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第8話 灰鍵の少女

 武装庫の中は、墓に似ていた。


 壁一面に並ぶ武器は、どれも眠っているように見えた。剣も、槍も、鎖も、盾も、すべて灰を被り、沈黙している。けれど、死んでいるわけではない。透が一歩踏み込むたび、右腕の灰殻手甲が微かに震えた。


 呼応している。


 武器たちがではない。


 そこに残った古い灰が、透の中の灰を見ている。


 そんな感覚だった。


 透は入り口のところで足を止めた。


 不用意に触れれば、また何かが起きる。武装庫の番兵は沈黙したままだが、ここにあるものが全部安全だとは思えなかった。


 背後でリィンが小さく息を吸った。


「ここ、まだ生きてる」


「武器が?」


「武器も。刻印も。奥の扉も。眠っているだけで、死んでない」


「眠りが浅いと起きるわけか」


「たぶん。起こし方を間違えると、怒ると思う」


「武器に怒られるのか」


「奈落では、珍しくない」


「嫌な常識だな」


 透は苦笑しかけて、脇腹の痛みに顔をしかめた。


 さっきの番兵との戦いで、体はかなり限界に近い。灰で傷を塞いではいるが、治っているわけではなかった。体の内側に残った痛みが、動くたびに骨を叩く。


 それでも、武装庫を見ないわけにはいかなかった。


 ここには、透が奈落で生きるためのものがある。


 ただの武器ではない。灰喰いが、灰を喰い散らかさずに扱うための道具。王国の神官が災厄と呼んだ力を、人の手で使うために残されたもの。


 透は一番近くにあった剣を見た。


 刃は半分ほど欠け、柄にはひびが入っている。剣身は黒灰色で、表面に細い溝が走っていた。灰殻の手甲と似ている。


「これ、使えるか?」


 リィンが近づき、剣の周囲の刻印を見た。


「触らないで」


 透は伸ばしかけた手を止める。


「危ない?」


「剣の周りに所有刻印が残ってる。前の持ち主を覚えてるんだと思う」


「持ち主以外が触ると?」


「手を斬る。たぶん、内側から」


「やめとく」


 透は素直に手を引っ込めた。


 リィンは床に膝をつき、剣の台座に刻まれた文字を指でなぞった。青い瞳が細くなる。


「灰刃、名は《残火》。戦場に残った怨嗟を裂くための剣。使用には、灰路三段以上、精神安定刻印の補助が必要」


「条件付きか」


「今のトオルには、まだ早い」


「だろうな」


 悔しさはあった。


 目の前に武器があるのに、使えない。だが、不思議と焦りはなかった。番兵との戦いで思い知ったばかりだ。扱えない力を無理に飲み込めば、自分の方が壊れる。


 透は隣の棚へ目を向けた。


 そこには、鎖が巻かれていた。


 黒く細い鎖。リィンを縛っていた封印鎖に似ているが、こちらはもっと滑らかで、輪の一つ一つに小さな文字が刻まれている。


 リィンがそっと近づいた。


「これは……たぶん使える」


「本当か?」


「灰喰い用の拘束鎖。喰べる対象を縛って、灰が広がりすぎないようにする道具。敵を捕まえるためというより、灰を留めるためのもの」


「俺向きだな」


「向いてる。でも、鎖の方がトオルを縛ることもある」


「道具に主導権取られるのは困る」


「だから、少しずつ慣らす」


 リィンは鎖の台座に手をかざした。


 その瞬間、彼女の手首に青い光が浮かんだ。


 透は目を見開く。


 青い光は、細い文字の輪だった。リィンの皮膚の上に浮かび、ゆっくりと回っている。武装庫の刻印と同じ色。いや、少し違う。こちらの方が、柔らかい。


「リィン、それ」


 リィンは自分の手首を見た。


「封印鍵の刻印。武装庫が、私を鍵として認識したみたい」


「鍵って、あの棺の封印だけじゃないのか?」


「私も、そう思ってた。でも……たぶん違う」


 リィンの声が少し揺れた。


「私は奈落を閉じるための鍵。だから、奈落にある封印や古い扉の一部は、私を知ってる」


 彼女は鎖の台座に浮かぶ文字へ触れた。


 青い光が広がる。


 台座に刻まれていた所有刻印の一部が、音もなくほどけた。


 鎖が、ゆっくりと持ち上がる。


 まるで眠りから覚めた蛇のように、細い輪が擦れ合う音を立てた。透は身構えたが、鎖は襲ってこなかった。ただ、リィンの手首の青い文字に従うように、空中で輪を作っている。


