第9話 灰置き場へ
ルカは、水を飲み終えても小瓶を離さなかった。
両手で抱えたまま、部屋の隅に座っている。灰色の髪は絡まり、頬には煤のような汚れがこびりついていた。片目を覆う布は古く、何度も洗われたのか、あるいは擦り切れただけなのか、端がぼろぼろになっている。
透は扉の前に座り、外の音を聞いていた。
喰屍の這う音は遠ざかった。だが、完全に消えたわけではない。時折、通路の奥から湿った何かが岩を擦る音が届く。こちらの匂いを見失ったのではなく、刻印の外側で待っているのかもしれない。
リィンは壁に地図を立てかけ、ルカから聞いた道を照らし合わせていた。
「灰置き場は、ここで合ってる?」
リィンが地図の一点を指す。
ルカは小さく頷いた。
「たぶん。みんなは、灰だまりって呼んでる」
「みんな、か」
透はその言葉を繰り返した。
奈落の底に人がいる。
正確には、人だったものもいる、とルカは言った。まだ人のつもりのものもいる、とも。
その言い方は不穏だった。
だが、王国から落とされた者たちがそこに集まっているなら、無視する理由はなかった。そこには情報がある。上へ戻る道を知る者もいるかもしれない。何より、ルカの腕に走る黒い呪いが、そこから来たものなら、透の灰で削れる可能性もある。
透はルカの腕を見る。
黒い痣は、血管のように皮膚の下を這っていた。水を飲んだ直後は少し薄くなったが、すぐにまた濃くなっている。奈落の空気そのものが、呪いを育てているようだった。
「それ、痛むのか?」
透が尋ねると、ルカは小瓶を抱え直した。
「痛い時と、かゆい時がある。ひどい時は、声が聞こえる」
「声?」
「上に行くなって。戻れって。ここで腐れって」
透の右腕に巻いた黒鎖が、かすかに鳴った。
リィンの表情が硬くなる。
「奈落縛り。長くここにいる者を、地上へ戻さないための呪いだと思う」
「誰がそんなものをかけた」
「奈落そのものか、封印を作った人たちか……まだわからない。でも、自然に生まれたものだけじゃない」
「人の手が入ってるってことか」
「たぶん。嫌な感じがする」
リィンがそう言う時は、だいたい当たる。
透は右腕の手甲を見た。
灰殻の手甲。黒鎖。灰筒。灯り石。濾過布。使える道具は増えた。だが、まだ十分ではない。喰屍に囲まれれば危ない。下層の咆哮の主に出会えば、逃げ切れる保証もない。
それでも、行くなら今だった。
ルカの呪いは放っておけば濃くなる。喰屍も、保守室の周囲をいつまでも諦めるとは限らない。水も残り少ない。
「灰置き場までの道で、危ない場所は?」
透が聞くと、ルカは床に膝をついて、細い指で埃に線を引いた。
「ここから、細い道を通る。途中に、倒れた門がある。門の近くには骨の兵隊がいるけど、音を立てなければ通れる」
「骸骨兵か」
「たぶん、それ。赤い目のやつ」
「他には?」
「灰の川」
リィンが顔を上げた。
「まだ流れてるの?」
ルカはリィンを見て、小さく頷く。
「細くなったけど、流れてる。落ちると、体が軽くなって、戻れなくなる」
「軽くなる?」
「自分のこと、忘れる。名前とか、顔とか、どこから来たかとか」
透は息を止めた。
灰の川。
水ではなく、記憶や存在を削るものかもしれない。
「渡れるのか?」
「石橋がある。でも、欠けてる」
「欠けてる橋ばっかりだな」
「奈落だから」
ルカは真面目に言った。
透は苦笑しかけたが、子どもの顔があまりにも真剣だったのでやめた。
リィンが地図を覗き込む。
「灰の川を越えれば、灰置き場までは近い。浄水室へ行く道から少し外れるけど、遠回りにはならないと思う」
「なら、灰置き場を先にする」
「水は?」
