第31話 1VS40
夜の闇は墨を流したように濃い。それでも、町の中心から広がってきた炎が、通り一帯を真っ赤に染め上げていた。
道いっぱいにひしめくゴブリン兵たちは、その火に照らされて、まるで全身が血に濡れているかのように見える。
そして首領の命令を聞いた瞬間、彼らの中にある狂暴で嗜血的な本性が、完全に解き放たれた。
手にした様々な武器を振り回しながら、今まで自分たちが上げた中でもっとも勇ましい吠え声を張り上げ、私へ向かって一斉に襲いかかってくる。
単純な頭の中では、目の前で片膝をつき、胸元を血で染めた若い人間など、屠られるのを待つだけの羊と何も変わらないのだろう。
さっきその人間が精鋭戦士を斬り殺したことも、強力な赤い光線を放ったことも、そんなものはもう彼らの頭からすっかり抜け落ちていた。
ただいつもの狩りのように、手にした武器を相手へ叩きつけ、運が良ければ褒美として軟骨の多い手のひらや、尻の脂身を分けてもらえればそれで十分。
そんなことしか考えていない。
だが、先頭を走っていた三体のゴブリン兵は突然見た。
目の前の人間が、剣を杖にして立ち上がるのを。
そして、頭の中に「この人間、少し背が高いな」という間の抜けた考えが浮かんだ次の瞬間、二筋の剣光が鋭く走り――そのまま意識は暗闇へ沈んだ。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
私は荒い息を吐きながら二歩後ろへ下がる。手にした長剣の刃には、黄緑色の血がべっとりとこびりついていた。
足元には、たった今斬り伏せた三体のゴブリン兵の死体が折り重なっている。ねじ曲がった身体が無惨に積み重なり、千切れた手足や肉片が辺りに散っていた。
後続の兵たちは、この一瞬の殺戮にぎょっとしたらしい。剣や槍を構えたまま足を止め、たちまち進軍の勢いが鈍った。
私はその隙に、ほんのわずかに首を横へ向け、背後――山へ続く方角を盗み見る。
月明かりの下、あの黒々とした人の列は、まだのろのろと動いていた。隊列は長く引き延ばされ、老人も女も子供も荷を抱え、杖をつき、幼い子を抱きかかえながら必死に進んでいる。
あまりにも遅い。
このままでは、全員が森の中へ入りきるまで、少なくともあと三十分はかかる。
三十分……。
私は奥歯を噛み締め、胸の奥が強くこわばるのを感じた。
たとえ今この瞬間から走り出したとしても、ゴブリン軍の行軍速度なら、そう時間を置かずに追いつかれる。
そうなれば、あの人たちは一人残らず死ぬ。
そこまで考えた私は、手首を軽く返して刃についた血を払うと、少しずつ背後の細い路地へ向かって後退し始めた。
――まだ奴らの意識が私に向いているうちに、“カイト”へ移るべきだ。
結局のところ、難民たちがオウム嘴の山を越えるまで時間を稼げれば、それで目的は果たせる。
「人間」
ちょうど私が身を翻し、路地へ飛び込もうとしたその時だった。
前方から、しゃがれた、低い、それでいてどこか楽しげな声が響いた。
私は反射的に顔を上げ、軍の中央にいるゴブリン首領を見た。
そいつは鼻から白い息を二つ吐き出し、金の鼻輪を火の中で揺らしながら、黄褐色の縦長の瞳でじっと私を見つめていた。
そしてその口元が、ゆっくりと弧を描く。
笑っている。
獲物の考えを見透かした時の、あの嫌な笑いだ。
「逃げたいのだろう?」
ぎこちないが、言葉そのものは妙にはっきりしていた。
「路地へ逃げ込み、我らにお前を追わせ、その間に仲間を逃がすつもりだ」
私は胸の奥が冷たく沈むのを感じた。
見抜かれた。
「悪くない考えだ」
ゴブリン首領はゆっくりとそう言い、痩せた指を一本伸ばして、自分の傍らにいる精鋭戦士たちを示した。
「だが、お前が逃げたら……こいつらをあの人間どもの方へ向かわせる」
その言葉と同時に、首領の脇にいた五体のゴブリン精鋭戦士が、一斉に首を巡らせた。
その視線は、私の肩越しに、遠くでまだ必死に動いている難民の列へ注がれる。
「五人の勇士が、丸腰の人間どもを相手にする……」