「これ、リィンが動かしてるのか?」


「少しだけ。動かしてるというより、起こして、落ち着かせてる」


「封印の力?」


「たぶん。閉じる力。縛る力。止める力」


「強いな」


 透が素直に言うと、リィンは困ったように目を伏せた。


「強いというより、動かないようにするだけ。何かを倒す力じゃない」


「それでも十分だろ。動きを止められたら、俺が削れる」


 リィンは顔を上げた。


 その言葉に、少し驚いたようだった。


「……そういう使い方」


「嫌か?」


「嫌じゃない。ただ、私の力をそんなふうに考えたことがなかった」


「じゃあ、今から考えればいい」


 リィンはしばらく鎖を見つめた。


 青い文字が彼女の手首でゆっくりと回っている。鎖はその光に従い、空中で小さな輪を作ったり、ほどけたりしていた。


「私は、閉じ込めるために使われた」


 彼女はぽつりと言った。


「誰かを助けるために、縛る力を使えるとは思ってなかった」


 透は少しだけ黙った。


 リィンが閉じ込められていた青い棺。黒い鎖。封印守り。王国か神殿か、あるいはもっと古い誰かが、彼女を鍵として使った。


 その力を、今度は彼女自身が使う。


 透には、それが大事なことのように思えた。


「使い方を決めるのは、リィンだろ」


 そう言うと、リィンは小さく息を呑んだ。


「私が?」


「ああ。俺の灰も同じだ。勝手に広がろうとするけど、何を喰うかは俺が決める。リィンの力も、誰を閉じ込めるかじゃなくて、何を止めるかをリィンが決めればいい」


 リィンは手首の青い文字を見つめた。


「何を止めるか」


「例えば、俺が喰いすぎそうになった時とか」


「それは止める」


「即答だな」


「そこは迷わない」


 透は少し笑った。


 リィンの返事は静かだったが、さっきまでとは違って芯があった。


 彼女は鎖を手に取った。


 黒い鎖は、彼女の手の中で抵抗しなかった。むしろ、長く待っていた道具がようやく持ち主を見つけたように、静かに収まった。


 リィンは鎖を透へ差し出す。


「これは、トオルが持つ方がいい」


「リィンが動かせるんじゃないのか?」


「私が刻印を起こして、トオルが灰を通す。たぶん、その方がいい」


「二人で使う道具ってことか」


「そう。ひとりで使うより、安全だと思う」


 透は鎖を受け取った。


 冷たい。


 だが、嫌な冷たさではなかった。右腕の手甲に触れさせると、鎖の輪に刻まれた文字がかすかに光る。灰を通すと、鎖の先端から細い灰糸が伸びた。


 手甲だけで伸ばすより、安定している。


 透は灰糸を近くの錆びた金属片へ伸ばした。


「表面の錆だけ喰う」


 錆が剥がれる。


 金属は残る。


 灰糸は広がりすぎない。鎖の輪が灰を締め、余計な方向へ流れるのを防いでいる。


「すごいな、これ」


「灰を縛ってる。完全にじゃないけど」


「それで十分だ」


 透は鎖を右腕に巻いた。


 灰殻の手甲の上から、黒い鎖が絡む。輪の文字が灰色と青色の間で揺れ、右腕に二重の回路ができたような感覚があった。


 力が増えたというより、手綱を得た。


 暴れ馬に乗ったまま、ようやく手綱を握ったような感覚だった。


「これなら、次はもっと上手くやれる」


「その言い方は少し危ない」


「何が?」


「無茶をする前の顔をしてる」


「そんな顔あるのか」


「ある。さっき番兵に突っ込む前もしてた」


「観察が細かいな」


「止める役だから」


 透は返す言葉に迷い、肩をすくめた。


 武装庫の探索は続いた。


 使えそうなものは少なかった。ほとんどの装備には所有刻印や制限がかかっていて、今の透には触れることすら危険だった。灰刃《残火》だけではない。大型の槍も、黒い弓も、獣の骨で作られた外套も、リィンが読める範囲ではどれも条件が厳しい。


