第10話 灰だまりの炉
灰置き場の者たちは、透たちを囲んだまま動かなかった。
敵意だけではない。
恐れ。疑い。期待しかけて、すぐにそれを押し殺すような目。
その全部が、灰色の炉の明かりに照らされている。
透はルカの腕から手を離し、自分の右手を見た。
黒い痣を削った感触が、まだ指先に残っていた。肉を喰ったわけではない。血を奪ったわけでもない。ただ、皮膚の表面に絡んでいた呪いだけを薄く削った。
それでも、胸の奥には重いものが落ちていた。
奈落縛り。
リィンがそう呼んだ呪いは、ただの呪詛ではなかった。引き剥がそうとした瞬間、透の灰にしがみついてきた。上へ行くな、戻るな、ここで腐れ、と何度も囁いてきた。
ルカの腕にあるのは、その表面だけだ。
この灰置き場にいる者たちの体には、もっと深くまで食い込んでいる。
ガルドは白く濁った片目で、じっと透を見ていた。
「ルカの呪いを薄めた」
「ああ」
「なぜ、全部取らない」
「取ろうとしたら、ルカの方まで削る」
透は正直に答えた。
「今の俺には、呪いとルカ自身の境目が全部は見えない。無理にやれば、たぶん壊す」
周囲がざわめいた。
ガルドの表情は変わらない。
「できないことを、できないと言う灰喰いは初めて見る」
「他の灰喰いを知ってるのか」
「知らん。だが、昔の記録は残っている。灰喰いは、終わったものを喰う。死骸を喰う。呪いを喰う。ついでに、周りのものまで喰う。そう聞かされてきた」
「間違ってない」
透は右腕の黒鎖を軽く握った。
「でも、全部じゃない」
リィンが隣に立つ。
彼女の手首には、青い刻印が薄く浮かんでいた。灰置き場の者たちの視線は、透と同じくらいリィンにも向けられている。
鍵。
青い棺。
奈落の底を閉じていた者。
彼らが何を知っているのか、透にはまだわからない。
だが、リィンがその視線に耐えているのはわかった。
ルカが、そっとリィンの近くに寄る。
「リィン、痛い?」
「私?」
「みんな、見てるから」
リィンは少しだけ瞬きをした。
それから、小さく答える。
「少し。でも、棺の中よりはいい」
「それ、いいこと?」
「たぶん。比べるものが悪いけど」
ルカは困ったような顔をした。
透は思わず口元を緩めかけたが、ガルドの視線に気づいて表情を戻した。
「灰だまりの人たちは、全員その呪いを受けてるのか」
「濃さは違う」
ガルドは自分の灰の義手を持ち上げた。
義手と言っても、普通の義手ではない。灰と骨と金属片を練り合わせ、無理やり腕の形に固めたものだ。動くたび、細かな灰が床に落ちる。
「ここに長くいるほど濃くなる。上へ近づこうとすれば、さらに濃くなる。ひどい者は、自分の名を忘れる」
「灰の川みたいなものか」
「似ている。だが、川は流すだけだ。こいつは、絡む」
ガルドは炉を見た。
灰色の炎が、音もなく揺れている。
「俺たちは、あの炉で呪いを焼いている。だが、焼けるのは表だけだ。奥に食い込んだものは残る。だから、ここから出られない」
「ずっとか」
「ずっとだ」
短い答えだった。
その言葉には、長い時間が詰まっていた。
透は灰置き場を見渡した。
小屋の陰から、何人もの目がこちらを見ている。子どももいた。老人もいた。人間に見える者もいれば、魔物と人間の境目に立たされているような者もいる。
彼らは、まだ生きている。
だが、ここに縛られている。
透は右腕の手甲に意識を向けた。
ルカの呪いを削った時、灰は少しだけ変わった。呪いを喰った分、体の奥が冷たく強張っている。だが同時に、皮膚の下を流れる何かが太くなった感覚があった。
力が増えた、という単純なものではない。
指がよく動く。
呼吸が深く入る。
通路の奥の音が、前よりはっきり聞こえる。
右腕に残っていた熱も、少しずつ体の中へ散っている。
喰ったものが、透の体を作り替えている。
魔物の灰を喰った時は、獣じみた反応が残った。
骸骨兵の核を喰った時は、関節の動きや武器の軌道が少し読めるようになった。
番兵の刻印を削った時は、灰路の流れを感じ取れるようになった。
そして今、呪いを喰ったことで、奈落縛りの気配が皮膚の下で見分けられるようになっている。
強くなりたい。
その思いはある。
だが、ただ力が欲しいのとは違った。
次に喰屍が来た時、逃げ遅れない足がいる。
誰かの呪いを削る時、壊さずに済む指がいる。
