未整理名札一式は、私の居場所を受領済みにできません
黒い外套の女官が抱えていた箱は、料理鍋より小さかった。
けれど、リディアの胸には、伯爵家の台所を出た日の雨より重く落ちた。
『旧台所係リディア・ヴェルナー関係未整理名札一式。保管室受領済み』
箱の貼り紙には、父エルンストの字があった。
王宮書記官が、今度こそ整ったという顔で言った。
「本人関係の札は、王宮保管室が受領しています。旧台所係の名札、携行品札、退去済み札、賃金整理札。これらはすでに保管室台帳上の処理対象です。リディア殿の所在も職務も、王宮が確認できます」
確認できます。
リディアは、その言葉をすぐには返さなかった。
箱の中から、古い麻紐で束ねられた札が出てきた。伯爵家の台所戸口に下げていた木札。前掛けの裏へ縫いつけていた小さな布札。母の計量匙に結んでいた白い糸札。さらに、薄い紙の札が三枚。
『退去済み』
『賃金整理済み』
『旧台所係責任、保管室確認済み』
ノラが湯桶を床へ置いた。
「リディアさんの札も、箱に入れられるの?」
「箱に入る札はあります」
リディアは、震えそうになる指を母の計量匙の札に添えた。
「でも、私が今夜どこへ帰るかは、箱には入りません」
王宮書記官が眉を寄せた。
「退去済み札があるなら、伯爵家からの退去は完了です」
「退去が完了しても、到着は完了していません」
リディアは、前話で引いた四本の線の下へ、新しい欄を足した。
『本人の名』
『その名で動く手順』
『本人は読んだか』
『止まる札はどこに残るか』
『帰着先』
「これは、私にも必要です」
セレスティアが静かにうなずいた。王宮厨房監督官の印は、まだ紙の外に置かれている。
「リディア殿の名で動く手順を、読み上げてください」
リディアは、箱の札を一枚ずつ机へ置いた。
「旧台所係名札。この名で、伯爵家の晩餐会主火補助確認が動かされました」
一枚目の横に、青札を置く。
『本人未読。主火確認へ転用不可』
「前掛け札。この札は、伯爵家では使用済み備品とされました。でも、北門では、ミラさんの夜薬をこぼさないために鍋の持ち手へ巻く布です」
ミラが小さく手を挙げた。
「その布、あついの持てるやつ」
リディアは、前掛け札の横に書いた。
『保管品ではなく、夜薬鍋持ち手布。使用中確認』
「母の計量匙の札。これは記念品ではありません。朝粥を薄くしすぎないための匙です。誰が食べるかを数える道具です」
テッサが棚から乾いた白布を一枚持ってきて、机の端に敷いた。リディアは、その上に計量匙の札を置く。
『北門朝粥用。保管室収納不可。小竈横使用棚へ』
王宮書記官が紙をめくった。
「しかし、賃金整理札は保管室が受領済みです。後日、伯爵家と王宮で――」
「後日では、今夜の薪は買えません」
リディアの声は、思ったよりも低かった。
廊下が静かになった。
「未払い賃金があるなら、それは私の名誉ではなく、北門の夜番粥と明朝の薪代に届くものです。整理済みではなく、生活到着条件未完了です」
カイルが鍵箱を胸に抱えたまま言った。
「今夜の鍵番、粥があると助かる」
「では、賃金整理札はこうです」
リディアは、三枚目の紙札に青い線を引いた。
『賃金整理済み、保留。本人未読。北門夜番粥代・明朝薪代への到着未確認』
黒い外套の女官が、初めて口を開いた。
「保管室の受領印を、否定するおつもりですか」
「否定しません。保管室が受け取った札は、保管室が持っていてかまいません」
リディアは、箱を奪わなかった。
奪えば、今度は自分が誰かの札を抱え込む側になる。
「ただし、受領済みという言葉で、私の帰着先まで閉じないでください」
ノラが空いた木箱をひっくり返し、小竈横の壁際へ置いた。
「これ、棚にできる?」
テッサが白布を折って、その上へ札を並べた。
「一晩だけなら、湿気も避けられます」
カイルが鍵箱から細い紐を出した。
「鍵箱の余り紐です。札が落ちないように結べます」
ミラは、薬湯器の温かい蓋を前掛け札の近くへ置いた。
「リディアさんの布、ここ」
リディアは息を吸った。
北門施療院の小竈横。雨の匂いがまだ残る廊下。木箱を返しただけの棚。白布一枚。紐一本。
それでも、そこには、箱の中より確かに生活があった。
リディアは、棚の上に新しい札を立てた。
『本人未整理名札棚。北門小竈横。リディア本人が読むまで閉じない』
セレスティアが、その札の横に印を押した。
「王宮厨房監督官として、保管室受領済み札の生活到着条件未完了を認めます。リディア・ヴェルナー関係名札一式は、本人の帰着先、賃金到着、料理人責任、使用道具が確認されるまで、保管室台帳へ整理完了として編入しない」
王宮書記官が息をのんだ。
「それは、リディア殿の居場所を王宮ではなく北門に置くということですか」
「居場所を置くのではありません」
リディアは、母の計量匙の札に触れた。
「今夜、帰って読める机を一つ、閉じずに残すだけです」
ノラが湯桶を持ち直した。
テッサが白布棚へ戻り、カイルが夜番鍵を確かめ、ミラが薬湯器を抱えた。
リディアの名札は、王宮保管室の箱から完全に出たわけではない。
けれど、少なくとも一枚は、北門小竈横で、まだ閉じないまま立っていた。
その時、黒い外套の女官が箱の底板を外した。
もう一枚、薄い銀紙の札が滑り出る。
『リディア・ヴェルナー勤務実績。王宮厨房臨時召上げ候補。北門勤務分、保管室確認済みとして転用可』
リディアは、本人未整理名札棚の前に立った。
「私の今夜の机を、明日の召上げ札へ転用するつもりですか」




