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本人名の欠落は、料理帳管理者が補筆できません

黒い紙には、きれいな余白があった。


『原札欠落時、料理帳管理者リディア・ヴェルナーによる補筆を認める』


王宮書記官は、落ちた紙を拾い上げようとして、指を止めた。リディアが先に紙の角へ青い小札を置いたからだ。


「これは、誰の名を補う紙ですか」


問いは静かだった。けれど、北門施療院の朝の音が一度止まった。


ノラの湯桶が廊下で小さく鳴る。テッサの白布棚から乾いた布の匂いがする。カイルの鍵箱は朝番棚の前に戻され、ミラの薬湯器はまだ両手で抱ける熱さだった。


書記官は困ったように笑った。


「原札が欠けた場合の救済です。管理者であるリディア殿が記憶に基づき補筆すれば、手順は止まりません」


救済。


その言葉は、温かそうに聞こえた。


だからこそ、リディアはすぐには否定しなかった。母の料理帳を開き、火入れ欄の隣に置いた小さな空欄を指でなぞる。


「手順が止まらないことと、人の名が動かされないことは、同じではありません」


「しかし、あなたは皆の名を知っているでしょう」


「知っています」


リディアはうなずいた。


「だから、書けません」


ノラが湯桶を抱え直した。テッサが白布を一枚畳む手を止める。カイルは眉を寄せ、ミラは薬湯器の蓋に頬を近づけた。


リディアは黒い紙の余白を、四つに分けるように母の計量匙で軽く押さえた。


「ノラさんの名を私が書けば、それはノラさんが朝湯桶を見たという確認ではなく、私がノラさんを思い出したという記録になります」


ノラは、自分の札の波打った端を見た。


「テッサさんの名を私が補えば、白布棚の前で指に糸くずをつけて確認した手は、帳面の中で私の手になります」


テッサが、指先の繊維をそっと札の横へ置いた。


「カイルさんの名を私が書けば、夜番鍵箱を胸に押し当てて戻した重さを、私は代わりに持ったことになります」


カイルは鍵箱に手を置き、短く息を吐いた。


「ミラさんの名を私が書けば、薬湯器の熱さを自分で確かめて、飲めると分かったミラさんの返事まで、私の字に閉じこめてしまいます」


ミラは、蓋の縁を小さく叩いた。


「ミラの返事、リディアの字じゃない」


「そうです」


リディアは、微笑んだ。


「ミラさんの返事は、ミラさんの声です」


王宮書記官の顔から、救済という言葉の柔らかさが消えた。


「では、欠落した札があれば、どうするのです。管理者が補えないなら、朝湯も、白布も、鍵箱も、薬湯器も確認済みにできません」


「確認済みにしないで、守ります」


セレスティアがゆっくり顔を上げた。王宮厨房監督官の指先には、まだ黒い帳面のインクが残っている。


リディアは新しい札を一枚切った。料理帳の端に挟んでいた青い紙だ。そこへ、あえて名を書かなかった。


『本人未確認。管理者補筆不可。生活手順保留』


「名が欠けた時に必要なのは、早く埋める字ではありません。誰がまだ呼ばれていないかを、呼ばれていないまま見える場所に置くことです」


「空欄のままでは、王宮の台帳が整いません」


「整わない台帳が、今日の安全です」


リディアは、ノラの湯桶の札入れの隣に青い保留札を差した。


「ノラさん。もし湯桶の札が欠けたら、この保留札を置いてください。誰かがノラさんの代わりに書く前に、湯の熱さと通った廊下を、ノラさん自身が確認できるまで止めます」


「止めていいんですね」


ノラの声は小さかった。


「はい。止めた人の名を、止めたまま残します」


テッサの白布棚にも、同じ青札を置く。


「テッサさん。白布の数が合わない時は、足りない枚数を私が帳面で埋めません。棚の前で見た人の名が戻るまで、白布は確認済みにしません」


「……それなら、糸くずも払わずに置けます」


「証拠です」


カイルの鍵箱には、折れた札の角が見えるように青札を添えた。


「カイルさん。鍵箱が戻っても、戻した人の名がないなら、返却済みではありません」


「鍵だけじゃなく、俺が帰ったことまでですか」


「鍵箱は、人が帰って初めて朝番棚に戻ります」


カイルは、少しだけ笑ってうなずいた。


最後に、ミラの薬湯器のそばへ青札を置いた。


「ミラさん。薬湯器が温かくても、飲む人の声がないなら、確認済みにしません」


「ミラが、熱いって言うまで?」


「熱い、ぬるい、もう飲める。そのどれも、ミラさんの名で残します」


ミラは薬湯器を抱えたまま、青札にふっと息を吹きかけた。


湯気で紙の端が少し反った。


リディアはそれを伸ばさなかった。


王宮書記官は、黒い紙を握りしめた。


「それでは管理者の責任が薄くなります」


「いいえ」


セレスティアが先に答えた。


「管理者の責任は、他人の確認を自分の字で奪わないことです」


リディアは、母の料理帳の末尾に一行を書いた。


『本人名欠落時は、補筆せず、本人未確認札を置く。火守り手順は、名が戻るまで確認済みにしない』


それは、何かを早く進めるための規則ではなかった。


止まる権利を、名のそばに置く規則だった。


ノラが湯桶を動かす。テッサが白布棚を開く。カイルが鍵箱を朝番棚へ入れる。ミラが薬湯器の蓋を開け、「もう飲める」と自分の声で言った。


リディアは、その声を料理帳へ書かなかった。


ミラ自身の札を、薬湯器の横に置いただけだった。


その時、黒い帳面の裏表紙から、細い綴じ糸が一本ほどけた。糸の端には、小さな封蝋がついている。


封蝋には、伯爵家の紋ではなく、王宮厨房でもない印が押されていた。


『欠落名補筆権限、前管理者エルンスト・ヴェルナーより王宮保管室へ移譲済み』


リディアは青札の束を押さえた。


「……私の名だけではありません。父は、欠けた名を埋める権利そのものを、もう売っている」

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