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欠落名補筆権限は、王宮保管室へ売れません

封蝋のついた綴じ糸は、細いのに重かった。


『欠落名補筆権限、前管理者エルンスト・ヴェルナーより王宮保管室へ移譲済み』


王宮書記官は、その一文を読んだ途端、ほっとした顔をした。


「では、管理者リディア殿が補えない場合でも問題ありません。王宮保管室が正式な保管権限で欠落名を補筆します。これなら、北門施療院の手順も止まらず、王宮台帳も整います」


整います。


その言葉は、今朝の粥よりも冷たく響いた。


リディアは青札の束を押さえたまま、母の料理帳を閉じなかった。閉じれば、父の字も、王宮の封蝋も、きれいな一冊の中へ収まってしまう。


「権限を移せるものと、移せないものがあります」


「料理帳管理権限は、前管理者から王宮へ――」


「料理帳の棚は移せます。写しの保管場所も決められます」


リディアは、ノラの湯桶札を指した。


「でも、ノラさんが熱い湯桶をどの廊下で持ち直したかは、保管室の棚へ移せません」


ノラが湯桶の持ち手を少し上げた。指の赤い跡が、まだ残っている。


リディアは次に、テッサの白布棚の札を取った。糸くずは昨日より細くなっていたが、紙の端にまだ残っていた。


「テッサさんが白布を数え直した時、三枚目だけ乾きが遅いと気づいたことも、売れません」


テッサは棚の奥から一枚だけ湿り気の残る布を出し、札の横へ置いた。


「カイルさんが鍵箱を胸で受け止めた重さも、ミラさんが薬湯器を抱えて『もう飲める』と言った声も、保管室の権限には入りません」


カイルは鍵箱を抱え直し、ミラは薬湯器の蓋に小さく息を吹いた。


王宮書記官は、封蝋を机の上で回した。


「しかし、欠落名補筆権限は管理上の権利です。エルンスト殿が前管理者として譲渡したなら、王宮保管室が欠落欄を補うことは合法です」


「合法かどうかの前に、生活影響明細がありません」


リディアは料理帳の空きページを開き、四本の線を引いた。


『誰の名を補うのか』

『その名で何が動くのか』

『本人は読んだのか』

『止まる札はどこに残るのか』


「欠落名を一つ補えば、朝湯桶が確認済みになります。白布棚が閉じます。鍵箱が返却済みになります。薬湯器が飲用確認済みになります。名は、帳面の飾りではありません。火と湯と布と鍵と薬を動かす手です」


セレスティアが、王宮厨房監督官の印を紙の外側に置いた。まだ押さない。ただ、置いただけだ。


「王宮保管室への権限移譲書には、その四欄がありませんね」


書記官は返事をしなかった。


代わりに、ミラが薬湯器を抱えて前へ出た。


「ミラの名、保管室にあるの?」


「患者名簿の写しはあります」


「ミラが熱いって言う口も、写しなの?」


小さな問いに、廊下の空気が止まった。


リディアは青い紙を一枚切り、封蝋のついた糸の上に置いた。


『欠落名補筆権限移譲書。生活影響明細未添付。本人未確認札優先。発効保留』


「この権限は、売買や移譲としては読めません。まず、誰の名を、誰の生活手順に使うのかを一つずつ書いてください。ノラさんの湯桶ならノラさんが読む。テッサさんの白布ならテッサさんが読む。カイルさんの鍵箱ならカイルさんが読む。ミラさんの薬湯器ならミラさんが声で答える」


「王宮保管室が読むのではなく?」


「保管室は、読む人を保管できません」


ノラが、湯桶札の横に自分の名を書いた。確認済みではない。『本人未確認札を読んだ』という小さな横線だ。


テッサも白布棚の札へ、乾きの遅い三枚目を残したまま名を書いた。


カイルは鍵箱の返却欄ではなく、帰院欄の横に署名した。


ミラは字を書けなかった。だから、リディアは札に小さな丸を描き、ミラがそこへ薬湯器の温かい蓋を一度だけ触れさせた。


「これが、ミラさんが読んだ印です」


「うん。ミラが触った」


リディアは、その四つの印を権限移譲書へ貼らなかった。貼ればまた、王宮保管室の紙が本人確認を飲み込んでしまう。


別の青い封筒を作り、表に書いた。


『本人未確認札優先綴じ。王宮保管室権限より先に開くこと』


セレスティアがそこで印を押した。


「王宮厨房監督官として、発効保留を認めます。欠落名補筆権限移譲書は、生活影響明細が添付されるまで保管室台帳へ編入しない」


王宮書記官の唇が震えた。


「保管室長は、これを越権と見るでしょう」


「なら、保管室長にも読んでいただきます」


リディアは、父の名がある封蝋から目をそらさなかった。


「父が売ったのは、欠けた名を埋める権利ではありません。欠けた名の持ち主が、誰にも呼ばれないまま動かされる危険です」


廊下の奥で、別の足音がした。


黒い外套の女官が、王宮保管室の銀鍵を下げて立っていた。腕には、古い箱を抱えている。


箱の貼り紙には、見慣れた父の字があった。


『旧台所係リディア・ヴェルナー関係未整理名札一式。保管室受領済み』


リディアは、青い封筒を胸の前で持ち直した。


「私自身の名札まで、受領済みにされている」

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