怨霊少女と何か(5)
俺は白い霧に包まれた場所に立っている。一寸先も見えない。
ぼんやりと、辺りを見回す。
俺、死んだのか? その割には三途の川はないし、地獄の番犬も天使もいない。
「このままじゃあ死ぬが、どうする?」
背後から声。振り返る。
霧の中、麻滝が立っている。
どうして麻滝がいる?
「あれ……ひょっとして、お前も死んだか?」
「いやいや」
麻滝は皮肉な笑みを浮かべる。
「私は本物じゃあないよ」
「なるほど、夢か。死ぬ寸前だから幻覚を見てるわけだな」
ということは、もう俺は死ぬのか。確かに、体もふわふわしている。
「現実世界では君は死につつある。苦痛と恐怖に耐え切れなくなった心が作り出したシェルターみたいなものだよ、ここは」
偽者の麻滝が教えてくれる。
俺のイメージとしての麻滝としても、さすがに麻滝は麻滝、冷静で的確だ。
「そうか……で、どうやったら出られるんだ、ここ?」
「え、出るのかい?」
当然と言えば当然の俺の疑問に、偽者の麻滝は驚いた顔をする。
「このままここにいたって、助からないだろ」
「それはそうだが、ここを出て意識を取り戻したところで、助からない。せいぜい、苦しむ時間が延びるくらいだ」
やはり、冷静で、正しい意見だ。
だが、
「それでいいよ。抵抗してみる」
「どうして?」
心底不思議そうに麻滝は言う。
「君は、どうしてそんなに生きたいんだ?」
「それは――」
あまりにも根本的な問いに、答えに詰まる。
「そうよ」
偽者の麻滝は、姿を変えて一文字さんになっている。
「好きな女の子とも喋れない。友達だって作れない。死ぬほどつらいのを我慢してまで、どうしてそこまで生きたいの?」
「生きてれば、どうにかなるかもしれない。リルカの問題だって片付くかもしれないだろ」
考えず、反射的に答える。
「嘘だな」
断言するのはマリアの師匠の僧侶だ。また姿が変わっている。
「君はリルカ君をどうにかしようなんて本気で思っていないよ。もし、思っていたらこれまでにもっと真剣に行動していたはずだ。神社に行ったり寺院に行ったり、誰かに相談したり。何もしてこなかったんだろう?」
返す言葉がなく、俺は黙る。
「結局、お前は何がしたいんだよ」
僧侶はベルカに変わる。銀色の目が俺を捉える。
「何がしたくて、こんな事件に巻き込まれてるんだ? どうして俺の邪魔をする?」
答えがなく、黙りこむ。
だが、黙っていても状況は改善されない。ひょっとしたら、黙っていたらこのまま死ぬんじゃあないか。何か、返事をしないと。
返事。自分が何をしたいのか。言えない。何も思いつかない。
脳裏に浮かぶのは夕方。俺に告白してきたリルカの顔。トラック。幽霊になって俺を呪ってくるリルカ。
そういうことなのか?
「ああ」
あまりにも単純で、子どもっぽい理由だが、受け入れる。
「俺は、病院でリルカの死を知った時は、苦しくて仕方なかった」
リルカが死んだことが許せなかった。
「だから、俺の前で死んだり殺されたりは、許さない」
それが関わりのない極道だろうと、目つきの悪いヤンキーだろうと。
俺の怒りの正体だ。原始的な、死そのものに対する怒り。
「見過ごせなくて……結局、こんなことになった」
呆れる。自分で口にすると、あまりにも間が抜けている。
「なるほど」
便利屋の姿はいつの間にか麻滝に戻っている。
「それが君の行動原理か」
「ああ。だから俺を戻してくれ。俺はまだ生きたいんだよ。死ぬなんてごめんだ。死んだり殺されたりは、嫌なんだ」
「素直でよろしい」
笑みを含んだ声。リルカがいる。幽霊ではない、生きていた時のリルカに姿を変えている。
「にしても照れるなー」
リルカは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「それって、つまりあたしへの愛の深さ故にでしょ?」
「リルカ……」
名前を呼ぶ。
それ以外に、何も言えない。胸が苦しい。
これが、俺の妄想の、本物ではないリルカだと分かっているのに。
「じゃあな、俺は、もう行くよ」
何もかもを振り切るように、そう言って俺はリルカに背を向ける。
霧が晴れる。
「う」
酷い風邪にかかったような疲労感と苦痛で覚醒する。
戻ってきた、現実に。
すぐ目の前には女の顔。虚無的な目が俺を向いている。向いているだけで、多分俺を見てはいないのだろうが。
氷のように冷たい指が、俺の喉にかかっている。
「るるるるるるるるる」
耳元でささやかれる。
体が冷え切っているのが自分でも分かる。
一体、何秒気を失っていた?