 それでも、いくつかは持ち出せた。


 灰を溜める小さな筒。

 毒や呪いを濾すための薄い布。

 砕けた魔石を削って作られた灯り石。

 そして、古い地図の断片。


 地図は武装庫の奥の石棚にあった。


 リィンが埃を払い、青い刻印で封をほどく。中から出てきたのは、薄い金属板に刻まれた複雑な線だった。


 透には迷路にしか見えない。


 リィンは真剣な顔でそれを見つめていた。


「これ、封印区画の周辺図」


「上に戻る道は?」


「すぐには無理。でも、ここから少し離れた場所に、昇降坑がある」


「昇降坑」


「古い管理用の縦穴。壊れていなければ、上層へ行けるかもしれない」


 透の胸が少しだけ高鳴った。


 上へ。


 奈落に落とされた時、完全に断たれたと思っていた道。


 それがある。


 もちろん、簡単に辿り着けるとは思っていない。地図に道があることと、生きてそこまで行けることは別だ。途中には魔物がいるだろうし、壊れた封印や罠もあるだろう。


 それでも、方向がわかるだけで違った。


「どのくらい遠い?」


「歩ける状態なら、半日くらい。でも今の私たちだと、もっとかかる」


「途中で休めそうな場所は?」


 リィンは地図を指でなぞる。


「ここ。浄水室。あと、ここに灰置き場がある」


「灰置き場?」


「浄化した灰を一時的に眠らせる場所。灰喰いなら、補給できるかもしれない」


「補給って言われると、だいぶ人間離れしてきたな」


「嫌?」


 透は少し考えた。


 嫌ではある。


 魔物の死骸や呪いを喰って力にするなど、元の世界の感覚では受け入れがたい。けれど、その力のおかげで生きている。リィンを助けられた。武装庫の扉も開いた。


「嫌だけど、使う」


「それでいいと思う」


「リィンは、俺が変に見えないのか?」


「変?」


「死骸の灰を喰ったり、呪いを削ったりしてるだろ。普通なら気味悪いと思う」


 リィンは少しだけ瞬きをした。


「私も、普通からは遠い」


「それは……」


「だから、トオルだけ変だとは思わない」


 彼女は手首に浮かんだ青い刻印を見る。


「私は封印の鍵。人間だったのかも、今はわからない。そんな私を、トオルはリィンと呼んだ」


 リィンは顔を上げる。


「だから私も、トオルを灰喰いだけで見ない」


 透は言葉を失った。


 胸の奥に、熱とは違うものが残った。


 奈落に落とされてから、灰はずっと冷たかった。喰え、削れ、終わらせろと、乾いた衝動だけを伝えてきた。


 けれど今、胸の奥に残ったものは灰ではない。


 たぶん、人に名前を呼ばれるということの重さだった。


「……助かる」


 透はそれだけ言った。


 リィンは小さく頷いた。


「私も」


 武装庫の奥から、かすかな音がした。


 二人は同時にそちらを向く。


 第一層のさらに奥。閉ざされた黒い扉があった。番兵が開いたのは手前の区画だけで、その奥にはまだ何かが眠っている。


 その扉に、白い文字が浮かび上がっていた。


 リィンがそれを読む。


「灰路二段、番兵試験二種、浄化実績三つ。条件を満たすまで、第二層は開かない」