「ルカのところに人がいるなら、水のことも聞けるかもしれない。なければ、そこから浄水室に向かう」
「無駄に動くと危ない」
「でも、ここに籠もってても水は増えない」
リィンは少し考えた。
それから、地図を畳む。
「わかった。私もその方がいいと思う。ただ、灰の川では絶対に手を伸ばさないで」
「落ちそうになっても?」
「その時は、黒鎖を使う。灰で触ったら、トオルの中まで流されるかもしれない」
「了解。灰で川には触らない」
透は立ち上がった。
脇腹の傷はまだ痛む。だが、灰で塞いだ膜の上から布を巻き直し、胸当てを固定すれば動けないほどではない。右腕の手甲も、番兵との戦いで痛めている。長く使えば危険だが、短い戦闘なら持つはずだった。
ルカは不安そうに見上げてくる。
「ほんとに、行くの?」
「案内してくれるんだろ」
「でも、みんなが歓迎するかわからない。地上の人を嫌ってる人もいる」
「俺も地上から落とされた側だ」
「でも、匂いが違う。外の匂いがまだ残ってる」
ルカは鼻を小さく動かした。
「それに、灰を喰べる人は怖がられる」
「慣れてる」
透がそう答えると、リィンが静かに首を横に振った。
「慣れなくていい」
「そうだったな」
透は息を吐いた。
「怖がられても、話はする。必要なら、呪いも削る。無理なら離れる。それでいい」
ルカはまだ迷っていた。
だが、やがて小瓶を透へ返した。
「わかった。連れていく。でも、喰屍が来たら走って。あれは、灰だまりの人でもあまり倒せない」
「倒せないってことは、逃げる方法はあるんだな」
「匂いを消す灰がある」
「それは欲しいな」
「少しだけなら、もらえるかもしれない。怒られなければ」
「怒られる前提なのか?」
「知らない人を連れて帰ると、だいたい怒られる」
透はリィンを見た。
リィンはわずかに目を伏せる。
「怒られるくらいなら、まだいい」
「奈落基準、ほんとに嫌だな」
三人は保守室を出た。
リィンが扉に青い封をかける。手首の刻印が淡く光り、扉の周囲に細い線が走った。
「これで、少しは持つ」
「戻る場所が残ってるのは助かる」
「戻ってくるんでしょ」
「ああ。戻る」
ルカが二人を見比べた。
「戻る場所、あるの?」
「ここは、そういう場所にした」
透が答えると、ルカは不思議そうな顔をした。
「奈落で?」
「奈落でも」
ルカは何か言いかけたが、やめた。
通路は冷たかった。
灯り石を布で包み、光を弱めて進む。明るすぎると魔物を呼ぶらしい。ルカは裸足に近い足で、ほとんど音を立てずに歩いた。小さな体は岩陰に溶けるようで、少し目を離すと見失いそうになる。
透は右腕の黒鎖に軽く灰を通し、周囲を探った。
広げすぎない。
壁を喰わない。
床を喰わない。
生きているものに触れない。
ただ、近くにある死骸の灰と呪いの濃さだけをなぞる。
それだけでも、以前よりずっと多くのことがわかった。
通路の角に、古い血の跡。
天井の亀裂に、小さな魔物の巣。
床の石の下に、腐った骨。
前方の闇に、動く核が三つ。
透は足を止めた。
「前に三体いる」
ルカが驚いたように振り返る。
「見えるの?」
「見えてるわけじゃない。灰に引っかかる」
リィンが小声で言う。
「骸骨兵?」
「たぶん。動きは遅い。赤い核がある」
ルカは壁際の小さな穴を指した。
「あそこから回れる。でも、狭い。リィンは通れると思う。トオルは……たぶん引っかかる」
「微妙に傷つく言い方だな」
「ごめん」
「いや、事実ならいい」
透は前方を見た。
音を立てずに迂回するか、骸骨兵を処理するか。
以前なら迷っただろう。
今は、判断できる。