扉を開ける腕がいる。
突き落とされた時のように、押さえつけられたまま終わらない体がいる。
透はガルドを見た。
「この炉を見せてくれ」
灰置き場が静まり返った。
ガルドの灰の義手が、低く軋む。
「何をするつもりだ」
「呪いを焼いてるんだろ。なら、その灰がある。俺なら、そこから何か読めるかもしれない」
「喰うつもりか」
「必要なら、少しだけ」
「少しだけ、で済むのか」
ガルドの声には、明確な警戒があった。
透は答える前に、リィンを見た。
「止めてくれるか」
「そのつもり。危ないと思ったら、すぐ締める」
「優しめで?」
「今はなし」
「だよな」
透はガルドへ向き直った。
「俺一人なら危ない。だから、リィンに止めてもらう。ルカの時もそうした」
ガルドはリィンを見る。
「青い鍵。お前は、その灰喰いを止められるのか」
リィンは少しだけ眉を動かした。
「名前で呼んで」
ガルドは黙った。
灰置き場の空気がぴんと張る。
リィンは怯えたようには見えなかった。青い刻印を手首に浮かべたまま、ガルドをまっすぐ見ている。
「私はリィン。鍵だったけど、鍵だけじゃない」
ガルドの片目が細くなる。
「……リィン。お前は、透を止められるのか」
「止める。力で全部止められなくても、名前を呼ぶ。それで足りなければ、封を打つ」
「甘いな」
「甘いかもしれない。でも、棺よりはまし」
リィンの声は静かだった。
ガルドはしばらく彼女を見ていた。
やがて、灰の義手を下ろす。
「炉に近づくことは許す。だが、妙な真似をすれば叩き潰す」
「それでいい」
透は頷いた。
ルカが不安そうに袖を引く。
「炉の灰、喰べると苦しいよ」
「知ってるのか」
「みんな、少しずつ吸ってる。だから、ここにいる人はみんな咳をする」
言われてみれば、灰置き場の者たちは時折小さく咳き込んでいた。炉から出る煙はほとんど見えない。だが、呪いを焼いた灰が空気に混ざっているのだろう。
透は灰筒を取り出した。
武装庫から持ち出した、灰を蓄えるための筒だ。
「直接喰わない。まずこれに入れる」
リィンが頷く。
「それがいい。体に入れる前に、どれだけ濁っているか見られる」
「便利だな、この筒」
「便利なものほど、扱いに気をつけて」
「はいはい」
「一回だけ」
「はい」
リィンは少し満足そうにした。
灰置き場の中央にある炉へ近づく。
炉は石で組まれていた。
だが、その石は普通の石ではない。表面に無数の名前が刻まれている。読めるものもあれば、削れて読めないものもある。文字の上には黒い灰が積もり、一部は炉の熱で赤黒く変色していた。
透は足を止める。
「これは……」
ガルドが低く言う。
「ここで死んだ者の名だ。名を忘れないように刻む。忘れた者の名も、誰かが覚えていれば刻む」
「そうか」
透は炉に向かって、小さく頭を下げた。
その動作を見て、灰置き場の何人かが目を見開いた。
ガルドも何も言わなかった。
炉の中では、灰色の炎が燃えていた。
炎の中に、黒い糸のようなものが見える。あれが奈落縛りの表層を焼いた残りなのだろう。燃えているのに、消えない。灰になりながら、まだ誰かを縛ろうとしている。
透は灰筒の蓋を開けた。
右腕の黒鎖に灰を流す。
喰うものを名付ける。
「炉に残った奈落縛りの灰だけ、筒に移す」
灰糸が伸びた。
炉の中へ入る。
瞬間、透の耳元で声が弾けた。
戻るな。
出るな。
忘れろ。
灰になれ。
名を捨てろ。
名を捨てろ。
名を捨てろ。
透は歯を食いしばる。
喰っていない。
まだ筒へ移しているだけだ。
それなのに、声が頭の奥へ入り込もうとする。
リィンの青い光が、黒鎖を通じて手首に届いた。
「トオル。名前」
「篠宮透」
「もう一つ」
「……透」
「誰が呼んだ?」
「リィン。ルカ。俺自身」
「戻って」
その声で、意識が少し戻った。
灰糸は炉の底から黒い灰だけを掬い上げ、灰筒へ流し込んでいた。筒の表面に細かな文字が浮かび、濁った灰を押さえ込む。
だが、炉の奥にはもっと深い灰があった。
黒い層。
何年も何十年も焼かれ続け、それでも消えなかった呪いの塊。
透の灰が、それを見つけてしまう。
喰えば、わかる。
この呪いの作り方も、ほどき方も、上へ戻ろうとした者たちがどこで倒れたのかも。
そして、きっと体も変わる。
奈落縛りに耐える体へ。
