第96話 正義の味方ではない
白花橋は、修道院の北にある小さな石橋だった。
白い花畑を抜け、林道を下ると、浅い水路に架かった古い橋が見える。
橋の欄干には白い花の紋が彫られており、巡礼者が休めるように小さな石椅子も置かれていた。
表向きには、静かな祈りの道。
だが、橋の下からは、冷たい魔力が立ち上っていた。
白倉の匂い。
透は橋の手前で足を止めた。
同行しているのは、ルカ、ネイラ、相良。
少し後ろに黒瀬がいる。彼女は誰にも言わずついてきていたが、透は最初から気づいていた。
「出てこい」
透が言うと、黒瀬は林の影から肩をすくめて出てきた。
「ばれてた?」
「足音が軽すぎる」
「褒めてる?」
「邪魔はするな」
「了解」
相良が少しだけ黒瀬を見たが、何も言わなかった。
ルカは道番の板を抱え、橋の下をじっと見ている。
「水の下に箱。箱の下に、また道」
「罠は」
「ある。箱を開けると、水が燃える」
ネイラの黒炎皿が、灰布の下で小さく熱を持った。
「水が燃える? 黒炎炉の火ではないな。白倉の腐った火だ」
透は橋の下へ降りた。
浅い水路の流れは細い。
白花修道院の薬草畑へ水を引くための水路だろう。
石組みの影に、鉄箱が半分沈められていた。
箱の表面には、白い目を抱いた欠け王冠。
その周囲に、小さな札がいくつも貼られている。
搬送名簿。
予備名簿。
灰核候補近似者。
そして、開封時焼却。
透は灰域を沈めた。
箱の中には紙束。
骨札。
小さな記録水晶。
さらに、奥にもう一つ、細い封筒。
中身は生きていない。
だが、名前の気配がある。
透の目が冷える。
「ここだ」
相良が橋の上で周囲を警戒する。
「敵は?」
「近い」
黒瀬が低く言った。
「橋の向こう、林の中。二人。いや、三人かな。動かないで見てる」
透は箱へ手を伸ばした。
その瞬間、林の奥から声がした。
「触るな」
白い外套の男が出てきた。
白倉回収人ではない。
神官服でもない。
商人服に近いが、襟元に白い花の刺繍がある。
白花修道院の事務方か。
その男は片腕に小さな札束を抱え、もう片方の手に短い杖を持っている。
後ろには、剣杯私兵が二人。
男の目は血走っていた。
「その箱は神殿管理物だ。触れれば水路ごと焼ける。修道院も、地下の子どもも、全部巻き込むぞ」
相良が聖剣を構えた。
「やめろ! もう地下の子どもたちは救出している!」
男は笑った。
「なら、なおさらだ。救った者をまた焼かれたくなければ、箱から離れろ」
透は箱を見たまま動かない。
男は杖を握り直す。
「聞こえないのか、灰喰い。お前がその箱へ灰を伸ばせば、白花の水路に仕込んだ火が走る。中庭へ戻った子どもたちも、薬師も、証拠も、燃える」
ルカの顔がこわばる。
「水の道、つながってる。中庭まで」
ネイラが舌打ちした。
「腐った火だ。水に混ぜて、触れた札へ燃え移らせる仕組みか」
男は笑みを深めた。
「わかるなら離れろ。名簿は渡さない。白倉へ送られたものは、白倉のものだ」
透はそこで、初めて男を見た。
「誰のものだって?」
声は静かだった。
男の笑みがわずかに引きつる。
「白倉のものだ。神殿の管理下にある素材記録――」
透の足元から灰が沈んだ。
水路の底。
石組みの隙間。
白花の根。
薬草畑へ続く細い水道。
そこに混ぜられた火札の粉。
水に溶けた焼却命令。
中庭へ向かう導火線。
透の灰域が、それを一本ずつ拾う。
広い。
だが、死んだ命令だ。
喰える。
ただし、雑に喰えば水路の壁が崩れ、箱の内側が焼ける。
子どもたちのいる中庭へ反動が行く可能性もある。
透は右手を水へ入れた。
男が叫ぶ。
「やめろ!」
透は答えない。
灰が水の中へ広がった。
火を消すのではない。
水を喰うのでもない。
水に混ぜられた焼却命令だけを拾い、細く引き抜いていく。
灰糸が水路の中で網になった。
ルカが息を止める。
「水の道、震えてる」
ネイラが黒炎皿を取り出す。
「表に浮いた火は私が焼く」
「待て」
「わかっている。合図を出せ」
透は水の中へさらに灰を沈めた。
中庭へ続く導火線。
薬草畑へ伸びる線。
地下薬庫へ戻る線。
橋の下の箱を焼く線。
全部、別々に見える。
男は顔色を変えた。
「本当に、そんなことが……」
透は低く言う。
「ネイラ」
「今か」
「右の水面だけ」
「了解」
ネイラの黒炎が、針のように細く伸びた。
水を燃やさない。
水面に浮いた白い粉だけを焼く。
黒い火が、白い粉を舐めた。
じゅ、と小さな音がして、焼却命令が消える。
男が杖を振り上げた。
「起動しろ!」
何も起きない。
水は燃えない。