骸骨兵三体。核の位置は胸に二つ、頭に一つ。通路は狭い。こちらにはリィンとルカがいる。戦闘が長引けば、別の魔物を呼ぶ。
短く終わらせればいい。
「俺がやる」
リィンが目を細めた。
「無茶?」
「たぶん違う。試すだけだ」
「その言い方は少し怪しい」
「危なくなったら止めてくれ」
「その前に止めたい時もある」
「できれば今回は見ててくれ。今の力で、どこまで静かにやれるか知りたい」
リィンは少し迷った。
それから、黒鎖の端を指で触れる。
「灰が広がりすぎたら、すぐ締める」
「頼む」
透は灯り石をリィンに渡し、闇へ進んだ。
骸骨兵は曲がり角の向こうにいた。
三体。ルカの言った通り、倒れた門の前を行き来している。錆びた剣と槍を持ち、兜の奥で赤い光を揺らしていた。
透は息を殺す。
右腕の手甲から、黒鎖を芯にした灰糸を伸ばした。
狙うのは核。
骨ではない。鎧ではない。武器でもない。
動かしている赤い核だけ。
一体目。
灰糸が兜の隙間から入り、赤い光に触れる。
「核だけ削る」
声はほとんど息だった。
赤い光が消えた。
骸骨兵は音もなく崩れる。透は崩れ落ちる骨を灰糸で支え、ゆっくり床に寝かせた。音は小さい。
二体目が振り返る。
透は床を蹴った。
近づきながら、鎖を低く振る。足首の黒い粘液だけを削る。骸骨兵の体勢が崩れる。倒れる前に胸の核へ灰糸を差し込む。
「核だけ」
赤い光が潰える。
三体目が槍を構えた。
突き出される前に、透は槍の穂先を灰糸で横へ逸らした。金属は喰わない。力の向きだけ削る。番兵の斧を受けた時より、ずっと小さな力で済む。
槍が壁を掠める。
透は懐へ入り、胸の隙間に手甲を押し当てた。
「核だけ喰う」
三つ目の赤い光が消えた。
通路に静寂が戻った。
透はしばらく動かず、周囲を探った。新しい気配はない。音も広がっていない。
うまくいった。
以前は死に物狂いで殴っていた相手を、今はほとんど音を立てずに止められた。
右腕に痛みはある。手甲の灰路も熱を持っている。だが、制御できている。
透は戻って、二人を呼んだ。
ルカは崩れた骸骨兵を見て、片目を丸くした。
「赤い兵隊、こんなに静かに倒す人、初めて見た」
「灰だまりには、戦える人がいるんじゃないのか」
「いる。でも、もっと音がする。殴ったり、燃やしたり、逃げたり」
「燃やせるのか」
「少しだけ。火が出る人がいる。でも奈落の火は、すぐ黒くなる」
リィンは透の右腕を見た。
「灰は広がってない。今のは、かなりいい」
「可より上か?」
「上。けど、三体で手甲が熱くなってる。連続では危ない」
「了解。調子には乗らない」
「今の返事は信じたい」
「信じてくれ」
「半分だけ」
透は苦笑した。
三人は倒れた門を越えた。
門の向こうには、広い空間があった。天井は高く、見上げても闇に沈んでいる。床の中央を、灰色の流れが横切っていた。
川だった。
だが、水ではない。
細かな灰が、音もなく流れている。川面は煙のように揺れ、時折、人の顔のような影が浮かんでは消えた。橋はその上にかかっている。細い石橋。中央付近が大きく欠け、片側の欄干は完全に崩れていた。
透は思わず息を呑んだ。
灰の川を見ていると、頭の奥がぼんやりする。
どこか懐かしいような、眠いような感覚。流れに手を入れたら、痛みも怒りも恐怖も、全部どうでもよくなる気がした。
右腕の黒鎖が強く締まった。
「っ」
透は我に返る。
リィンが黒鎖の端を握っていた。手首の青い刻印が光っている。
「見すぎないで」
「今の、危なかったか?」
「少し。灰の川は、忘れたいものを見せる」
「なるほど。悪質だ」
ルカは橋の手前で立ち止まっていた。
体が震えている。
「どうした?」