もう、体を少し動かすことすらできそうにない。
が、これでこのまま本当に動かずに死ぬんだったら、何の為に戻ってきたのか分からない。
「ぐっあっ」
呻いて、全身全霊をもって体をひねる。女の指が喉から離れる。
そのまま俺は床に転がって、必死で女から距離を取る。
だがすぐに体が動かなくなる。
ようやく取った距離も歩けば一歩で詰められる距離だ。
女が無表情のままに一歩、こちらに向かって踏み出してくる。
俺は無様に転がった姿勢のまま、なすすべもなくそれを見上げる。
いや、本当は動こうとしている。しかし、体が動かないんだから仕方がない。というか息ができない。また、意識が遠くなる。
ただ、今回意識を失ったら多分もう戻ってこれない。
必死で抵抗しようとするが、まぶたが重くなってくる。
と、女の動きが止まる。足は俺の目の前まで踏み出されており、あとは体をかがめるだけで手の届く範囲だというのに、止まっている。
「……はっ」
一呼吸。
酸素が体に入ってくる。息が吸える。
薄れかけていた意識が鮮明さを取り戻す。
まだ、いけるか。
体を動かせるほどには回復していない。だが、全身の力を両足にこめて、もう一歩分だけ転がって女と距離をとる。
女は追ってこない――どうして?
「あっ……」
その原因はすぐに分かる。女の肩に後ろから手がかかっている。
女は単純に、肩をつかまれて動けなくなっている。
女を後ろから掴んでいたのは白いワンピースの少女だ。
リルカ。
リルカが、女の肩を掴んでいる。
「らるる……ら……」
初めて、女の顔に表情が浮かんだ。かすかな苛立ち。俺から目を離し、ゆっくりとリルカの方を向く。
リルカは女の方を見ない。ずっと俺を見ている。
さっきまで夢の世界のリルカとは違う、悪霊としての恨めしそうな目で見ている。
ああ、こいつは変わらない。化け物とはいえ、若く美しい女に近付いたことでかなり憎んでいる。
自分の方を見ないリルカに向かって、女は長く白い指を伸ばす。
リルカの細い喉に指が食い込む。
リルカの目がようやく女を向く。
両手で女の腕を掴んで、引き剥がそうとする。が、引き剥がそうとしたリルカの腕の方が、砂糖細工のようにぼろぼろと崩れ落ちる。女の能力だろうか。
だが、両腕を失ったリルカの周囲の闇から、無数の腕が出現する。そして、いっせいに女に向かう。それらの腕は女に辿り着く前に、次々と崩れていく。
だが、生き残った腕の数本が、とうとう女に触れる。腕はそのまま沈むように女の体に入り込んでいく。
「……る」
女はリルカの喉から手を離し、距離をとる。
女の体から青白い炎が噴き出し、リルカとその周囲にある腕を焼き払う。リルカは炎に焼かれながらもゆっくり女に向かっていく。
両腕はいつの間にか再生している。その両腕が突き出され、女の体を貫通する。
「るる」
青い炎が女とリルカを包む。
女はリルカを自分ごと焼き尽くそうとしている。
青白い炎の中、女とリルカは蛇同士のように絡み合っている。
俺は自分の体が軽くなっていることに気付く。
女がダメージを受けているからか。体力気力が戻ってきているのを感じる。
俺は立ち上がる。
青白い炎が小さくなり、やがて消えてリルカと女はお互いに離れる。
女もリルカも、既にぼろぼろになっている。
女の結われていた髪はばらばらに解け、美しい顔には、陶器を割ったかのようなひびが入っている。
だがダメージが深刻なのはリルカの方か。リルカの髪とワンピースはところどころ焼け焦げ、両腕は崩れ落ちたままでとうとう再生しなくなっている。
