第95話 白花橋の逆流
礼拝堂へ駆け上がる途中で、透は地上の空気が変わるのを感じた。
白花の香りが薄れる。
代わりに、鉄と革と、古い血の匂いが風に混じった。
敵が来ている。
地下で白倉印の焼却命令を斬ったことで、修道院の隠し機構は沈黙した。
だが、それは同時に、外へ異常を知らせる合図にもなったのだろう。
白花橋。
聖薬荷車の中継点。
そこから、王冠印を持つ武装集団が逆流してくる。
透は礼拝堂へ出た。
祭壇の下では、まだリィンの青い封印線が揺れている。
美しい女神像の足元に、地下への口が開いたままだ。
外では、白い花が風に揺れていた。
その向こう、修道院北側の林道から、複数の足音。
数は十二。
いや、もう少し多い。
灰域を広げる。
灰域が白花の根を伝い、北門の石垣を越え、林道へ沈む。
武装した男たち。
白い布で顔を覆った回収人。
剣杯の私兵。
黒鞭の縄使い。
そして、二体の荷車人形。
荷車人形は、荷車の形をした魔導機構だった。
車輪の内側に骨が組み込まれ、箱の奥に小さな王冠印がある。
荷を運ぶための道具ではない。
奪った子どもや証拠を積み、必要なら中身ごと燃やすための箱だ。
透の目が冷えた。
背後からシェラの声が響く。
「北側接近数、十五。王冠印反応、荷車機構二。黒鞭拘束縄、剣杯火札、白倉回収人二」
礼拝堂の奥では、救出された子どもたちが動き始めている。
ニーナと芽衣が薬を飲ませる。
美琴が毛布をかける。
真由が名簿の束を抱える。
リィンは地下への線を押さえ、ネイラは番号札の命令を焼いている。
ルカは道番の板を見ながら、出口の順番を決めていた。
「小さい子から。喉が悪い子はニーナの後ろ。リザは歩ける。ミドは抱える。こっち、こっち」
ルカの声は震えていなかった。
地下で泣く子どもたちの前で、道番として立っている。
透はそれを灰域の端で確認し、礼拝堂の扉を開けた。
外へ出る。
中庭には、修道女たちが固まっていた。
院長マレナは美琴に支えられたまま、顔を青ざめさせている。
認識阻害線を外された彼女は、自分が何を見ないようにされていたのかを思い出し始めていた。
エルドは中庭の端に立ち、北門の方を見ていた。
その顔に、明らかな焦りがある。
透は通り過ぎながら言った。
「エルド」
神官監督官が振り向く。
「地下の子どもに触るな。証拠に触るな。神官を動かすなら、救出のためだけに動かせ」
「私は――」
「線を越えたら、今度は止めない」
エルドの言葉が止まる。
透は北門へ歩く。
バルザが横に並んだ。
「一人で行く気か」
「お前は中庭の入口」
透は短く指示する。
「荷車人形が抜けたら止めろ。子どもと証拠を背に置くな」
バルザは牙を見せた。
「了解だ。俺は抜けた獲物を潰す」
ダグラスが幅広剣を担いで近づく。
「俺は?」
「礼拝堂側。薬師と証拠箱を守れ」
「任された」
久世とアルマも、中庭へ出てきた。
久世の顔には緊張がある。
だが、剣はまだ抜いていない。
透は言う。
「久世、アルマ。地下から上がる子どもの列を守れ。斬るのは、列へ届くものだけだ」
久世は頷いた。
「わかった」
アルマもすぐに答える。
「了解しました」
相良は聖剣を抜き、中庭中央へ立った。
「俺は王都騎士と神官を止める。変な動きをしたら」
「そうしろ」
透はそれだけ言った。
相良は一瞬だけ息を止め、それから強く頷いた。
透は北門へ向かう。
白い花畑の間を歩く。
花は踏まない。
まだ救えるものも、残すべきものも、ここにはある。
だが、北門の外から来る者たちは違う。
証拠を消し、子どもを奪い、名前を番号に戻そうとしている。
門の向こうで、白布の回収人が声を上げた。
「白花修道院は封鎖された。内部の汚染物と証拠を回収する。関係者は退け」
透は北門の前で止まった。
門は閉じられている。
薄い神殿封鎖がかかっていた。
内側から開ければ、外の連中は一気に入るつもりだろう。
透は右手を伸ばした。
灰が門の継ぎ目へ入り込む。
封鎖の表面は神殿式。
だが、その芯には王冠印の命令が混じっている。
内側の者を閉じ込め、外の回収人だけを通す。
透は静かに言った。
「便利な門だな」
灰糸が芯を喰う。
門の封鎖命令が灰になった。
ただし、門は開けない。
