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声を出した一度を、明日の同意に転記できません

封蝋札の裏を読んだあと、北門小竈の小机は、しばらく誰も触れなかった。


 発声内容は王宮厨房本帳の閲覧記録へ逐語添付し、以後の本人意思確認に代えることができる。


 王宮厨房の書記官は、その一文を事務の言葉として読み直した。


「悪い意味ではありません。何度も同じ確認を求めると、本人の負担になります。王宮本帳では、直近の発声を添付して補完することがあります」


「補完」


 リディアは、声に出した。


 綺麗な言葉だった。


 けれど、その綺麗さの下で、ミラの椀が小さく鳴った。


「昨日、まだ、と言ったら」


 ミラは薬粥の椀を胸に抱えた。


「明日も、まだ、にされるのですか」


 テッサが包帯棚の前で、乾きかけた芯を押さえた。


「昨日、冷たいと言った束を、今日も全部冷たいことにされたら、二枚だけ乾いた包帯まで出せません」


 ノラは薪賃金札の空欄を指で守るように押さえた。


「昨日、受け取る名が空いていました。今日、薪屋さん本人が来ても、昨日の空欄を写されたら、銅貨袋はまた止まります」


 カイルは鍵箱を机へ置き、青い紐を結び直した。


「昨日、帰りました、と言いました。明日の夜、俺が帰っていないのに、昨日の声で帰着済みにされたら、探すのが遅れます」


 リディアは、封蝋札を裏返したまま、机の上に置いた。


「補完とは、足りない字を埋めることではありません」


 彼女は新しい紙を一枚取り、四つの欄を引く。


 発声した日。


 その声が届いた生活処理。


 翌日以降に転記した場合の生活被害。


 翌日も本人確認が必要な到達条件。


「足りない本人を、誰かの都合で埋めることです。だから、埋める前に、何が動くのかを書いてください」


 書記官は眉を寄せた。


「何が、とは」


「椀です。包帯です。賃金札です。帰着札です。本人の名札です」


 リディアは、四つ目の欄に青い線を足した。


「完了と書くなら、何が届いたから完了なのかを先に書いてください」


 まず、ミラが椀を持って小机の前に来た。


 昨日の札には、こうあった。


 次薬前、喉の音、本人前で確認。まだ、ここで待つ。


 書記官はそこを指した。


「では、本日も待機でよいのでは」


「いいえ」


 ミラは椀の湯気を見た。


「今日は、半匙だけなら飲めます。昨日より喉が軽いです」


 リディアはうなずき、昨日の声の横に、細い青字で書いた。


 昨日の「まだ」は昨日の薬前に限る。


 本日、本人再読。半匙服用。


 薬粥に、小さな匙で薬が混ぜられた。


 ミラは一口だけ飲み、息を止め、それからゆっくり吐いた。


「昨日の私ではなく、今日の私で飲めました」


 その言葉で、北門小竈の空気が少し温かくなった。


 次にテッサが包帯棚の札を持ってきた。


 昨日の発声は、芯がまだ冷たい、だった。


 けれど、棚の上段の二枚だけは、朝の火で乾いていた。


「全部を止めると、門番さんの手首が巻けません」


「では、到達した分だけ完了です」


 リディアは包帯札に書く。


 昨日の冷えは全束停止ではない。


 本日乾燥二枚、手首処置へ到達。


 テッサは二枚を取り出し、門番の手首へ巻いた。濡れた束は棚に戻り、乾いた二枚だけが仕事をした。


 書記官は、それを見て本帳の端を握った。


「本帳では、一つの確認番号でまとめます」


「まとめる前に、人の肌へ届いた分を消さないでください」


 ノラの番になると、薪賃金札の空欄が机の真ん中に置かれた。


 昨日、受取名は空いていた。


 今日、薪屋の若い職人が、帽子を脱いで戸口に立っていた。


「遅くなりました。昨夜の薪、俺が運びました。名はダンです」


 ノラは、昨日空けておいた欄を見た。


「空欄のままにしてくれたから、今日、名前が入ります」


 リディアは、銅貨袋を札の上に置いた。


 昨日の空欄は未受領の証拠。


 本日、ダン本人確認。半日分支払い到達。


 銅貨がダンの手に渡ると、彼はほっとした顔で頭を下げた。


 空欄は、王宮が埋める穴ではなかった。


 本人が来るまで、本人の場所を盗ませないための場所だった。


 最後に、カイルが帰着札を出した。


 昨日の札には、帰りました、とある。


 リディアはその下へ、新しい欄を作った。


 帰着確認は毎夜。


 昨日の足音は、今日の足音ではない。


 昨日の鍵箱は、明日の鍵箱ではない。


「これを省略すると」


 カイルは低く言った。


「帰っていない人まで、帰ったことになります」


「だから、帰着は日付ごとに生活到着です」


 リディアは、自分の未整理名札も小机へ置いた。


 旧台所係リディア。


 料理帳保管者照会中。


 その下に、青字で一文を足す。


 昨日の声を、明日の名乗りに用いない。


 書記官は、今度はすぐに反論しなかった。


 机の上には、椀、包帯、銅貨袋、鍵箱、名札が並んでいた。


 補完という一語では、それぞれがどこへ届き、どこで止まり、誰の声をもう一度待つのか、何も見えない。


「では」


 書記官は慎重に言った。


「本人確認は、未完了として扱うのですか」


「いいえ」


 リディアは首を振った。


「今日届いた分は、今日完了です。薬は今日の喉と椀が合ったところまで。包帯は乾いた二枚が肌へ届いたところまで。賃金は働いた人の手に渡ったところまで。帰着はその日の足音と鍵が戻ったところまで。名乗りは、本人がその日に渡すと決めた範囲まで」


 彼女は封蝋札の裏へ、青保留の但し書きを添える紙を重ねた。


 発声内容は、当日当該処理の到達確認に限る。


 翌日以降の本人意思確認、未発声、変更、撤回、空白の代替として転記してはならない。


 一度の声は、次の声を省く根拠としない。


「これを、王宮厨房本帳へ持ち帰ってください」


 書記官は、長い沈黙のあと、同じ文を本帳の写し欄へ書いた。


「……青保留として、持ち帰ります。ただし、上は嫌がるでしょう」


「嫌がる理由も、生活影響明細に書いてください」


 リディアは、薄く笑わなかった。


「誰の椀を、誰の包帯を、誰の賃金を、誰の帰りを、省けなくなるから困るのか」


 書記官は紙を畳みかけ、ふと手を止めた。


 本帳の間から、別の薄い札が滑り落ちた。


 リディアが拾う前に、カイルが声を出した。


「……無発声時は、直近発声または管理者所見により意思継続とみなす」


 ミラの匙が、椀の中で止まった。


 テッサは乾いた包帯の端を握りしめた。


 ノラは、名前が入ったばかりの賃金札を胸元へ寄せた。


 リディアは薄い札を机の上に置き、青い紐の内側へ入れた。


「声を出さなかった日まで、誰かの声で埋めていいことにはなりません」


 北門小竈の小机に、今度は沈黙を守るための空欄が開いた。

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