「つまり、まだ駄目ってことか」


「そう。今は近づかない方がいい」


「わかった。欲張らない」


「今のはいい判断」


「毎回採点されてる気分だな」


「必要なら点もつける」


「やめてくれ。可とか言われたばっかりで傷ついてる」


 リィンは少しだけ口元を緩めた。


 その表情は本当に小さな変化だったが、透にははっきりわかった。


 笑った。


 そう思うだけで、武装庫の冷たい空気が少し和らぐ。


 二人は持ち出せるものをまとめ、保守室へ戻ることにした。


 扉の前では、灰殻番兵が膝をついたまま沈黙している。透が近づくと、番兵の胸部にある白い火がわずかに揺れた。


 敵意は感じない。


 試験刻印を喰ったせいか、番兵はもう襲ってこなかった。


 透は少し迷い、番兵に向かって小さく頭を下げた。


「装備、借りる」


 リィンが横で瞬きをした。


「番兵に挨拶?」


「何となく。ここのものを勝手に持っていくわけだし」


「たぶん、そういうのは嫌いじゃないと思う」


「番兵にも好みがあるのか?」


「長く残ったものには、少しだけ癖が宿るから」


「じゃあ、怒らせないに越したことはないな」


 番兵は何も言わない。


 だが、透が通り過ぎる時、床に落ちていた戦斧がわずかに動いた。


 それは透へ向かってくるのではなく、武装庫の壁際へ戻るように滑っていった。まるで、役目を終えた道具が自分の場所へ帰るように。


 保守室に戻ると、青い刻印の光が二人を迎えた。


 透は持ち帰った道具を床に並べる。


 黒鎖。

 灰筒。

 濾過布。

 灯り石。

 地図の断片。


 どれも万全ではない。けれど、昨日までの二人にはなかったものだ。


 透は壁に地図を立てかけた。


「まずは浄水室。それから灰置き場。最後に昇降坑」


「その順番がいい。水がないと動けないし、灰置き場で補給できれば、昇降坑まで行ける可能性が上がる」


「途中に魔物は?」


「いると思う。封印が弱っているなら、上層へ向かう道ほど集まりやすい」


「地上に近いからか?」


「生きている匂いが降りてくる。奈落の魔物は、それを嫌うものと欲しがるものがいる」


「俺たちはどっちに狙われる?」


「たぶん、両方」


「人気者だな」


「危険な方の」


 透は笑った。


 リィンも、ほんの少しだけ表情を緩める。


 その後、二人は道具の確認を続けた。


 黒鎖は透の右腕に巻く。リィンが青い刻印で起こし、透が灰を通すことで安定する。


 灰筒は、倒した魔物や浄化した呪いの灰を一時的に蓄えるためのものだった。直接体に入れるより負担が少ないらしい。透はそれを聞いて、心底ありがたいと思った。喰えば力になるとはいえ、何でも体内に入れるのは気分が悪い。


 濾過布は毒水や瘴気を薄めるために使える。


 灯り石は弱々しいが、通路の先を見るには十分だった。


 そして地図。


 これが一番重要だった。


 リィンは地図の線を何度も確認し、保守室から浄水室までの道を透に説明した。曲がり角は五つ。崩落していなければ、途中に小さな監視所がある。そこが無事なら、短い休憩もできる。