透が聞くと、ルカは川を見ないように目を伏せた。
「ここで落ちた人、知ってる。名前、忘れちゃったけど、知ってた」
「渡らなくていい道は?」
「ない。灰だまりに戻るには、ここを渡る」
透は橋を見た。
欠けている場所は大きい。大人なら跳べる幅かもしれないが、リィンとルカには危険だ。灰で橋を補修することはできそうに見える。だが、川に触れた灰が逆流すれば危ない。
リィンが黒鎖を見た。
「鎖を渡す。私がこちら側の封印で留めて、トオルが向こう側で固定する」
「俺が先に渡るのか」
「一番動けるのはトオル。嫌でも」
「嫌ではないけど、川は見たくないな」
「見ないで。足元と向こう岸だけ」
透は頷いた。
黒鎖の一端をリィンに預け、もう一端を右腕に巻きつける。灯り石を腰に吊るし、石橋に足を乗せた。
橋は思ったより脆かった。
一歩進むたび、石の下から細かな灰が落ちる。川に落ちた灰は、流れに混ざってすぐ見えなくなった。
透は川を見ないようにした。
それでも、声が聞こえる。
帰れない。
戻れない。
忘れろ。
痛みも名前も、捨ててしまえ。
透は奥歯を噛んだ。
名前。
篠宮透。
誰も呼んでくれなくなれば、消えてしまいそうな名前。
リィンはトオルと呼ぶ。ルカもそう呼んだ。なら、まだ残っている。
橋の欠けた部分に着く。
向こう側までは少し距離がある。跳ぶしかない。
透は息を整えた。
体は重い。脇腹が痛む。右腕も熱い。
だが、行ける。
透は踏み切った。
一瞬、足元に何もなくなる。
灰の川から、冷たいものが吹き上がった。
耳元で声がした。
――落ちろ。
透は向こう岸の石橋へ手を伸ばす。
指先が届く。
だが、石が崩れた。
「っ!」
体が傾く。
灰の川が下に迫る。
その瞬間、腰に巻いた黒鎖が強く引かれた。
リィンの青い光が鎖を走る。
「止まって!」
リィンの声が響いた。
透の体が空中で一瞬止まる。
完全には支えきれない。だが、その一瞬で十分だった。
透は右腕を伸ばし、向こう岸の岩の亀裂へ黒鎖を叩き込んだ。
「岩の緩みだけ喰うな、鎖を噛ませろ!」
命令が少し乱れた。
灰が岩を削りかける。
だが、黒鎖が灰を締めた。余計な広がりを抑え、鎖の輪だけを亀裂へ食い込ませる。
固定された。
透は体を引き上げ、向こう岸に転がり込んだ。
息を吐く。
危なかった。
川はすぐ下で音もなく流れている。もし落ちていれば、何を失っていたかわからない。
「トオル!」
対岸からリィンの声。
透は片手を上げた。
「生きてる!」
「それ以外も残ってる?」
「たぶん!」
「確認して!」
「篠宮透。日本から来た。奈落に落とされた。リィンとルカがいる。まだ忘れてない!」
リィンはそこでようやく息を吐いたようだった。
「なら、大丈夫」
「今ので確認になるのか?」
「なる」
透は黒鎖を向こう岸の岩にしっかり固定し、橋の欠けた部分に簡単な手すりを作った。灰で橋を補修するのではなく、鎖で渡る。川には触れない。
まずルカが渡った。
小さな体は軽く、鎖を握る手も慣れていた。だが、橋の中央で一度足を止めた。灰の川を見てしまったのか、片目がぼんやりとする。
透はすぐに声をかけた。
「ルカ!」
ルカの肩が跳ねる。
「小瓶、返してもらうぞ!」
「え?」
「水の小瓶。持ったままだろ。こっちまで持ってこい。落としたら困る」
ルカは胸元を見た。
確かに、小瓶を抱えている。
「あ……うん。持っていく」
意識が戻った。
ルカは鎖を掴み直し、こちら側へ渡り切った。
最後はリィンだった。
彼女は青い封印で鎖を支えながら進む。足取りは慎重だが、体力が戻りきっていないせいで途中で膝が揺れた。
透は向こう岸から鎖を引く。