中庭へ火は走らない。
透の灰糸が、水路の奥に残っていた最後の命令を掴む。
「灰断」
白い導火線が、灰になった。
橋の下の空気が変わる。
罠は死んだ。
男は一歩後ずさる。
「なぜ……」
透は水から手を抜いた。
指先から灰色の水滴が落ちる。
彼は男を見る。
「お前が頼った命令は、もう死んでる」
剣杯私兵二人が動いた。
一人は相良へ。
もう一人はルカへ。
相良は聖剣を抜き、正面の私兵を受け止めた。
光が剣を押し返す。
もう一人は、ルカの小型灰印を狙っていた。
透の姿が消える。
次の瞬間、私兵の膝が逆へ折れた。
悲鳴が橋の下に響く。
透は私兵の襟を掴み、地面へ叩きつけた。
「ルカを狙うなと言ったはずだ」
声は低い。
私兵は痛みに呻く。
透の灰糸が、その喉元へ伸びる。
自害札を探る。
ある。
喉の奥、奥歯の裏。
透はそれを喰った。
私兵は死ねなくなる。
黒瀬がもう一人の剣杯私兵の背後へ回り、足を払った。
相良が剣を弾き、男を地面に押さえ込む。
相良は透を見た。
透は、ルカを狙った私兵の折れた膝をさらに足で押さえている。
治す気配はない。
相良の顔がわずかに強張る。
「篠宮……」
「死なせない」
透は言った。
「だが、歩かせる必要もない」
相良は言葉を失う。
その冷たさは、正しいのかどうか簡単には言えない。
だが、ルカを狙った。
サリカやミドやリザを番号にした側の私兵だ。
逃げれば、また誰かを狙う。
透は容赦しない。
白花の事務男は震えながら、橋の欄干へ後ずさった。
「ま、待て。私は命じられただけだ。白倉の命令で、修道院の記録を管理していただけで……」
透は男へ歩く。
「名前を消したのは誰だ」
「私ではない。私は番号へ写しただけで――」
「同じだ」
男の顔が引きつる。
「違う! 私は子どもを殺していない! 修道院は救護施設だ。食事も薬も与えていた! 私はただ、上からの指示に従って――」
透の灰が男の足元へ広がった。
「サリカを狐血三七にしたのは誰だ」
男は口を閉ざす。
「ミドを猫血二二にしたのは」
男は震える。
「リザを山羊角一四にしたのは」
男の喉が鳴る。
透はさらに近づく。
「答えろ」
男は叫んだ。
「私だ! だが、仕方なかった! 白倉の帳簿形式に合わせなければ、私が処分される! 私は生きるために――」
透の灰糸が男の右手へ絡んだ。
その手には、番号札を書くための白い筆が握られていた。
骨と白金で作られた、小さな筆。
透はそれを見た。
「その手で書いたのか」
男ははっとして筆を隠そうとする。
透の灰糸が筆を奪う。
シェラはいない。
だが、携行記録片が透の腰で小さく光っている。
簡易記録は残せる。
透は筆を見て、男へ向き直った。
「名前を書け」
「は……?」
「サリカ・ロウ。ミド・カラン。リザ・トール。お前が番号にした名を、ここで書け」
男は震えた。
「そんなことをすれば、白倉印が――」
「俺が止める」
「私は……」
「書け」
男は地面に膝をつき、震える手で予備の札を取り出した。
白い筆を持つ。
だが、書こうとした瞬間、首元の白目王冠印が赤く光った。
裏切り防止。
名前を戻す行為を禁じる命令。
男の喉が焼ける。
「がっ……!」
透は灰糸を伸ばした。
リィンはいない。
ここでは透一人で止めるしかない。
灰糸が首元の印へ絡む。
命令を喰う。
だが、完全には止めない。
少しだけ痛みを残す。
男は苦しみながら透を見る。
「助け……」
透は冷たく言った。
「書け」
「助けてくれ……!」
「書けば止める」
相良が息を呑む。
「篠宮、それは――」
透は振り返らない。
「相良」
声は静かだった。
「俺は別に、正義の味方ってわけじゃない」
相良の言葉が止まる。
透は男を見下ろしたまま続けた。
「こいつは名前を消した。番号を書いた。子どもを箱に詰めた。白倉へ送った。今も証拠を焼こうとした」
男の喉から焼ける音が漏れる。
透は灰糸を緩めすぎず、締めすぎず、命令の痛みを残した。
「俺が助ける理由を、こいつがまだ作ってない」
橋の下の空気が凍った。
相良は何も言えなかった。
それは勇者の言葉ではない。
聖女の言葉でもない。
正義を掲げる者の言葉ではない。
だが、嘘ではなかった。
透は、すべての人を救おうとしているわけではない。
拾った者を守る。
名前を戻す。
道を守る。
敵が手を伸ばせば折る。
それだけだ。
男は涙と涎で顔を濡らしながら、白い札へ文字を書いた。
サリカ・ロウ。
書いた瞬間、首元の印がさらに焼ける。
透は命令の一部を喰う。
痛みは少し引く。
「次」
ミド・カラン。
また印が焼ける。
