勤務実績確認済みは、明日の召上げ札へ転用できません
銀紙の札は、湯気より薄いのに、机の上でいやに光った。
『リディア・ヴェルナー勤務実績。王宮厨房臨時召上げ候補。北門勤務分、保管室確認済みとして転用可』
黒い外套の女官は、箱の底板を戻しながら言った。
「王宮厨房では人手が不足しています。北門施療院での勤務実績が確認できるなら、リディア殿を臨時召上げ候補として扱うことに問題はありません」
召上げ。
その言葉だけ聞けば、伯爵家の台所で一度も呼ばれなかった名を、王宮が呼んでくれるようにも聞こえた。
ノラが小竈の火を細くした。テッサが白布棚の扉を閉める手を止めた。カイルは夜番鍵箱を抱いたまま、廊下の先を見た。ミラは薬湯器の蓋を両手で押さえている。
リディアは、銀紙の札を指で押さえなかった。
押さえれば、まるでそれが自分の明日の道であるかのように見えてしまう。
「勤務実績は、召上げ札ではありません」
王宮書記官が筆を持ち直した。
「実績を確認したうえで任用候補へ転用するだけです。名誉なことです」
「名誉で、今夜の夜番粥は炊けません」
リディアは、本人未整理名札棚の前から、小さな白布を一枚取った。そこへ銀紙の札を置き、横に青い線を引く。
『勤務実績確認済み』
『明日の召上げ札へ転用可』
その下に、四つの空欄を作った。
『北門で誰の食事が動いたか』
『その勤務で何が明日に残るか』
『本人は召上げ影響を読んだか』
『不在時、北門の火と名札棚を誰が閉じずに守るか』
セレスティアが、印をまだ紙から離して見守っている。
「読み上げてください」
「はい」
リディアは、まず小竈を見た。
「一つ目。北門夜番粥。私がここで粥を炊いた実績は、王宮で働ける証明ではなく、カイルさんが夜番鍵を持って帰院するまで腹を空にしないための手順です」
カイルが小さくうなずく。
「夜番の途中で王宮まで人を取りに来られたら、鍵箱は誰が閉めるんだ」
リディアは空欄へ書いた。
『北門夜番粥。召上げ前に代替確認者名・鍵箱引継ぎ・粥鍋担当を本人確認するまで転用不可』
「二つ目。明朝の薪」
テッサが棚から、細薪を二本取り出した。
「これ、もう濡れ始めています。朝までに場所を替えないと、火つきが悪くなります」
「勤務実績とは、薪を何本使ったかではなく、誰が明朝の火を起こせる状態にしたかです。王宮が私を呼ぶなら、その前に明朝の薪到達確認欄を埋める必要があります」
リディアは二つ目の欄へ青く書いた。
『明朝薪二本。召上げ候補化ではなく、北門朝粥着火条件。薪置き場・乾燥布・火を見る人の名未確認』
女官が声を硬くした。
「召上げは命令ではありません。候補に加えるだけです」
「候補に加える紙が、北門ではもう命令のように働いています」
リディアは、ミラの抱える薬湯器へ視線を移した。
「三つ目。ミラさんの夜明け薬」
ミラは薬湯器の蓋を少しだけ開けた。甘い薬草と米の匂いが、湯気になって机まで届く。
「朝、ぬるくなったら、にがい」
「はい。私の勤務実績には、薬湯器をいつ火から外し、いつ蓋を少し開け、誰が飲む温度に戻すかも入っています。これを王宮厨房の臨時候補欄へまとめると、ミラさんの朝薬は『担当者不在時の残務』になってしまいます」
書記官が反論しようとして、口を閉じた。
リディアは三つ目の欄へ書く。
『夜明け薬。残務扱い不可。温度確認者・飲む人・次薬までの腹持ち確認が終わるまで勤務実績転用不可』
最後に、リディアは本人未整理名札棚を見た。
木箱をひっくり返しただけの棚。白布一枚。鍵箱の余り紐一本。そこに立つ、自分の名を閉じない札。
「四つ目。私の帰る机」
王宮書記官の筆先が止まった。
「机、ですか」
「はい。北門小竈横のこの机です。ここに戻って、私が自分の名札を読み、未払い賃金がどこへ届くかを確認し、明日の火の手順を閉じずに残す場所です」
リディアは、銀紙の札の端を白布の上で折った。破らない。隠さない。光る面が見えるまま、青札を重ねる。
『勤務実績は、本人の帰着先を消して王宮候補欄へ移す材料ではない』
「私が王宮で働くかどうかは、私が読める紙で、私が答えることです。でも、私の北門勤務分を保管室確認済みとして先に候補欄へ移せば、ここで止まっている手順が全部『後で誰かがやる残務』になります」
ノラが湯桶の取っ手を握り直した。
「後で、って言うと、だいたい誰も来ない」
テッサが白布を一枚、本人未整理名札棚の横へ敷いた。
「では、召上げ影響明細を作りましょう。王宮が候補に加えるなら、何が北門で止まるかを先に書く紙です」
セレスティアが初めて印を持ち上げた。
「王宮厨房監督官として認めます。勤務実績を召上げ候補へ転用する場合、生活影響明細を添付すること。北門夜番粥、明朝薪、夜明け薬、本人未整理名札棚、帰着先机。この五点の確認がない候補化は、未発令とします」
書記官が驚いて顔を上げた。
「未発令、ですか」
「候補に加える紙が生活手順を動かすなら、それはもう影響を持つ命令です」
リディアは、銀紙の札の下へ新しい札を差し込んだ。
『召上げ影響明細未添付。未発令。本人が読める机へ戻す』
ミラが薬湯器の蓋を閉め、ほっと息をついた。
カイルは夜番鍵箱を抱えたまま、廊下の角に小さな灯りを置いた。テッサは濡れかけた細薪を白布へ移し、ノラは小竈の火を落としすぎないよう灰を寄せた。
小さなことばかりだった。
粥。薪。薬。机。
けれど、そのどれか一つでも消えれば、明日の北門は王宮の名誉より先に冷える。
リディアは、銀紙の札を閉じなかった。
「私は、呼ばれることを拒むのではありません」
女官がわずかに目を細める。
「では、何を拒むのです」
「私が読んでいない勤務実績で、誰かの朝を残務にすることです」
その時、王宮書記官の持っていた写し束から、別の赤い付箋が落ちた。
『北門小竈横仮窓口。王宮厨房臨時管理下へ編入予定。本人未整理名札棚を含む』
リディアは、召上げ影響明細の端を押さえた。
今度は、机そのものを持っていくつもりなのだ。




