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split tears~西暦2055年香港劇場火災事故の真相~  作者: shiori@


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第五話『東洋の真珠』6

 沙耶は夫のエルディン・アルシュタットと再び二人きりになった。

 九龍半島(きゅうりゅうはんとう)と香港島(ほんこんとう)の間の海峡、ビクトリアハーバーに留まり、壮大なマルチメディア・ライトショーの一つ、シンフォニー・オブ・ライツを鑑賞する沙耶とエルディン。 

 

 陽が沈み、空が暗くなって夜の訪れを迎える中、ゆらゆらと水面が揺れる海峡の先にある都市部のサーチライトが点灯した。

 

 まだ眠るには早いと訴えかけるように光を映し出す高層ビル群。

 人工照明は人類繁栄の象徴そのもの。

 沙耶はストールを羽織りながら、心地良い海風を受け、幸福に生きていることを実感した。


 圧巻の風景に陶酔するように自然と繋がれた手、肩を寄せ合い、身体を温め合い、ただ息を吞んで目の前に広がる光景を見つめる二つの影。

 周りの観光客の喧騒も気にならなくなるほど、若かりし頃の青春時代を再現するようなロマンチックな時間が流れる。


 巨大なLEDディスプレイ、ドローンショーを通して行われる屋外映像美の祭典。

 水面が優しく揺れ、湾岸部の先にある超高層ビル群に映り込む色とりどりの照明が美しい夜景の象徴となって見る者を魅了する。 


 沙耶は青春時代の無垢な乙女だった頃に舞い戻って桔梗のような紫色の瞳を輝かせ、世界的にスケールの大きい、音楽と光のショーを夢心地のまま鑑賞した。


「全部、そう全部……夢みたいな時間だね……蓮君。


 でも夢じゃないのよね……私は幸せよ。貴方が傍にいてくれて。


 だから何度でも言わせて。帰って来てくれて、ありがとう……」


 心満たされながら、愛しい人を見つめ囁く沙耶。

 全て過去からの延長線上に今がある。

 だからこそ、沙耶は婚約者であった守代蓮の名を囁いていた。


「早くホテルに帰らないと、トーレスが寂しがっちゃうかもしれないけど、もう少しこうしていたいね、あなた……」

 

 香港旅行に一緒に連れてきた、エルディンとの間に産まれた長男、トーレスのことを想う沙耶。こうして幸せな時間を送りながらも、退屈させてしまっているトーレスのことが気がかりでならなかったのだ。


 現在は穏やかな日常を獲得するに至ったものの、四十代を迎えた清水沙耶の半生は常軌を逸した、普通とは無縁の唯一無二の半生だった。


 高校卒業を機に婚約者の美術教師、守代蓮(もりしろれん)と遠距離交際することを受け入れ、都内にある赤津探偵事務所を訪ねることにした沙耶。


 幼い頃から強い霊感を持ち、人の輪に入ることを避けてきた沙耶は自分と瓜二つの外見をしたドッペルゲンガーを守護霊として受け入れることに決めた。

 自殺した少女の霊と共に生きることを受け入れた自分。沙耶は羽佐奈の手助けを得て、本当の意味で少女の霊と一つになった。

 

 守護霊はずっと沙耶が抱えていた生きづらさを解消するための助けとなり、やがて守代蓮と共に人生を歩み、穏やかな日々が続いていくはずだった。


 だが、災難が沙耶に降りかかった。

 超能力研究機関を脱走した超能力者との交戦に巻き込まれ、呪いを受けてしまった結果、ナルコレプシーを発症、眠り姫となってしまったのだ。 

 

 翌年に舞原市で発生したゴーストによる未曾有の厄災を生き延びた守代蓮(もりしろれん)と行動を共にしていた半人半霊の魔法使い、沢城奈月(さわしろなつき)により呪いが解かれ、長い眠りから生還することになるが、厄災の最中に守代蓮は命の落としていた。


 奇跡的な目覚めの後に明かされた厳しい現実。

 最愛の婚約者を喪った受難は計り知れないほど大きく、影を落とすことになった。 

 

 それから十年余りの時が過ぎ、沙耶は運命の再会を果たした。

 エルディン・アルシュタット。

 かつて愛し合った守代蓮と瓜二つの外見をした男性。

 それは、超能力研究を続けてきたアメリカの機関で生まれた、守代蓮のクローン体であった。


 厄災を生き延びることなく力尽きた守代蓮だが、アリスプロジェクトは彼の持つ潜在的な魔力因子に注目した。

 ゴーストを観測できる優れた眼。魔銃(まがん)を扱う優れた魔力特性。そして、強い霊感を持ちながらも安定している強い精神力。

 これらの能力を持つ男性は珍しく、埋葬するには惜しい優秀な被検体だったのだ。


 超能力の遺伝性について研究していた機関は守代蓮を依り代にクローン体の生成に着手した。


 人類が踏み越えてはならない禁断の領域。極秘プロジェクト。半人半霊の魔法使いを求めて生み出された功罪。


 これはアリスの祝福が女性に限定され、人工的に半人半霊の魔法使いを生み出すことが出来るのは、女性に限られていた背景が大きく、男性でも同じような能力者を生み出す研究を行うために、必要不可欠な段階であるとして試みられた。


 こうして生まれた、エルディン・アルシュタットという唯一のクローン体成功例。

 

 巡り巡ってそれは、婚約者だった沙耶の下へとやってきた。

 あの頃よりも、少し幼さが見えるクローン体。 

 哀しみを分厚い幻影で埋めるように沙耶はエルディンという救済を求めた。

 エルディンは声を出せないという先天的な障がいを持っていたが、沙耶はそれも受け入れて、エルディンと一緒に過ごす道を選んだ。

 

 研究施設で暮らしてきたため、迷い子のように無垢だったエルディンだったが、沙耶の愛情を受けて、人間的な感情を取り戻していった。

 歳を重ねるごとに、美術教師をしていた頃の外見へと変わっていくエルディン。愛情を注げば注ぐほど、あの頃の青春が戻って来る。

 沙耶はエルディンがクローン体であることも忘れて、愛し合った日々の再来に溺れていった。


 人間社会で自立をして初めて、守代蓮のクローン体は完成する。 

 それが多くの失敗例を闇に葬ってきた研究所が示した見解だったが、沙耶はそれを非難することなく、気にすることなく、ただ導かれるままにエルディンとの時を過ごし、トーレスを出産するまでになった。


 それは狂気に染められた一人の女性の過酷な道のりのように見えたが、かつて長い眠りを経験し、多くの喪失を乗り越えてきた沙耶にとって、唯一の救いとなったのだった。

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