第27話 山頂
「隊長! あちらをご覧ください!」
チカ町巡回隊の皮鎧をまとった若い隊員が、手にしていた真鍮製の単眼鏡を下ろし、すぐさま傍らの白髪の老人へ差し出した。
ケンは険しい表情のままそれを受け取る。すると、跨っていたバンケル馬が小さく鼻を鳴らした。
ロニクス北西の草原地帯を原産とするこの小型馬は、体こそ小さいが持久力に優れ、気性も穏やかだ。十数年にわたり彼と苦楽を共にしてきた、まさに相棒と言える存在だった。今は山頂の空気に混じる煙の匂いが落ち着かないのか、前脚でしきりに地面を掻いている。
六十をとうに過ぎたケン自身も、内心では焦りを抑えきれずにいた。
昨日、ゴブリン軍が辺境を急襲したという報せを確認した直後から、彼は間を置かず町の巡回隊を招集した。
十人の隊員を二人一組に分け、周辺の町へと戦況を伝えに向かわせる。その一方で、自分は残る者たちを率いてゼス村へ急行した。状況の裏取りと、道中に生き残っている村人がいないかの捜索、その両方が目的だった。
彼自身よく分かっている。この二十名にも満たない戦力で、ゴブリン斥候の小集団ならまだしも、精鋭戦士を伴う本隊に遭遇すれば、正面から戦って勝ち目などない。
だからこそ、全員に馬を使わせた。もし主力とぶつかっても、機動力を頼りに離脱できるようにするためだ。幸い、ゴブリンには「騎兵」と呼べる兵科が存在しない。
自分たちは十分に早く動いた――そう思っていた。
だが、道半ばでチカ町から駆けつけた伝令が告げたのは、最悪の知らせだった。町がゴブリン軍による襲撃を受けているというのだ。
隊を率いて慌てて引き返した頃には、チカ町の空はすでに燃え上がる火で橙色に染まっていた。
今、彼らがいるのはチカ町から三キロも離れていない小高い丘、「オウム嘴」と呼ばれる場所だ。山と言うには低いが、町から近いため、頂上に立てば町全体を見下ろすことができる。
「状況は最悪だな」
ケンは単眼鏡を下ろし、深く眉を寄せた。
「ゴブリンは町の西側から仕掛けてきたらしい。あちらの火勢が最も強い。しかも、その火は町の中心へ向かって広がっている」
「午後の時点で住民には一応の警告が届いていたようだ。だから完全に蜘蛛の子を散らすような混乱にはなっていない。大半は本能的に、東側――双流城へ通じる方角へ逃げている」
「となれば、こちらもまず東側で住民と合流し、防衛線を作る必要があるな。ペトラ、お前も見てみろ」
半ば独り言のように状況を整理したあと、ケンは単眼鏡を隣へ差し出した。
「町の東側ですか……」
それを受け取ったのは、灰白色の長髪を後ろで束ねた少女だった。身体にぴったり沿う白い皮鎧の下には、厚手の綿の服を着込んでいる。大きく開いた襟元には、銀色に光る小ぶりな投げナイフが三本留められており、そのせいで、きりっとした顔立ちがさらに引き締まって見えた。
「まずいです! ゴブリン軍の一隊が東へ向かっています……何かを追っているみたいです……あれは、冒険者の小隊です!」
「ん? おそらく、町に残っていた冒険者たちが即席でまとまったのだろう。それならそれで悪くない。一般住民が逃げる時間を稼げる」
「たぶんそうです……前方には確かに住民が何人も集まっています。彼らを逃がすために時間を作っているのかと……あれ? 違う……その冒険者小隊、止まりません! 自分たちだけ先に森へ逃げ込みました!」
「何だと!?」
「それに、その後ろには……せ、精鋭戦士の群れがいます!」
ケンの胸がどくりと重く沈む。彼は半ばひったくるように単眼鏡を受け取った。
「くそっ! レシオのやつか!」
遠くで見えた、あの無様に逃げる姿を確認した瞬間、怒りが一気に燃え上がる。
「職業戦士のくせに、丸腰の民間人を囮にするとは!」
相手のやり方は、経験の浅い者ならごまかせても、百戦錬磨のケンには一目で見抜けた。
昨日の午後、冒険者ギルドでの一件だけでも、彼はすでにレシオという男を大いに嫌っていた。だが今この瞬間、その評価は底を打ち抜いていた。できることなら今すぐ丘を駆け下り、あの男をひっ捕らえて双流城の異端審問所へ叩き込みたいくらいだった。
自分だけが助かるために他人を犠牲にする。そんな行為は冒険者の間では珍しくないかもしれない。だが、国家間の戦火が目前に迫っているこの局面では、それはもはや裏切りに等しい。
とはいえ、怒りに囚われている時間は一秒もなかった。
今、最優先すべきは、どうすればあの平民たちを生かせるかだ。
「やるしかないな。いつものやり方でいく」
ケンは大きく息を吸い込み、感情を無理やり押し込めた。
「騎兵の機動力を活かし、敵の攻撃圏の外から揺さぶりをかける。牽制が目的だ」
方針を固め、部下を率いてすぐさま山を下ろうとした、その時だった。すぐ横から馬のいななきが響いたかと思うと、白い影が矢のように飛び出していく。
「ペトラ! お前っ!」
ケンは、あっという間に木立の向こうへ消えかけたその背中を見て、思わず頭を抱えた。
巡回隊副隊長ペトラ。美貌と剣の才の両方に恵まれた少女だが、問題はその正義感だった。正しさを信じる気持ちが強すぎるあまり、肝心な場面で突っ走ってしまう。
「まったく……」
ケンは深くため息をついた。
「隊長、俺たちも……?」
「当たり前だ!」
手綱を引きながら、ケンは低い声で命じる。
「いつも通りだ。基本は攪乱、真正面からぶつかるな! それから速度は保て。前の馬の尻に、自分の馬の口をつけるような真似はするなよ!」
「ははっ、任せてくださいよ、隊長!」
「そうですよ! 隊長こそ、一番遅い馬なんですから、自分の尻の心配でもしててください!」
若い巡回隊員たちは声を潜めながら笑い合い、そのおかげで張りつめていた空気が少しだけ和らいだ。
ケンはそんな彼らを見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
戦争は残酷だ。
だが同時に、若者を一気に成長させる最も過酷な触媒でもある。
この中の誰かが、いずれ外敵に立ち向かう次代の柱になるのかもしれない。
ただ――
彼はもう一度、山の下で燃え続ける町を見た。
その目には重い影が差している。
その時まで、生き残れる者が果たして何人いるのだろうか。