「無事なら、だな」


「奈落では、大事な条件」


「最近そればっかりだ」


「でも、道はある」


 リィンは地図を指で押さえた。


「トオル。道があるのは、いいこと」


 透はその言葉を聞き、しばらく地図を見つめた。


 道がある。


 たしかにそうだ。


 ここに落とされた時、透には何もなかった。上も下もわからず、ただ暗闇と骨の山だけがあった。


 今は、地図がある。


 頼りないが、道具がある。


 リィンがいる。


 上へ続くかもしれない昇降坑の場所もわかった。


 十分だ。


 少なくとも、歩き出す理由にはなる。


「明かりが保つうちに、少し休もう」


 透が言うと、リィンは意外そうな顔をした。


「今すぐ行くって言うと思った」


「俺も言いそうになった」


「言わなかった」


「少しは学習してるからな」


「それはいいこと」


「また採点か?」


「今のは、可より上」


「ならよかった」


 透は床に腰を下ろした。


 右腕の手甲と黒鎖を外さず、壁にもたれる。外すのが少し怖かった。これがあるだけで、灰を抑えられている感覚がある。


 リィンは反対側に座った。


 手首の青い刻印は、まだ薄く光っている。


「それ、消えないのか?」


 透が尋ねると、リィンは手首を見た。


「今は消えない。武装庫の封を開けたから、しばらく起きているのかも」


「痛い?」


「痛くはない。でも、少し懐かしい感じがする」


「懐かしい?」


「棺の中にいた時、ずっと似た光に包まれていたから」


 透は眉を寄せた。


「嫌な懐かしさじゃないのか」


「嫌なものもある。でも、この光は少し違う」


 リィンは青い文字を指でなぞる。


「閉じ込めるだけじゃなくて、守るための封印もある。たぶん、これはそっち」


「守る封印か」


「何かを外から守る。あるいは、何かが外へ壊れて広がらないようにする。封印は全部が悪いものじゃない」


「リィンを閉じ込めてたやつは?」


 リィンは少し黙った。


「悪いものだったと思う。少なくとも、私にとっては」


「なら、それでいいだろ」


「いい?」


「リィンが悪いと思ったなら、それは悪い。神殿や王国がどう言ったかは関係ない」


 リィンは目を伏せた。


「そういう考え方は、あまり教わらなかった」


「俺も偉そうに言えるほど、自分で考えられてたわけじゃないけどな」


 教室のことが浮かぶ。


 空気に逆らわないこと。目立たないこと。やり過ごすこと。自分の不快さを、ひどいというほどではないと飲み込むこと。


 そうやっていれば、明日は来ると思っていた。


 だが、明日は突然奪われた。


 それなら、もう少し自分で決めたい。


 何を嫌だと思うのか。

 何を喰うのか。

 誰と進むのか。


 透は目を閉じ、少しだけ眠ろうとした。


 その時、保守室の扉の外で、小さな音がした。


 かり。


 骨の足音ではない。喰屍の湿った音でもない。


 かり、かり。


 何かが扉を引っ掻いている。


 透は目を開けた。


 リィンもすでに身を起こしている。


「魔物か?」


 透が小声で聞くと、リィンは首を横に振った。


「わからない。刻印が反応してない」


「魔物避けに引っかからない?」


「そう。魔物じゃないか、刻印より古いもの」


「後者は嫌だな」


 かり。


 また音がした。


 そして、扉の向こうから、小さな声が聞こえた。


「……だれか、いるの?」


 子どもの声だった。


 透とリィンは顔を見合わせた。


 奈落の底。

 封印区画の外れ。

 魔物避けの刻印が灯る保守室の扉の前。


 そんな場所で、子どもの声。


 罠だと思うべきだった。


 だが、その声は震えていた。


 リィンが息を呑む。


「トオル」


「わかってる。開ける前に確かめる」


 透は右腕の手甲に黒鎖を巻き直した。


 灰糸を扉の下の隙間へ伸ばす。


 喰うためではない。


 探るため。


 扉の向こうにある気配を、灰でなぞる。


 小さい。


 人型。


 生きている。


 だが、普通の人間ではない。


 体のあちこちに、古い呪いと灰が絡みついている。魔物ではない。死霊でもない。けれど、奈落に長く触れて変質している。


 透は小さく息を吐いた。


「子どもっぽい。けど、普通じゃない」


「奈落で普通の子どもは生きられない」


「それもそうか」


 扉の向こうの声が、もう一度言った。


「おねがい……開けないでいいから……水、少しだけ……」


 透の手が止まった。


 水。


 リィンが地図を握りしめる。


「罠かもしれない」


