母の料理帳の火入れ欄写しは、マリベルの主火名義ではありません
セレスティア様が読み上げた紙には、昼の小竈よりも熱い言葉が並んでいた。
「晩餐会主火担当名義、マリベル・ヴェルナーへ変更済み。添付、母の料理帳、火入れ欄写し」
北門の小竈は、まだ昼薬の匂いを残している。ミラの前半椀、包帯三枚の煮沸、夜勤明けのカイルの一椀。そこまで届いたから、私はようやく返送保留札の端を折ったばかりだった。
その紙が、今度は母の料理帳を、妹の名の下へ運ぼうとしている。
「違います」
声が震えなかったのは、怒りより先に火の順番を数えていたからだ。
「母の料理帳の火入れ欄写しは、マリベルの主火名義ではありません」
王宮厨房の書記が眉を寄せた。
「しかし、伯爵家当主の申請では、マリベル様が晩餐会の主火を担当すると」
「主火は、椅子の名前ではありません」
私は小竈の横に置いた浅鍋を指した。
「火を強めると、ミラの薬粥は舌を焼きます。弱めすぎると、包帯を煮る湯が足りません。灰を早く落とすと、夜番が戻る前に一椀が冷めます。主火担当とは、その三つを読んで、どこで薪を足し、どこで火を眠らせるかを決める人の欄です」
ノラが湯冷まし壺を抱えたまま、浅く息をのんだ。テッサは包帯籠の数を指で押さえ、ペルは火ばさみを灰の横へ寝かせる。三人の手が動かなければ、母の料理帳の一行はただの綺麗な写しで終わる。
「母は、火入れ欄を家名の飾りにしませんでした。ノラが壺を冷ます時間、テッサが包帯を上げる頃合い、ペルが火ばさみを洗う順番。そういう手の名前を、火の下に書いていたんです」
だから、主火担当は一人の名誉欄ではない。火のそばに立つ手と、火を待つ身体をつなぐ欄だ。
セレスティア様が紙を裏返す。
「本人読了欄は空白。火を見る手順の確認者も空白。食べる人への生活影響明細も、添付されていないわね」
「はい。妹の名を消してくださいとは言いません」
私はそう言ってから、廊下の奥に立っていたマリベルを見た。
彼女は王宮の花飾りをつけていた。けれど頬は、火の前に立つ人の赤さではない。紙の前で逃げ場を失った子どもの白さだった。
「マリベル」
名前を呼ぶと、彼女の肩が跳ねた。
「この写しを、声に出して読める?」
私は母の料理帳から写された火入れ欄を差し出した。父が自慢げに見せていた、母の細い字。その下に、私が毎朝書き足してきた小さな注がある。
雨の日は先に鍋肌を温める。
病人の粥は、泡が立つ前に一度火を細くする。
戻る夜番がいる時は、最後の熾きを灰の下へ残す。
マリベルは唇を動かした。
「雨の日は……先に、なべ、はだを……」
そこで止まる。
「どこで火を細くするのか、知らないの」
小さな声だった。
「お父様は、名前だけでいいと。姉様の字は、私の花文字で飾れば晩餐会にふさわしくなるって」
書記の羽根ペンが止まった。
私はうなずいた。許したのではない。火の前に立っていない人の名を、火の責任欄へ置かないために、まず事実を置いた。
「セレスティア様。申請欄を、主火名義確定から本人読了未了へ戻してください。火を見る手順未確認。生活影響明細未添付。名義使用、本人同意欄なし」
「青印で保留にします」
セレスティア様は、王宮の朱印ではなく、北門仮札と同じ青い保留印を押した。
マリベルの名は消えなかった。
代わりに、読んでいない欄へ読了済みの印が押されないよう、青い線で囲まれた。
「ここに、自分で書ける?」
私は未読申告欄を示した。
マリベルは震える指でペンを取った。
マリベル・ヴェルナー。
火入れ欄、本人読了未了。
主火判断、未確認。
名義使用、本人同意なし。
「これは、罰の署名ではありません」
私は彼女の手元を見た。
「あなたの名を、あなたが読める場所へ戻す署名です」
マリベルは、初めて私を見た。
「姉様は、私をかばうの」
「いいえ。火をかばっています。食べる人をかばっています。だから、読んでいないあなたの名も、火の前に勝手に置かせません」
北門の窓から、昼の湯気が細く上がった。ミラの椀は半分空き、包帯籠の上では白い布がまだ温かい。マリベルの名を青線で囲むことは、その湯気を止めないための手順でもあった。
その時、書記が申請書の下からもう一枚を引き抜いた。
「……こちらにも、当主代筆欄があります」
紙の端には、父エルンストの印が乾いていた。
晩餐会主火補助確認者、リディア・ヴェルナー。
母の料理帳原本確認済み。
私は、その欄の下にある空白を見た。
私の署名欄ではなかった。
誰の椀へ火が届いたかを書く生活影響欄が、また空のまま閉じられようとしていた。




