北門の昼火は、未配膳の椀が空になるまで解除しません
北門小竈の灰の下で、朝の赤はまだ細く生きていた。
ノラが湯桶を寄せると、灰の端から白い湯気が上がる。朝粥の列はもう半分ほど引いていたが、小机の横には、まだ三つの椀が伏せずに残っていた。
一つは夜番明けの洗い場係へ。
一つは薬前に何かを入れなければならない老人へ。
もう一つは、伯爵家の使いを見て、列の後ろで足を止めた少女へ。
「補填費停止札の解除同意をいただきます」
伯爵家の使いは、乾いた紙をリディアの前に差し出した。
『伯爵家補填費停止解除。北門朝粥火、使用終了につき清算可』
使用終了。
リディアはその言葉を読んでから、紙ではなく、まだ湯気の立つ三つの椀を見た。
「終わっていません」
「朝の配膳は概ね終了したと、王宮厨房にも報告済みです」
「概ね、では薬前の一口は飲めません」
リディアがそう言うより早く、マリベルが椀の前へ出た。
伯爵家の使いは少し笑った。
「妹君。あなたからも解除同意を。姉上の手続きが長引くほど、伯爵家の清算も王宮への返答も遅れます」
マリベルは返事をしなかった。代わりに、小竈の横にあった丸い小石を三つ拾い、椀の前へ一つずつ置いた。
「これは、まだ空になっていない椀の数です」
声は小さかった。けれど、逃げていなかった。
「この三椀が空になるまで、私は解除同意を書きません」
伯爵家の使いの眉が動いた。
「あなたは伯爵家の娘です」
「だから、見ないで書いた札が、どこへ届くかを知っています」
マリベルは一番端の椀を持ち上げた。湯気で指が赤くなる。ノラが慌てて布巾を差し出すと、マリベルはそれを受け取り、列の後ろで足を止めていた少女の前へ運んだ。
「食べて。薬の前に、少しでいいから」
少女は伯爵家の紋章が付いた使いを見る。リディアはその視線を遮るように、小机の前へ立った。
「北門昼火は、まだ生活到達中です。解除同意欄には、未配膳三椀と昼薪一束、薬草塩一包の到達確認を添付します」
「昼薪と薬草塩?」
別の声が門の外から入った。
王宮補給係だった。小さな薪車の横に立ち、封紐のかかった薬草塩の袋を抱えている。
「北門火守り棚が未清算なら、昼の薪束と薬草塩は保留です。こちらも搬入札を閉じられませんので」
伯爵家の使いは、そこで初めて三つの椀ではなく、薪車を見た。
リディアは補給係の搬入札を受け取らず、机の上に伏せて置かせた。
「閉じないでください。保留は、止めるためではなく、届くまで待つためです」
ノラが灰を少しだけ寄せた。細い火が、もう一度赤くなる。
少女は椀に口をつけた。ひと口。喉が動く。湯気が、少女の頬へ上がった。
マリベルは小石を一つ、椀の前から取った。
「一椀、空になりました」
その声に、伯爵家の使いは何かを言いかけて、言えなかった。
リディアは解除同意書の余白に、短く書き込んだ。
『北門昼火。未配膳三椀のうち一椀到達。昼薪一束、薬草塩一包、搬入保留ではなく到達待ち。解除同意不可』
そして、残った二つの椀を見た。
朝粥の火は、もう朝だけの火ではない。
誰が昼の薬粥を煮るのか。誰の手で薬草塩を開けるのか。
次に読むべき札は、伯爵家の清算書ではなかった。
北門の昼火に、名前を書く人の札だった。