透は灰骸刀を抜いた。
灰色の刃が白い花畑の前で静かに伸びる。
門の向こうで、回収人たちが構えた。
「灰喰いだ」
「殺すな。拘束優先」
「灰骸刀を押収しろ」
「証拠箱と子どもを回収。失敗時は焼却」
その言葉を、透の灰域がすべて拾った。
透は門へ刃を向ける。
「灰刃延」
灰刃が門の隙間を抜け、外へ伸びた。
回収人たちが反応するより早く、刃は地面に刻まれた突入陣の芯へ届く。
「灰断刃」
門の外に敷かれていた突入命令が斬れた。
王冠印の号令を受けて一斉に走るはずだった兵たちの足が、ばらばらに乱れる。
荷車人形の車輪が軋み、起動の拍子がずれた。
透は門を開けた。
白い花の門が、静かに外へ開く。
その向こうに、武装集団がいた。
先頭の白布回収人が手を上げる。
「拘束網!」
黒鞭の縄使いが、呪いを染み込ませた黒縄を放つ。
剣杯私兵が火札を構え、荷車人形の箱が赤く光る。
透は一歩前へ出た。
灰瞬壁を張る。
灰瞬壁が黒縄の軌道を逸らす。
縄は白花畑の手前で地面に落ちた。
透はその縄へ灰糸を伸ばし、拘束命令だけを喰う。
黒縄はただの縄になる。
そのまま灰糸で引き、縄使いの足首へ巻き返した。
男が転ぶ。
バルザなら笑って踏み込んだだろう。
透は踏み込まない。
中庭から離れすぎない。
守るべきものが背後にある。
だから、ここで止める。
火札が飛ぶ。
透は灰骸刀を半抜きの角度で振る。
「灰牙閃」
細い灰の斬撃が火札の列を横から裂いた。
火札は爆ぜない。
火を広げる命令だけが喰われ、紙片としてばらばらに落ちる。
剣杯私兵たちが驚愕する。
「火が……!」
荷車人形が動いた。
二体。
車輪が地面を抉り、箱の口を開く。
内部の王冠印が光り、白花修道院の地下へ向かって吸引の命令を放つ。
子どもと証拠を、箱へ引き寄せる仕組み。
透の灰域が背後を確認する。
中庭では、リザがニーナに支えられて階段を上がっている。
ミドは芽衣が抱えている。
サリカと同じように番号札を外された子どもたちが、ルカの指示で礼拝堂側へ動いている。
真由とシェラが名簿箱を抱え、リィンの青い線が地下を支えている。
吸わせない。
透は灰骸刀を構え直した。
荷車人形の箱へ向けて、灰刃を伸ばす。
だが、その瞬間、白布回収人が叫んだ。
「白花の子を盾にしろ!」
修道院の外壁裏から、別の男が一人、子どもを抱えて現れた。
修道院の表側で働いていた孤児だろう。
白い服を着た幼い少女が、口を塞がれ、喉元に短剣を当てられている。
透の灰が冷えた。
白布回収人が叫ぶ。
「動けば殺す!」
中庭の空気が凍る。
相良が一歩動きかける。
久世も剣へ手をかける。
だが、透は動かなかった。
正確には、動いているように見えなかった。
足元の灰だけが動いた。
白い花畑の下。
根の間に溜まっていた灰。
地下から上がった焦げた札の粉。
扉の封鎖命令を喰った灰。
それらが、地面の下を走る。
「灰糸」
細い灰糸が、人質を取る男の足元から立ち上がった。
手首ではない。
短剣でもない。
男の腕を動かしていた拘束命令の筋。
白倉の回収人は、人質役にも命令札を入れていた。
失敗時には、自動で喉を切るように。
透はその筋だけを喰った。
男の腕が一瞬止まる。
その一瞬で、黒瀬が影のように動いた。
路地側から回り込んでいた彼女の短剣が、男の肘裏を浅く切る。
アルマが飛び込み、少女の体を抱えて引き離した。
久世が剣の柄で男の顎を打ち上げる。
斬らない。
証拠にする。
男は白目を剥いて倒れた。
久世の息が荒い。
透は短く言った。
「よく止めた」
久世は答えられなかった。
だが、その一言で、握っていた剣の震えが収まる。
透はすぐに荷車人形へ向き直る。
今度は邪魔がない。
灰骸刀の刃が伸びる。
「喰灰刃」
刃に灰が密着し、重く沈む。
透は一体目の荷車人形へ踏み込んだ。
車輪が突進する。
透は正面から受けない。
灰瞬壁を斜めに置き、車輪の軌道をずらす。
荷車人形の側面が露出する。
そこへ、灰骸刀を突き込む。
刃は木箱を割らない。
内部の王冠印と吸引命令を喰いながら、制御板だけを斬る。
荷車人形が止まった。
箱は残る。
中の記録札も残る。
二体目が横から箱の口を開き、焼却光を放つ。