灰の川を見ても揺らぎにくい目へ。
呪いの声を聞き分ける耳へ。
必要だ。
そう思った瞬間、灰糸が炉の奥へ伸びかけた。
黒鎖が締まる。
リィンではない。
ガルドの灰の義手だった。
いつの間にか、彼は透の右腕を掴んでいた。灰でできた義手が、手甲ごと透の腕を押さえている。
「そこは駄目だ」
ガルドの声は低かった。
「そこには、俺たちの死に残りがある。勝手に喰わせるわけにはいかん」
透は荒く息を吐いた。
灰糸を引き戻す。
炉の奥へ伸びかけていた灰が、黒鎖と青い封印に締められ、ようやく止まった。
「……悪い」
「謝るなら、まだ人だ」
ガルドは腕を離した。
透は灰筒の蓋を閉める。
手の中の筒は、ずしりと重かった。物理的な重さだけではない。中に詰めた灰の声が、筒越しにも響いてくる。
リィンが透の顔を覗き込む。
「喰べた?」
「まだ。少し、入りかけたけど」
「顔色が悪い」
「元からだ」
「さっきより悪い」
「じゃあ、悪いんだろうな」
ルカが心配そうに近づいてきた。
「その灰、どうするの?」
「少しずつ調べる。今ここで喰ったら、たぶんまずい」
「まずいって、どれくらい?」
「リィンに本気で止められるくらい」
「それは、かなりだね」
ルカの言い方が妙に真剣で、透は少しだけ笑った。
ガルドが灰置き場の者たちへ目を向ける。
「今のを見ただろ。こいつは危うい。だが、喰い尽くしはしなかった」
周囲の者たちは黙っていた。
「ルカの呪いは薄くなった。炉の灰も、表だけ取った。少なくとも、今すぐ敵と決める理由はない」
老婆が炉のそばから声を上げた。
「それで、信用しろと?」
「信用しろとは言っていない」
ガルドは透を見た。
「使えるかもしれない、という話だ」
「道具扱いか」
透が言うと、ガルドは鼻で笑った。
「ここでは、役に立つことが一番安全だ。腹を立てるな」
「立ててない。わかりやすいと思っただけだ」
「ならいい」
リィンが少しだけ眉を寄せた。
「でも、道具じゃない」
ガルドの視線がリィンへ向く。
リィンは静かに続けた。
「透も、ここにいる人たちも、道具じゃない。役に立つかどうかで生きていていいか決めるのは、私は嫌い」
灰置き場がまた静かになった。
ガルドはリィンを見つめる。
しばらくして、彼は低く息を吐いた。
「青い棺に入れられていた者の言葉は、重いな」
「重くしたいわけじゃない」
「だが、重い」
ガルドは灰の義手を下げた。
「悪かった。言い方を変える。透、お前に頼みたいことがある」
透は少しだけ目を細めた。
「何だ」
「灰置き場の奥に、古い灰道がある。そこを塞いでいる呪いの塊を削ってほしい」
「上へ行く道か?」
「違う。下へ続く道だ」
「下?」
透の胸の奥が、嫌な脈を打った。
ガルドは炉の向こう、灰置き場の奥にある暗い穴を指した。
「あの先に、古い貯蔵庫がある。水、薬、装具、記録。昔はここにも残っていた。だが、奈落縛りが濃くなってから誰も入れない」
「そこに物資があるかもしれないのか」
「残っていればな」
「なぜ今まで取りに行かなかった」
ガルドの灰の義手が、ぎしりと鳴った。
「行った者は戻った。だが、自分の名前を言えなくなっていた」
透は奥の穴を見る。
暗い。
そこから、冷たい灰の匂いが流れている。
リィンが地図を取り出した。
「その貯蔵庫、昇降坑へ向かう道にも繋がってるかもしれない」
「本当か?」
「断片だけど、線が重なる。灰道を抜ければ、浄水室を経由しないで上層側へ近づける可能性がある」
ガルドが片目を細めた。
「青い……リィン。読めるのか」
「全部じゃない。でも、道は見える」
「なら、頼む理由が増えたな」
透は灰筒を握った。
炉の灰を調べる。
奈落縛りの表面だけを削る。
貯蔵庫への道を開く。
物資を確保する。
昇降坑へ近づく。
必要なことは見えている。
問題は、体がついてくるかだ。
透は自分の手を開いた。
指先が震えていた。
疲労だけではない。炉の灰に触れたせいで、体の奥がざわついている。喰えば、たぶん変わる。けれど、変わり方を間違えれば、戻れなくなる。
今は、急ぐべきではない。
「すぐには無理だ」
透が言うと、ガルドは少し意外そうにした。
「怖じ気づいたか」
「そうだ」
透は即答した。
「怖いから準備する。炉の灰を調べて、リィンに封印を見てもらって、ルカから道を聞く。俺の手甲も直さないと危ない」