「ああ」


「でも、本当に喉が渇いてる声」


「わかるのか?」


「棺の中で、ずっと聞いてた。助けを求める声は、似てる」


 透は目を閉じた。


 まただ。


 奈落は、こうやって選ばせる。


 見捨てるか。

 手を伸ばすか。

 安全を取るか。

 危険を呑むか。


 透は小瓶を手に取った。


 貴重な水だ。二人分でも足りない。これから浄水室へ向かうとはいえ、そこが無事とは限らない。


 それでも。


 扉の向こうで、誰かが水を求めている。


 透はリィンを見た。


「少しだけ渡す。扉はすぐ閉められるようにする」


「私が封を押さえる。何か入ろうとしたら閉じる」


「できるのか?」


「やってみる。今の私なら、少しは」


 リィンの手首に青い文字が浮かぶ。


 彼女は扉に手を当てた。青い光が閂と刻印に絡み、扉の周囲を薄く覆う。


 閉じる力。


 止める力。


 透は小瓶を持ち、ゆっくりと扉を開けた。


 隙間はわずか。


 そこから灯り石の光が漏れる。


 扉の向こうにいたのは、小さな影だった。


 人間の子どもに見えた。


 年は十歳にも届かないくらい。ぼろぼろの布をまとい、灰色の髪が顔に張りついている。肌は土気色で、腕には黒い痣のような模様が走っていた。


 その子は、片目だけで透を見上げた。


 もう片方の目は、灰色の布で覆われている。


「……人、だったんだ」


 子どもはかすれた声で言った。


 透は小瓶を差し出した。


「少しずつ飲め。毒は薄めてある」


 子どもは震える手で小瓶を受け取った。


 すぐに飲もうとして、透が止める。


「ゆっくり」


 子どもはこくりと頷き、本当に少しだけ水を口に含んだ。


 その瞬間、黒い痣がわずかに薄くなる。


 リィンが小さく呟いた。


「呪いを受けてる」


 子どもはびくりと肩を震わせた。


「ごめんなさい。近づかないから。水、返すから。だから、閉じ込めないで」


 その言葉に、透は眉を寄せた。


「閉じ込めない」


「ほんとう?」


「少なくとも、今はそのつもりはない」


「今は、なんだ」


「嘘をつきたくないだけだ。俺たちも余裕がない」


 子どもは透をじっと見た。


 それから、小瓶を両手で抱える。


「あなた、灰の匂いがする」


 透の右腕がわずかに強張った。


 子どもの片目が、手甲と黒鎖を見る。


「でも、奈落の灰と違う。喰べる灰なのに、まだ全部喰べてない」


 リィンが緊張した声を出す。


「あなたは、何者?」


 子どもはリィンを見た。


 そして、驚いたように目を丸くした。


「鍵のひと……まだ、生きてたんだ」


 保守室の空気が凍った。


 透は灰糸を伸ばせるよう、右手を少しだけ上げる。


「リィンを知ってるのか」


「知らない。でも、聞いたことある。青い棺の鍵。奈落の底を閉じてたひと」


「誰から聞いた」


 子どもは喉を鳴らした。


 水をもう一口だけ飲み、扉の向こうの闇を振り返る。


「灰置き場の奥にいる人たち。捨てられた人たちが、そこに集まってる」


「人がいるのか?」


 透は思わず聞き返した。


 子どもは頷く。


「人だったものもいる。まだ人のつもりのものもいる。みんな、上から落とされた」


 上から。


 その言葉が、透の胸に刺さった。


 王国は、自分だけを落としたわけではない。


 この奈落には、他にも捨てられた者たちがいる。


 子どもは小瓶を返そうとした。


「ありがとう。もう行く。長くいると、追いかけてくる」


「何が?」


 子どもは答えなかった。


 代わりに、遠くから音が聞こえた。


 ずる、ずる。


 湿った肉が石を這う音。


 喰屍。


 透の足首に、あの歯の感触が蘇る。


 子どもは青ざめた。


「匂い、追われてる」


 リィンが扉の封を強める。


 青い光が揺れた。


 透は子どもを見た。


 扉を閉めれば、この部屋は守れる。


 子どもを外に残せば、喰屍はそちらへ向かうかもしれない。


 そうすれば、自分たちは助かる可能性が高い。


 理屈ではそうだ。


 だが、透の手は扉を閉めなかった。


「入れ」


 リィンが息を呑む。


 子どもも目を見開いた。


「でも」


「静かに入れ。すぐ閉める」


「トオル、喰屍が近い」


「わかってる」


 リィンは一瞬だけ透を見た。


 止めるかと思った。


 だが、彼女は扉の封を外ではなく、内側へ折り込むように動かした。


「入ったら、私が閉じる。トオルは隙間を守って」


「助かる」


「無茶。でも、見捨てる顔じゃなかった」