首領は小さく首を傾げた。その声には、露骨な侮りが混じっていた。
「さて、どれほど持つと思う?」
私は剣の柄を握る手に、さらに力を込める。指の節が白くなるほどだった。
言っていることは、その通りだった。
精鋭戦士がたった一体、人の群れへ飛び込むだけで、待っているのは一方的な虐殺だ。難民の大半は武器すら持っていない。逃げることもままならない連中が、何であれを止められる。
「つまり……」
私は深く息を吸い込み、真正面からあの黄褐色の目を見返した。
「私はここに立ったまま、お前たちとやり合うしかない、ということか?」
首領は答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ首を傾ける。
するとその横にいた一体の精鋭戦士が短く吠え、さっきまで足を止めていたゴブリン兵たちが扇状に広がりながら、私へじわじわと詰め寄ってきた。
およそ四十体近いゴブリン兵。
私は痺れの残る左肩を軽く回しつつ、素早くステータスを確認する。
【生命値:76/100】
たった一撃で、四分の一近く削られていた。
あれが丸頭の大槌だったからまだよかった。もし刃のついた武器だったなら、腕そのものが使い物にならなくなっていてもおかしくない。
やはり、ゴブリン精鋭戦士の腕力は伊達ではない。
だが一方で、首領はまだ私の手札を完全には測り切れていないのだろう。今のところ主力を総投入してくる気配はない。
それは逆に言えば、こちらにとって唯一の隙でもあった。
「なら――やるしかない!」
これ以上、言葉はいらない。
状況が小細工を許さないなら、最初から正面から叩き潰すだけだ。
私は低く吠え、地面を強く蹴った。
そのまま、先頭にいた一体へ真っ直ぐ飛びかかる。
そのゴブリン兵は、まさか私が自分から跳び込んでくるとは思っていなかったのだろう。目を見開き、足が一瞬止まる。
慌てて鎌を持ち上げるが、そんなものは私の目には隙だらけにしか見えない。
冷たい剣光が、上から下へ真っ直ぐに落ちた。
その一撃で、ゴブリン兵の身体は真っ二つに割れた。
私は相手の様子など気にも留めなかった。
両足が地面についた次の瞬間には、もう剣の向きを整え、そのまま右側へ弧を描くように斬り払っていた。
ぶしゅっ。
ぶしゅっ。
刃が肉に食い込む音が、二度響く。
「Yazal!!(死ねぇ!)」
その時、左側から妙に勢いのある怒鳴り声が飛んできた。
一体のゴブリン兵が、さっきの私の動きを真似たつもりなのか、短刀を掲げたまま跳び上がり、そのまま私へ飛びかかってくる。
だが、当然そんなものが通じるはずもなかった。
私は相手の飛び込んでくる軌道を見た瞬間、ただ左脚を持ち上げて、そのまま蹴り出した。
ドンッ!
そのゴブリン兵は、今しがた自分が飛んできた時の二倍近い勢いで、同じ方向へ吹き飛んでいった。
【基礎格闘Lv3(8+2/30)】
ほんの一瞬のうちに、さらに三体のゴブリン兵が私の剣で命を落とした。
だが、こいつらの無残な死に様は、後続を怯ませるどころか、何の足止めにもならなかった。
残ったゴブリン兵たちは、肉を見つけた狂犬のように、なおも私へ殺到してくる。
私はそれを恐れもしなかった。
むしろ、自分から真正面へ踏み込んでいった。
視界の中では、倒れたゴブリン兵の死体から、いくつもの金色の光点が飛び出し、次々と私の身体へ吸い込まれていく。
だが、極限まで張り詰めた今の私には、ステータス画面の変化など確認している余裕はなかった。
そもそも、私は今、転職の関係でレベルを上げられない。見たところで、目の前の戦いに何の助けにもならない。
それに、すでに四方八方、全部が敵だった。
相手はただのゴブリン兵。
それでも、こちらがほんの少しでも気を抜けば、あっさり傷を負う。下手をすれば、そのまま死ぬ。
「Yazal!!」
「Yazal Ka!!!」
数え切れないほどの武器が、ひっきりなしに私の視界を横切っていく。
考える暇など、まるで与えてくれない。
ガン、ガン、ガン――
これは刃と刃がぶつかる音。
ぶしゅっ――ぶしゅっ!