ガルドは透を見ていた。
やがて、喉の奥で短く笑った。
「怖いと言えるやつの方が、奈落では長く持つ」
「リィンにも同じこと言われた」
「なら、その娘はよくわかっている」
リィンは少しだけ得意そうに見えた。
ルカがそっと言う。
「休む場所、あるよ。狭いけど、喰屍は入ってこない」
「助かる」
「でも、灰の咳が出るかも」
「それは助からないな」
「ごめん」
「ルカが謝ることじゃない」
透たちは、灰置き場の端にある小屋へ案内された。
石と骨を組み合わせた小さな場所だった。天井は低く、床には乾いた灰が薄く積もっている。だが、外よりはずっと落ち着いていた。壁には簡単な魔物避けの印が刻まれている。
透は腰を下ろした瞬間、自分の体の変化に気づいた。
痛みはある。
だが、番兵と戦った直後より動ける。ルカの呪いと炉の灰に触れたせいで、体の内側に新しい筋が通ったような感覚があった。骨の芯が重く、筋肉が熱い。
膂力が上がったのかもしれない。
いや、単に力が増えたというより、体が灰を支える形に作り替わっている。
透は床に置かれた石片を手に取った。
少し力を込める。
石片にひびが入った。
「……え?」
自分で驚いた。
石片は脆くはなかった。さっきまでなら、両手で力を込めても割れなかっただろう。それが、右手だけで割れた。
リィンが透の手元を見る。
「変わってる」
「俺の体か?」
「たぶん。灰を喰べるたびに、器が灰に合わせて作り替わってる」
「器」
「体のこと。灰をたくさん通すには、普通の体だと壊れる。だから、灰が勝手に補強してるんだと思う」
「勝手に、か」
透は割れた石片を見つめた。
便利だとは思えなかった。
自分の体が、自分の知らないところで変わっていく。それは力になる。だが、同時に怖い。
「人間じゃなくなるのか?」
問いは、思ったより静かに出た。
リィンはすぐには答えなかった。
ルカも黙っている。
小屋の外では、灰置き場の者たちの低い声が聞こえた。炉の音はない。炎は燃えているのに、音を立てない。
やがて、リィンが言った。
「変わると思う」
透は彼女を見る。
リィンは嘘を言わなかった。
「でも、変わったら人間じゃない、とは私は思わない。私は変えられた。でも、リィンって呼ばれてる」
「それは……そうだな」
「トオルが自分で決めて、自分の名前を覚えていて、誰かを全部喰べないように止まれるなら、まだトオルだと思う」
「条件が多いな」
「大事だから」
透は息を吐いた。
「じゃあ、覚えとく。俺が俺でいる条件」
「忘れたら、呼ぶ」
「頼む」
ルカが小さく手を上げた。
「ぼくも、呼ぶ」
「助かる」
「でも、間違えてシノミヤって呼ぶかも」
「それでもいい」
「トオルの方が呼びやすい」
「ならそっちで」
ルカは少しだけ笑った。
本当に少しだけだったが、初めて子どもらしい表情に見えた。
透は灰筒を床に置いた。
中の灰はまだ囁いている。
だが、今すぐ喰う必要はない。
必要な時に、必要な分だけ。
そのために準備する。
透は右腕の黒鎖を撫でた。
強くなる。
それは、誰かを見下ろすためではない。
この体で歩くためだ。
この腕で扉を開くためだ。
ここにいる者たちの呪いを削っても、自分まで崩れないためだ。
小屋の入口に、ガルドが立った。
「休め。灰道へ行くなら、炉の灰に慣れてからだ」
「慣れる方法は?」
「吸うな。喰うな。まずは近くで眠れ」
「それ、慣れるって言うのか?」
「ここではそう言う」
透は苦笑した。
リィンが小さく言う。
「寝る前に、手甲を見る。灰路がまた熱を持ってる」
「わかった」
「あと、石を握り潰すのは禁止」
「今のは事故だ」
「次からは事故じゃない」
「厳しい」
「必要だから」
灰置き場の炉が、遠くで静かに揺れている。
捨てられた者たちの名を刻んだ炉。
奈落縛りを焼き続ける灰。
その奥に閉ざされた、古い灰道。
透は壁にもたれ、目を閉じた。
体の奥で、灰がゆっくりと沈んでいく。
眠りに落ちる寸前、彼は自分の手の中に残った石片の感触を思い出した。
たった少し力を入れただけで、割れた。
なら、次に誰かに腕を掴まれた時。
次に枷をはめられた時。
次に、落とされろと言われた時。
その手を、枷を、言葉ごと、振りほどけるかもしれない。
それだけで、今は十分だった。