「顔に出すぎだな、俺」


「かなり」


 子どもは迷った末、隙間から保守室へ滑り込んだ。


 その直後、闇の奥から黒い肉の縄が飛んでくる。


 透は右腕を突き出した。


 黒鎖が鳴る。


 灰糸が伸びる。


「喰屍の先端、歯の根だけ削る!」


 灰が肉へ食い込む。


 以前よりも細く、鋭く、狙った場所だけを削る。肉そのものを全部喰おうとはしない。表面に並ぶ歯の根だけを削り、絡みつく力を奪う。


 肉の縄が怯んだ。


「リィン!」


「閉じる!」


 青い光が扉を包む。


 重い扉が閉まり、閂が落ちた。


 直後、外から喰屍がぶつかった。


 扉が震える。


 壁の刻印が明滅する。


 透は扉に手を当て、灰を広げかけた。


 喰屍を喰えば、力になる。


 だが、扉まで喰うな。刻印まで喰うな。部屋を壊すな。


 リィンの青い封印が、透の灰を内側から押さえた。


 強くはない。


 けれど、確かに留め具になっている。


 透は息を合わせた。


「扉に食い込んだ肉だけ削る」


「私が刻印を守る。灰を右に流しすぎないで」


「注文が細かい」


「必要だから」


「了解」


 灰と青い光が、扉の上で交差した。


 外の喰屍が何度も体をぶつける。扉が軋む。閂が悲鳴を上げる。


 それでも、刻印は消えなかった。


 透は扉に食い込んだ肉だけを削り、リィンは封印で扉を押さえる。二人の力が噛み合うたび、喰屍の侵入はわずかに遅れた。


 やがて、外の音が少しずつ遠ざかっていった。


 完全に諦めたわけではないだろう。


 だが、今は去った。


 透は扉から手を離し、その場に座り込んだ。


「……入れたの、正解だったか?」


 子どもは部屋の隅で小さくなっていた。


 水の小瓶を抱え、震えている。


 リィンは扉の封を確認してから、静かに答えた。


「危なかった。でも、まだ生きてる」


「じゃあ、正解寄りだな」


「少しだけ」


 透は子どもの方を見る。


「名前は?」


 子どもは怯えた目で透を見返した。


 答えるまでに、少し時間がかかった。


「……ルカ」


「ルカか。俺は透。こっちはリィン」


「知ってる。鍵のひと」


「リィンでいい」


 リィンが静かに言った。


 ルカは不思議そうに彼女を見る。


「鍵じゃないの?」


「そう呼ばれるのは、あまり好きじゃない」


「じゃあ、リィン」


 ルカは素直に言い直した。


 リィンの表情が少しだけ和らぐ。


 透はルカの腕にある黒い痣を見た。


「その呪い、どこで受けた?」


 ルカは小瓶を握りしめる。


「灰置き場。みんな、少しずつこうなる。上に戻ろうとすると、もっと濃くなる」


「上に戻ろうとすると?」


「奈落が、離してくれないから」


 ルカは扉の向こうを怯えたように見る。


「でも、あなたの灰なら、少し薄くできるかもしれないって言われた。だから探してた。灰を喰べる人を」


 透はリィンを見る。


 リィンの顔も険しかった。


 捨てられた者たち。

 灰置き場。

 上に戻ろうとすると濃くなる呪い。

 そして、灰を喰べる人を探していたルカ。


 道が、変わり始めている。


 ただ昇降坑を目指すだけでは済まないかもしれない。


 だが、透は不思議と嫌ではなかった。


 奈落には、自分以外にも捨てられた者がいる。


 それを知ってしまった。


 なら、見なかったことにはできない。


 透は右腕の黒鎖を握った。


「ルカ。灰置き場まで案内できるか」


 ルカは怯えながらも、こくりと頷いた。


「道は、知ってる。でも、危ない」


「安全な道なんてなさそうだからな」


 リィンが地図を見た。


「灰置き場は、もともと行く予定だった。ルカが道を知っているなら、少しだけ可能性が上がる」


「少しだけか」


「奈落では、それで十分」


 透は笑った。


 ルカは二人のやり取りを、不思議そうに見ていた。


 保守室の青い光の中に、三つ目の影が増えた。


 捨てられた少年。

 封印の鍵だった少女。

 灰置き場から来た、呪われた子ども。


 扉の外では、まだ喰屍が遠くを這う音がする。


 それでも透は、初めてこの奈落に誰かの息が残っていることを知った。


 この底には、魔物だけではない。


 見捨てられた者たちが、まだ生きている。


 ならば、灰喰いが喰うべきものは、きっと死骸だけではない。


 捨てられた者たちを縛る呪い。


 帰る道を塞ぐ嘘。


 そういうものも、いつか削れるはずだった。


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