透は止める。
「次」
リザ・トール。
男の手は震え、字は歪んだ。
だが、名前は書かれた。
透は三枚の札を拾い上げる。
番号札を書いた筆で、本人の名を書かせた証拠。
それは、白倉にとって屈辱的な記録になるだろう。
透はそこで初めて、男の首元の命令を完全に喰った。
男は地面に崩れ落ち、大きく息を吸う。
「た、助かった……」
「まだだ」
透は男の手首を掴んだ。
白い筆を握っていた右手。
男の顔が恐怖に歪む。
「ま、待て! 書いた! 書いただろう!」
「ああ」
透は静かに頷いた。
「だから殺さない」
灰が男の右手に絡む。
骨を砕くほどではない。
だが、白い筆を握るための指の腱へ、灰が冷たく入り込む。
男が悲鳴を上げた。
右手の指が動かなくなる。
透は手を離した。
「その手で、もう番号は書けない」
相良の顔が青ざめる。
黒瀬ですら、少しだけ目を細めた。
ネイラは黙って見ている。
ルカは道番の板を胸に抱え、透の背を見ていた。
怖がっているわけではない。
ただ、透がどこに線を引いたのかを見ている。
男は地面で呻いている。
透は彼を見下ろした。
「生きたいなら、白倉の道を吐け。吐いて役に立て。次に名前を消そうとしたら、手だけでは済ませない」
男は泣きながら頷いた。
相良は聖剣を握りしめていた。
「篠宮」
「何だ」
「俺は……今のを、簡単に正しいとは言えない」
「言わなくていい」
透は三枚の名前札を懐へ入れる。
「俺も正義だと言う気はない」
相良は唇を噛む。
透は続けた。
「でも、あいつらがまた番号を書くなら、俺はその手を潰す」
その声には迷いがなかった。
相良は何も返せない。
勇者としては、止めるべきなのかもしれない。
だが、番号にされた子どもたちを見た。
地下で声を奪われた子どもたちを見た。
白倉の箱を見た。
正しさだけで、あれを止められるのか。
わからなかった。
黒瀬が低く呟く。
「尋問する側からしたら、最悪だね」
ネイラが鼻を鳴らす。
「甘いくらいだ」
相良はネイラを見る。
ネイラは冷たく言った。
「黒炎炉なら、指では済まない。名を奪う奴は、最初に喉を焼く」
ルカが小さく言う。
「でも、名前は戻した」
透はルカを見る。
ルカは三枚の札が入った透の懐を見つめている。
「サリカ、ミド、リザ。戻した」
「ああ」
「じゃあ、灰の砦に持って帰る」
「そうだ」
透は橋の下の鉄箱へ向き直った。
罠は死んだ。
白花の事務男は右手を潰され、生きた証人になった。
剣杯私兵も捕縛済み。
水路は燃えない。
あとは箱だ。
透は箱の白倉印へ灰糸を伸ばした。
今度は、抵抗が弱い。
開封時焼却命令は水路の罠と繋がっていた。
その線はもう断ってある。
透は命令だけを喰い、箱の鍵を外した。
蓋が開く。
中には、名簿の写しがあった。
白花修道院から白倉へ送られた者。
送付予定者。
番号化済み。
灰核候補近似者。
黒炎適性疑い。
封印耐性中。
異界魔力反応微弱。
その最後の欄に、透は見覚えのある言葉を見つけた。
灰番関連候補。
名前は半分焼けている。
だが、横に小さく記されている。
――奈落門処理時、灰喰い個体と接触可能性あり。追跡対象。
透の目が細くなる。
「シェラに読ませる」
黒瀬が覗き込む。
「また大物?」
「たぶんな」
箱の底には、記録水晶もあった。
相良がそれを見て言う。
「それ、王都で使ってた記録水晶に似てる」
「召喚のか」
「訓練記録用って聞いてた。でも、形が近い」
透は記録水晶を灰布で包む。
白倉。
帰還儀。
灰番。
異界魔力。
また線が繋がる。
透は箱を閉じ、灰布で包んだ。
「戻る」
ネイラが白花の事務男を見下ろす。
「こいつは?」
「連れていく。境目房だ」
「そこも混んできたな」
「広げる」
ルカが頷く。
「道が決まってない人、多い」
黒瀬が少し笑う。
「灰の砦、牢屋まで成長中?」
透は答えない。
牢ではない。
だが、敵を置く場所も必要だ。
吐かせる者。
境目に立つ者。
まだ判断しない者。
灰の砦が大きくなるほど、抱えるものも増える。
透は橋の上へ上がった。
白い花の道の向こうに、修道院が見える。
中庭ではまだ救出が続いている。
リィンたちが地下の根を押さえている。
灰の砦とベルディアの者たちが、名前を戻している。
透は懐の三枚の札に手を当てた。
サリカ・ロウ。
ミド・カラン。
リザ・トール。
正義の味方ではない。
けれど、この名前をもう一度番号にする者がいるなら。
透はその手を潰す。
橋の下で、白い筆は折れていた。
灰は、その破片を喰わなかった。
証拠として残すために。