透は半歩下がり、灰牙閃を放った。
「灰牙閃」
灰の斬撃が箱の奥へ走る。
焼却光を出していた命令核だけが斬れ、荷車人形の蓋が力を失って落ちた。
バルザが中庭側から飛び出し、止まった二体目を蹴り倒す。
「抜けさせねえよ」
白布回収人たちの顔に動揺が走る。
突入陣は死んだ。
拘束縄は返された。
火札は落とされた。
荷車人形は止められた。
人質も失敗した。
それでも、彼らは逃げなかった。
首元の白目王冠印が赤く光る。
自壊か。
透は灰域を広げる。
全員の喉。
奥歯。
胸元。
白い目の印。
死ぬ逃げ道が一斉に起動しようとしている。
透の目が冷たくなる。
「逃がすか」
灰が地面を覆った。
灰域を戦場全体へ薄く広げる。
白い花畑、門、林道、倒れた荷車人形、黒縄、火札、王冠印の残滓。
そのすべてから死んだ魔力を拾い、細い網へ変える。
「灰縛糸」
灰糸が一斉に立ち上がった。
回収人たちの喉、奥歯、胸元、自壊札へ絡む。
殺すためではない。
死なせないため。
自壊命令だけを締め、喰い、潰す。
白布回収人たちが膝をつく。
何人かは苦しげに喉を押さえた。
だが、爆ぜない。
死ねない。
透はゆっくり歩いた。
白い花畑の間を、灰を従えて。
先頭の回収人が震えながら見上げる。
「なぜ……殺さない……」
透は灰骸刀を下げたまま答えた。
「まだ吐いていない」
回収人の顔が恐怖に歪む。
「白倉は……」
「白倉も吐け」
灰糸が首元の印を締める。
「白花橋も、荷車も、番号札も、全部吐け」
透の声は冷たい。
「吐き終わるまで、死ねると思うな」
その場にいた王都騎士たちが息を呑んだ。
神官たちも動けない。
それは慈悲ではない。
透は敵を助けているのではない。
証拠を奪わせず、死による逃亡も許していない。
敵にとっては、殺されるより恐ろしい拘束だった。
中庭では、救出された子どもたちが礼拝堂へ運ばれている。
リィンは地下の封印線を押さえ続け、ネイラは黒炎で番号札の残命令を焼き、シェラは記録を二重化している。
灰の砦とベルディア側の者たちが、白花の根から名前を拾い上げている。
透は外から伸びた手を、一本ずつ折っていた。
先頭の回収人が呻いた。
「白花橋……橋の下に、もう一つ……箱が……」
透の目が細くなる。
「何の箱だ」
「白倉への……予備名簿……搬送済み対象の写し……灰核候補に近い者の印も……」
シェラが即座に記録する。
「白花橋下、予備名簿箱。灰核候補近似者印含む可能性」
透はバルザを見る。
「橋へ行く」
バルザが牙を見せる。
「こっちは任せろ。こいつらは逃がさねえ」
リィンが礼拝堂の入口から顔を上げた。
「地下、少し安定した。行ける」
「リィンは地下」
「了解。証拠を残す」
ルカが中庭から走ってきた。
「橋の下、道がある。水の道」
「案内できるか」
「できる」
透はルカを見る。
危険だ。
だが、白花橋の下に道があるなら、道番が必要になる。
「俺の後ろだ」
「うん」
ネイラも外套を直して歩いてきた。
「黒炎の匂いはまだない。でも、白倉の箱なら焼く命令があるかもしれない」
「来い」
「役割だな」
「ああ」
ネイラは小さく笑った。
「受ける」
相良が聖剣を持って近づく。
「俺も行く。王都騎士はここに残して、子どもの護衛に回す」
透は一瞬だけ相良を見る。
「足を引っ張るな」
「わかってる」
久世も前へ出かけたが、透は首を横に振った。
「お前はここだ。列を守れ」
久世は歯を食いしばった。
だが、頷いた。
「……わかった」
アルマが横で言う。
「こちらは任せてください」
透は頷いた。
白花修道院の北門を抜ける。
白い花畑の向こう、林道が白花橋へ続いている。
橋の下に、予備名簿箱。
灰核候補に近い者の印。
白花の根は、まだすべて掘り返せていない。
透は灰骸刀の柄を握り直した。
鞘の白い骨玉が、小さく揺れる。
サリカ・ロウの名。
ミド・カランの名。
リザ・トールの名。
そして、まだ戻っていない名。
白倉が番号へ変えようとしたものを、灰の砦は名前へ戻す。
透は走り出した。
背後では、白い花の中庭で救出された子どもたちの声が聞こえる。
前方では、橋の下から冷たい白倉印の気配が立ち上がっていた。
灰は、その気配を逃がさなかった。