「焦らなくていい」
「焦ってない。少し、足が嫌がってるだけ」
「足にも意思があるのか」
「今はある」
「じゃあ足に言ってくれ。こっちに来いって」
リィンはほんの少しだけ口元を緩めた。
「トオルが言って」
「リィンの足、こっちに来い」
「変な命令」
「効果は?」
「少しある」
リィンは最後の欠けた部分を越え、透の手を取った。
冷たい手だった。
透は彼女を引き上げる。
三人が向こう岸に揃うと、黒鎖を引き戻した。鎖の一部に灰の川の冷気が染み込んでいたが、リィンが青い刻印で封じ、透が表面の濁りだけを削った。
ルカは先へ続く通路を指す。
「この先。灰だまりは近い」
通路はゆるやかに下っていた。
空気が変わる。
腐臭や血の匂いに混じって、煙の匂いがした。焚き火ではない。湿った灰を温めたような、重い匂い。
やがて、前方に明かりが見えた。
赤でも青でもない。
灰色の灯火。
通路の先に、広い空間が開けている。
そこには、粗末な小屋がいくつも並んでいた。
石と骨と錆びた金属片を組み合わせ、灰で隙間を埋めた小屋。床には細い溝が掘られ、濁った水が流れている。中央には、黒い灰を積み上げた大きな炉のようなものがあり、その周りに人影がいくつも立っていた。
人。
少なくとも、形は人だった。
だが、誰もがどこかしら欠けていた。
腕に黒い痣を持つ者。
片足が骨の義足になっている者。
顔の半分を布で覆った者。
背中から小さな角のような骨が出ている者。
目の奥に赤い光を宿した者。
彼らは一斉にこちらを見た。
空気が張り詰める。
ルカが小さな声で言う。
「ただいま」
誰も返事をしなかった。
代わりに、炉のそばにいた大柄な男が前へ出た。
片腕がない。失った肩から先には、灰で固めた義手のようなものがついている。顔には深い傷があり、片目は白く濁っていた。
男はルカを見て、それから透とリィンを見る。
「ルカ。誰を連れてきた」
声は低く、岩を擦るようだった。
ルカは透の後ろに隠れかけ、踏みとどまった。
「水をくれた人。喰屍から、助けてくれた」
「地上の匂いがする」
男の視線が透に突き刺さる。
周囲の者たちがざわめいた。
地上。
その言葉には、怒りと怯えが混ざっていた。
透は一歩前に出た。
右腕の手甲と黒鎖が目立つ。隠しても意味はない。
「地上から落とされた。好きで来たわけじゃない」
「みんなそう言う」
「そうか。なら、俺も同じだ」
男の目が細くなる。
「灰を喰う匂いもする」
今度は、ざわめきが大きくなった。
誰かが後ずさる。誰かが石のナイフを握る。炉のそばにいた老婆が、何かの祈りの言葉を呟いた。
リィンが静かに透の横へ並ぶ。
その手首に青い刻印が浮かんでいた。
男の表情が変わる。
「青い鍵……」
周囲のざわめきが、別のものに変わった。
恐怖。困惑。信じられないものを見た時の息。
リィンは少しだけ息を吸った。
「私は、リィン。鍵と呼ばれるのは好きじゃない」
その声は大きくない。
だが、灰置き場の者たちは黙った。
男はしばらくリィンを見ていた。
そして、透へ視線を戻す。
「灰喰いと青い鍵が、なぜ一緒にいる」
「成り行きだ」
「奈落で成り行きほど信用できないものはない」
「それは少しわかる」
男の灰の義手が、ぎしりと音を立てた。
敵意はある。
だが、すぐに襲ってくるほどではない。男は警戒している。ここの者たちを守るために。
透は右腕を下げたまま言った。
「ルカの呪いを見た。俺の灰で、少し削れるかもしれない」
「その代わりに何を喰うつもりだ」
「今は、何も」
「灰喰いが、何も喰わない?」
男は鼻で笑った。
