最後に細く鳴るはずの南倉の音だけがない。


王宮厨房の書記官は、写し本帳を胸に抱えてついて来た。


「管理者所見では、昨夜の南倉夜番は直近勤務者と同一、帰着済み仮印です。鍵が箱にないだけなら、持ち帰り忘れの可能性も」


「鍵の不在を、本人の帰着にしないでください」


リディアは振り返らなかった。


南倉の扉前には、薄い木札が一枚、釘に掛かっていた。


『南倉夜番 帰着済み。勤務継続可』


その下に、別の小さな札が重ねられている。


『施錠確認 管理者所見により済』


カイルが顔をしかめる。


「鍵が無いのに、施錠確認済み?」


「帳面の上では、帰った人が鍵を戻し、戻った鍵で施錠を確認したことになっています」


リディアは木札を外さず、横へ青い紙を添えた。


『鍵音未到達。本人帰着未確認。南倉扉前で保留』


「帰着は、欄が埋まることではありません。鍵の音が箱へ戻り、夜番の人が名前で呼ばれ、次の勤務へ無理に押し出されないところまでです」


書記官が唇を結んだ。


「しかし、仮印を外せば、夜番の賃金処理と次の交替が止まります」


「止めるのは賃金ではありません。止めるのは、帰っていない人を帰ったことにする処理です」


リディアは南倉扉の足元を見た。粉袋の口を縛る麻紐が一本、敷居の下へ挟まっている。北門で見慣れた薪紐より細い。けれど端には、夜番が巡回時に腰へ結ぶ小さな赤糸が残っていた。


カイルが膝をつく。


「エダの糸です。南倉の夜番は、巡回札に赤糸を結ぶ癖がある」


「名前を」


リディアが言うと、カイルは息を吸った。


「南倉夜番、エダ。帰着未確認」


その声が廊下に落ちた瞬間、木札の『帰着済み』はただのきれいな字ではなくなった。エダという人の帰りを消す字になった。


書記官は写し本帳を開き、震える指で該当行を探す。


「ここでは、臨時夜番一名、と」


「一名では帰れません。エダさんの名前で呼んでください」


リディアは扉の隙間へ耳を近づけた。中から、人の声はしない。ただ、袋が擦れる音と、遠くで水が一滴落ちる音がある。


「開けます」


「待ってください。施錠確認済みなら、開錠は手順違反に」


「手順違反ではありません。施錠確認が未到達だと分かったので、本人帰着確認のために開けます」


カイルは鍵箱から予備の南倉鍵を取り出しかけ、手を止めた。


「予備で開けると、エダの鍵が戻らなかったことが消えます」


リディアは頷く。


「だから先に書きます」


青い紙に、彼女は三行を分けた。


『予備鍵使用。元鍵未帰着のまま』

『開錠目的、本人帰着確認』

『発見後も帰着済みに置換不可』


書記官は反論しなかった。むしろ、震えた字で写し本帳の余白へ同じ文を写した。


扉が開くと、乾いた粉の匂いが流れ出た。


奥の棚の影で、誰かが小さく動いた。


「エダ!」


カイルが駆け寄る。粉袋の間に、若い夜番が座り込んでいた。右足に袋の崩れた縄が絡み、腰の鍵紐は棚板に挟まっている。口元は白く乾き、声を出そうとしても喉が鳴るだけだった。


リディアは水袋を差し出さなかった。まず椀を床に置き、本人の手の届く距離へ滑らせた。


「飲めるなら、自分の手で近づけてください。飲めないなら、それも書きます」


エダの指が、椀の縁を掴んだ。わずかに引き寄せる。


「本日、本人手で水椀接近。介助は待機」


カイルが声を詰まらせながら読む。


リディアは絡んだ縄を見た。ほどく前に、赤糸付きの巡回札を床へ置き、青い札を結ぶ。


『帰着済み仮印により捜索遅延。本人発見。足拘束あり。原因未閉鎖』


「すぐに原因を決めません。転んだ、怠けた、鍵を持ち帰った、どれも今は書かないでください。エダさんが帰れていなかったことを先に数えます」


書記官が、初めて木札を見上げた。


「帰着済みの仮印が、捜索を止めていました」


「はい」


リディアは南倉扉前へ戻り、古い札の上に青い札を重ねた。


『帰着済み仮印、本人帰着まで未完了。鍵音、本人名、賃金、次勤務同意を確認して閉じる』


カイルはエダの腰から戻った南倉鍵を外し、鍵箱へ入れた。


細い音が、ようやく箱の底で鳴った。


その音を聞いてから、リディアはもう一行を書く。


『鍵音到達。ただし本人帰宅・賃金・次勤務同意未了。閉鎖不可』


帰ってきた鍵だけで、人を帰したことにはしない。


南倉の冷たい廊下で、リディアは王宮本帳の写しを閉じさせなかった。帰着済みという一語は、エダの水椀と足の縄と、まだ受け取っていない夜番賃金と、次の勤務を断れる声まで届いて、初めて閉じられる。


その時、書記官が棚の奥からもう一枚の札を拾い上げた。


『南倉臨時夜番賃金、伯爵家晩餐会警備費へ一括振替済み』


リディアは、戻ったばかりの南倉鍵の音をもう一度聞いた。


「では次は、帰れなかった人の賃金まで、帰着済みにされた理由を読みます」

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