「る……るる」
女がリルカに近付いていく。
このままだと多分、リルカが負ける。
逃げよう。
今、女はリルカしか見ていない。体力は戻ってきた。今なら走って部屋を出て、一階まで降りることができる。
そうやってマンションから出てしまえば、あの女から逃げられるんじゃあないか。
縄張りの外まで追って来ないだろう。それだけじゃあない。ここでリルカがやられてしまうということは、俺がリルカから解放されるということだ。
俺の脳裏に、事故からこれまでの生活が蘇る。
女性を避けた生活、友人のいなくなった生活、夜と闇を恐れるようになった生活。リルカへの恐怖。苦悩。苦痛。
薄情者と言われようが冷血漢と言われようが、リルカがいなければいいのにと思わなかった日はない。リルカを苦痛に思わなかった日はない。
そうだ。ここでこの部屋を出れば、俺はまともになれる。まともな人間に戻れる。少なくとも、その可能性はある。
しかし、不思議だ。
だというのに、どうして俺は出口に向かってではなく、女に向かって走っているのか。
「リルカ、逃げろっ!」
自分でも意味不明なことを叫びながら。
女に突進する。女は俺に反応しない。女の体をそのまますり抜ける。
くそ、やっぱり物理的な攻撃なんて効かないか。舌打ち。すぐに女に向き直る。
「る……るる」
女が当初の獲物だった俺に一度顔を向ける。
だが、それだけだ。女は俺を脅威と判断せず、またリルカに顔を戻す。
その間は一秒足らず。
だが、その一秒足らずの間に勝負はついていた。
顔を戻した女が見たのは、下腹部に横一文字に亀裂が入ったリルカの姿だ。
何だあれ。
亀裂が、ぱかりと開く。内部には数十本の牙が生え揃っている。
口だ。漫画か何かのように、その巨大な口は更に巨大化してから、女を一口で食う。
「うわっ」
声が出る。
だってしょうがない。自分の元恋人が巨大な口で人間サイズのものを丸々食っているんだ。声くらい出る。
「……る」
いったんは全身を食われた女だが、牙の隙間から片腕を出してなんとか戻ろうとしている。
「る……る……」
だがどんなに腕だけで暴れても、外に出ることができない。ゆっくりと、その唯一出ていた片腕もリルカの中に吸い込まれていく。
「……る」
とうとう、完全に吸い込まれる。
そうして、ようやく部屋は静かになった。俺はぼろぼろのリルカを見つめる。
リルカは半透明になっている。まるで、今すぐにでも消えてしまいそうに。
「――リルカっ!」
俺はリルカに走り寄る。
リルカはぼろぼろの姿で俺を見て、恨めしそうな表情は崩さず、だんだんと薄れていく。
それはこれまでのリルカの消え方とは違う気がする。もう、二度と会えない気がする。
「リルカ……俺は――」
何か言おうとするが、続きの言葉が出てこない。
ようやく分かる。自分がどうしてさっき逃げなかったのか。
単純な答えだ。
俺はリルカが好きだ。
あの告白の日から、いやそれよりも前からずっと。たとえ死んで怨霊になってしまって、俺と俺の周りに害を及ぼす存在になったとしても。どれだけ彼女を苦痛に感じたとしても。
リルカは足元からゆっくりと消えていく。もう腰の辺りまで消えている。そんな自分の状態を気にする様子もなく、リルカはただ俺を見ている。
そのリルカの姿に、事故直前の夕暮れ、告白したリルカの姿が重なる。
消える間際、リルカは恨めしそうな表情を消して微笑んでいた気もするが、はっきりとしない。