「地上の連中は俺たちを落とした。神殿は俺たちを封じた。魔物は俺たちを喰おうとする。今度は灰喰いが助けに来たと言うのか」
透は男の言葉を聞き、ゆっくり息を吐いた。
疑われて当然だった。
ここにいる者たちは、捨てられてきた。裏切られてきた。都合よく使われ、いらなくなれば奈落へ落とされたのだろう。
透がどれだけ自分も同じだと言っても、すぐに信じる理由はない。
だから、言葉では足りない。
「ルカ」
透は後ろを振り返った。
「腕を見せてくれ」
ルカはびくりとしたが、少し迷ってから前へ出た。
黒い痣の走る腕を差し出す。
男が険しい声を出す。
「何をする」
「呪いを少しだけ削る。肉も血も、記憶も喰わない。呪いの表面だけ」
「失敗したら?」
「リィンが止める」
リィンは透の黒鎖に手を添えた。
「止める。必要なら、強く」
「優しめじゃなくていいのか」
「今は言わない」
「厳しいな」
「ルカの腕がかかってる」
「その通りだ」
透は膝をつき、ルカの腕に手甲を近づけた。
黒い痣が反応する。皮膚の下で蛇のように蠢いた。ルカが息を詰める。
喰える。
呪いは透を呼んでいた。
奈落縛り。
戻るな。
腐れ。
沈め。
忘れろ。
灰になれ。
透は黒鎖に灰を通した。
リィンの青い封印が、鎖を締める。
「呪いの表面だけ削る」
灰糸がルカの腕に触れた。
黒い痣の一部が、じゅう、と音を立てて薄くなる。
ルカが痛みに顔を歪めた。
だが、叫ばない。
透は灰を広げそうになる衝動を押さえた。呪いの奥には、ルカ自身の魔力が絡んでいる。そこまで喰えば、痣はもっと薄くなるかもしれない。だが、それはルカの一部まで削ることになる。
表面だけ。
今、剥がせる分だけ。
「もう少し」
リィンが静かに言った。
「そこで止めて」
透はすぐに灰を引いた。
ルカの腕の黒い痣は、完全には消えていない。
だが、手首の周りだけ、色が薄くなっていた。
ルカが自分の腕を見つめる。
「痛いのが、減った」
その声が、灰置き場に落ちた。
周囲の者たちが息を呑む。
男の白く濁った目が、わずかに見開かれた。
透は立ち上がった。
「全部は無理だ。今やったら、たぶんルカごと削る。でも、少しずつなら薄くできるかもしれない」
「……本当に、呪いだけを喰ったのか」
男が言う。
透は右腕を押さえた。
「リィンが止めてくれたからな。俺一人なら危なかった」
「灰喰いが、自分の危うさを認めるのか」
「認めないと、周りまで喰いそうになる」
男はしばらく黙っていた。
やがて、灰の義手を下ろす。
「名は」
「透」
「俺はガルド。ここでは、一応まとめ役をしている」
「一応?」
「誰も正式に決めてない。だが、怒鳴る役がいる」
「それは大事そうだ」
「かなりな」
ガルドはルカの腕を見て、低く息を吐いた。
「話は聞く。信用はまだしない」
「それでいい」
透は答えた。
「俺も、ここをまだ知らない」
ガルドは少しだけ口の端を動かした。
笑ったのかもしれない。
「なら、まず知れ。ここは灰置き場。上に捨てられ、下に喰われなかった者が、最後に流れ着く場所だ」
炉の灰色の灯が揺れる。
透は周囲を見た。
怯えた目。疑う目。怒りを隠さない目。希望を見まいとして、それでもルカの腕に視線を向けてしまう目。
ここには、まだ息がある。
奈落に沈みきっていない者たちがいる。
透は右腕の黒鎖を握った。
強くなる理由が、また一つ増えた気がした。
奪われないため。
戻るため。
そして、目の前でまだ踏みとどまっている者たちを、奈落の底へ引きずり込む呪いを削るため。
炉の向こうで、灰が小さく舞った。
それは喰えと囁かなかった。
ただ、静かに沈んでいた。
終わらせてくれる者を、長い間待っていたように。




