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沈黙を、王宮の返事にしないでください

カイルが読み上げた薄い札を、リディアは北門小竈横の小机の中央へ置いた。


『無発声時は、直近発声または管理者所見により意思継続とみなす』


王宮厨房の書記官は、昨日より少しだけ低い声で説明した。


「悪用のためではありません。声を出せない方が多い現場です。毎回ご本人の返事を待てば、薬も湯も包帯も帰着確認も止まります。直近の発声と、現場管理者の所見で継続扱いにした方が、負担は減ります」


リディアは頷いた。


「沈黙を、拒否と決めつけてもいけません」


書記官の肩がわずかに緩む。


「けれど、沈黙を、王宮の返事にしないでください」


小机の端で、ミラが椀を両手で抱えていた。昨日、彼女は半匙だけ声にして飲めた。今日は唇を開かない。喉が痛むのか、眠いのか、怖いのか、リディアにはまだ分からない。


王宮札の通りなら、昨日の『半匙なら』は今日の同意へ伸びる。


リディアは椀をミラの口元へ運ばず、匙を布の上へ伏せた。


「本日、本人沈黙。服用継続ではなく、喉休め到達。椀は近くに置く。口元へ運ばない」


そう書くと、ミラの指が椀の縁を、ほんの少しだけ押した。拒んだのではない。近くに置いておく位置を、自分で決めたのだ。


「声がない日は、誰かが代わりに飲むと答えてよい日ではありません」


テッサが包帯棚の前で、乾いた二枚を抱えて立っていた。昨日なら、乾いた包帯はすぐ腕へ巻くものだった。だが寝台の男は目を閉じ、返事をしない。管理者が『処置継続』と書けば、白い布は正しい手順として肌へ届いてしまう。


リディアは棚の札を二つに分けた。


『包帯乾燥確認』

『本人接触確認』


「所見で書けるのは、布が乾いたこと、肌が熱いこと、血が滲んだことまでです。本人が触れてよいと答えたことは、見えなかったら作れません」


テッサは包帯を巻かなかった。寝台の横、小さな椅子の上へ、手の届く向きで置いた。


男の指はまだ動かなかった。


「乾燥完了。接触未到達」


テッサが自分でそう読んだ時、包帯は遅れではなく、待てるものになった。


ノラは湯桶の柄を握り直した。


「昨日、熱めでいいって言った人がいるんです。でも今日は黙っていて」


「湯温は、昨日の口ではなく、今日の皮膚に聞きます」


リディアは小杯に湯を移し、一段ぬるくして寝台の横へ差し出した。黙ったままの手が、湯気に近づき、引っ込まなかった。


「本日、ぬる湯接近。熱湯継続不可」


ノラが書く。その下に、別の銅貨袋が置かれていた。薪屋ダンへの賃金である。前回と同じ者、と管理者所見で通せば、代理受領はすぐ済む。


リディアは袋の紐へ青い札を結んだ。


『薪束到達確認済。賃金名義本人待ち。代理受領不可』


「空欄は、不払いの口実ではありません。けれど、誰かが持ち帰る許可にもなりません」


書記官は、初めて反論しなかった。小机に並んだ椀、包帯、湯桶、銅貨袋を見れば、『意思継続』という一語が、それぞれ別の体と明日を動かすことは隠せなかった。


カイルが鍵箱を持って来た。


「帰着確認も、直近で帰っているなら勤務継続にできる、とあります」


「帰っていない夜番を、帳面だけ帰してはいけません」


カイルは一本ずつ鍵を鳴らした。北門、薬棚、裏戸、薪置き場。いつもなら最後に細く鳴るはずの南倉の鍵音が、箱の底に無かった。


場の空気が冷えた。


「南倉の夜番鍵が戻っていません」


書記官が持つ王宮本帳の写しには、管理者所見による仮印が、もう押されていた。


『直近帰着あり。勤務継続』


リディアはその印の上へ、青い紙を置いた。


「管理者所見は、見えた生活を書く欄です。見えなかった本人を作る欄ではありません」


そして最後に、自分の未整理名札を取り出した。旧台所係リディア。料理帳保管者。晩餐会当日責任候補。どの名も、彼女が黙っていれば継続できるように、王宮側の欄へ薄く残っている。


リディアは一番下へ書いた。


『本人沈黙時、旧名義継続不可。未整理は同意ではない。空白保護』


自分の名にも、他の誰かと同じ青線を引く。


「私が名乗らない日は、伯爵家や王宮が私の返事を作ってよい日ではありません」


ミラの椀は口元へ運ばれなかった。包帯は手の届く椅子で待った。湯はぬるいまま残り、銅貨袋は盗まれず、鍵箱の足りない音は消されなかった。


進まなかったのではない。


ミラの喉は休む場所へ届き、包帯は肌を急がせない場所へ届き、ぬる湯は今日の手前へ届いた。薪の銅貨は知らない袖へ滑り込まず、帰っていない鍵は帰着済みの箱へ沈まなかった。沈黙を守ったまま、届くところまで届いたのだ。


リディアは青線の横に、もう一行だけ足す。


『無発声は未完了ではなく、本人欄を空けて待つ到達条件』


カイルが南倉の札を握る。


「見に行きます。仮印で帰ったことにされた人が、本当に帰れているか」


リディアは王宮の薄い札を畳まず、小机に広げたまま立ち上がった。


「では今、この札が誰を黙らせたのか、見に行きます」

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