これは刃が肉を裂く音。
やがて私は、力の入れ方だの、技の繋ぎ方だの、そういうものを全部忘れていた。
ただ本能のままに剣を振るい、
ただ本能のままに切っ先を相手の身体へ押し込んでいく。
「殺せぇぇぇ!!」
ぶしゅっ!
「死ね!!」
ぶしゅっ、ぶしゅっ!
どれほどそうしていたのか、自分でも分からない。
数十秒だったのかもしれないし、数分だったのかもしれない。
とにかく、私が一度大きく空を斬ったその時になって、ようやく顔を上げた。
すると、残ったゴブリン兵たちが、いつの間にか数メートル先まで退いていた。
それぞれの武器を両手で握りしめているが、その目に浮かんでいるのは明らかな怯えだった。
私は大きく肩で息をしていた。
全身は黄ばんだ血でべっとりと濡れ、周囲には斬り刻まれたゴブリン兵の死骸が折り重なっている。
目は血走り、まるで地獄から這い上がってきた鬼そのもののような有様だった。
「来いよ」
私が低く唸りながら一歩踏み出した瞬間、残っていた十数体のゴブリン兵は、一斉に後ずさった。
その中に、もう私へ近づこうとする個体は一体もいなかった。
パン、パン、パン――
乾いた拍手の音が響く。
「大したものだ」
あの耳障りな、しゃがれた声が再び聞こえてきた。
「たった一人で……兵を三十一も殺したか」
ゴブリン首領の黄褐色の目に、わずかに異質な光が宿る。
「お前のような強者、人間の中でもそう多くはないだろう?」
私は答えなかった。
ただ、剣を握ったまま、真っ直ぐに奴を睨み返す。
握った手は微かに震えていた。
それは恐怖のせいではない。
体力が、もう限界に近かったからだ。
「それなら、こうしよう」
首領は少し首を傾げると、一本の指を伸ばし、私の左手を指した。
正確には、その指に嵌っている指輪を。
「あの指輪を私に渡せ。そうすれば、お前だけは見逃してやってもいい」
指輪?
私は一瞬だけ目を見開き、無意識に左手の中指へ視線を落とした。
そこには、透明な宝石の埋め込まれた《洞察の環》がある。
その瞬間、私はようやく理解した。
こいつが最初から精鋭戦士を総動員せず、まずゴブリン兵だけを差し向けてきた理由を。
こいつは、私の指にあるこの魔法装備を警戒していたのだ。
「……随分と目が利くじゃないか」
私は口元を歪めて笑った。
「どうだ? 指輪一つで命が買える。悪い取引じゃないだろう?」
「本気で、私がそれを信じると思ってるのか?」
「我々ゴブリン族は野蛮だが、嘘はつかん」
首領は肩をすくめ、無実を装うように両手を広げてみせる。
「ははっ、そうかよ。だったらまず、あいつらを逃がしてみろ。あいつらが無事に離れたら、その時に指輪を渡してやる」
ゲームの中でゴブリンと散々付き合ってこなければ、あるいは今の言葉を本気にしていたかもしれない。
アララン大陸には、こんな諺がある。
絶対に信じてはいけないものは三つ。
闇のエルフ、緑皮の雑種、それからホストの「愛してる」だ。
ゴブリンの首領は何も答えなかった。ただ、あの黄褐色の縦長の瞳で、じっと私の顔を舐めるように見回している。
そして次の瞬間、そいつはふっと笑った。
「……なるほど」
「お前のその魔法道具、もう使えないのだな?」




