第11話 灰道の息
眠りは浅かった。
目を閉じている間も、炉の灰が呼吸する気配だけは消えなかった。灰置き場の中央にある炉。名を刻まれた石。焼かれ続ける奈落縛り。そのすべてが、壁越しに透の胸の奥へ染み込んでくる。
喰え、とは言わない。
ただ、そこにある。
終わりきれずに残ったものが、静かに積もっている。
透は目を開けた。
小屋の天井は低く、灰と煤で黒ずんでいる。壁の隙間から灰色の光が漏れ、床に細い線を落としていた。
右腕が重い。
灰殻の手甲と黒鎖をつけたまま眠ったせいもある。だが、それだけではなかった。腕の内側、骨と筋の間に、何か硬い芯が一本通ったような感覚がある。
透はゆっくり指を動かした。
違和感はある。
だが、痛みではない。
むしろ、昨日までより動く。
握る。開く。手首を回す。肩を動かす。番兵との戦いで焼けるように痛んでいた灰路の熱は、まだ残っている。けれど、右腕そのものがその熱に耐える形へ変わり始めているようだった。
「起きた?」
横から声がした。
リィンが膝を抱えて座っていた。眠っていないわけではないだろうが、透より先に起きていたらしい。青い瞳は少し眠たげで、それでもこちらを見ている。
「おはよう、でいいのか」
「ここでも、それでいいと思う」
「じゃあ、おはよう」
「おはよう、トオル」
小さな挨拶。
それだけで、胸の奥の灰が少し静かになる。
透は上体を起こそうとして、体が思ったより軽いことに気づいた。
いや、軽いのではない。
自分の体を支える力が増えている。
脇腹の傷はまだ塞がっているだけだ。背中も痛む。左腕には黒く焼けたような痕が残っている。なのに、体を起こす動作そのものは昨日よりずっと楽だった。
「……変だな」
「体?」
「ああ。痛いのに動ける」
リィンは頷いた。
「灰が、体の弱いところを補ってる。傷を治すだけじゃなくて、灰を通しても壊れにくいように作り替えてるんだと思う」
「それ、放っておいて大丈夫なやつか?」
「大丈夫とは言えない。でも、止めすぎても危ない。灰を喰べる体なのに、器が弱いままだと中から裂ける」
「どっちにしても物騒だな」
「奈落だから」
「便利な言葉になってるぞ、それ」
リィンは少しだけ目を伏せた。
「でも、本当」
「わかってる」
透は自分の胸に手を当てた。
心臓の鼓動は普通より少し遅い。だが、一拍ごとに深く重く鳴っている。血の中に、灰が混じっているような感覚があった。
人間のままなのか。
その問いは、まだ喉の奥に残っている。
けれど、今は答えを出す時ではない。
扉を開ける腕がいる。
走る足がいる。
呪いを削っても崩れない体がいる。
透は立ち上がった。
その動きに、リィンが眉を寄せる。
「ゆっくり」
「ゆっくり立った」
「トオルのゆっくりは、少し信用できない」
「厳しいな」
「昨日、石を握り潰したから」
「あれは事故だ」
「今日は事故にしないで」
「努力する」
小屋の入口の布が揺れた。
ルカが顔を出す。
片目を覆う布は昨日と同じだが、腕の黒い痣は少しだけ薄いままだった。完全には消えていない。それでも、手首のあたりに皮膚の色が戻っている。
「起きた?」
「ああ」
「ガルドが呼んでる。灰道に行く前に、試したいことがあるって」
「試す?」
「トオルが、どれくらい動けるか」
透はリィンを見た。
リィンは静かに頷く。
「見ておいた方がいい。体が変わっているなら、感覚もずれてる」
「ずれてると?」
「力を入れすぎて、物を壊す。足を踏み出しすぎて、壁にぶつかる。誰かの手を握って、折る」
「最後が一番嫌だな」
「だから試す」
透は息を吐いた。
「わかった」
小屋を出ると、灰置き場の空気が肺に入った。
重い。
炉の灰を吸い込むたび、喉の奥が少しだけ焼ける。周囲の者たちが咳き込む理由がわかった。これはただの煙ではない。焼ききれなかった呪いの粉が、空気に混ざっている。
だが、昨日よりは耐えられる。
喉は痛むが、体が拒絶していない。
むしろ、皮膚の下の灰がその濁りを選り分けている。吸うべきではないものを、喉や肺の表面で薄く削り、体の奥へ入り込む前に押し返している。
自分の体なのに、知らない働きをしている。
透は拳を握りすぎないように注意した。
灰置き場の中央では、ガルドが待っていた。
片腕を失った大柄な男。灰で固めた義手。白く濁った片目。彼の周囲には、何人かの住人が集まっている。興味本位というより、危険な獣を見る時の距離感だった。
ガルドは透を見るなり、床に置いてあった錆びた鉄塊を顎で示した。
「持て」
「これを?」
「持てるならな」
鉄塊は、透の膝ほどの大きさがあった。元は扉の部品か、炉の一部だったのかもしれない。表面は黒く焼け、ところどころに赤茶けた錆が浮いている。
普通なら、持ち上げるどころか動かすのも難しそうだった。
透はしゃがみ込む。
リィンがすぐに言った。
「灰で喰べないで。力だけで」
「わかってる」
透は鉄塊の下に指をかけた。
重い。
だが、持てないほどではない。
そう思った瞬間、透は自分で驚いた。
持てないほどではない。
この大きさの鉄を前にして、最初に出てきた感覚がそれだった。
透は息を整え、足に力を入れる。
床の灰がわずかに沈む。
鉄塊が持ち上がった。
周囲がざわめく。
透は鉄塊を胸の高さまで上げ、そこで止めた。腕が震える。だが、限界ではない。腰も潰れない。肩も外れない。
重いものを持っている感覚はある。
けれど、体の奥から灰が骨と筋を支え、関節を守っている。
「……持てた」
自分の声が、少し遅れて出た。
ガルドの片目が細くなる。
「落とすなよ」
「先に言え」
「今言った」
透はゆっくり鉄塊を下ろした。
どん、と低い音が響く。
手を見る。
指は折れていない。爪も剥がれていない。少し痺れているだけだ。
ルカがぽかんと口を開けていた。
「それ、三人で動かすやつ」
「先に言ってほしかった」
「持つと思わなかった」
リィンは透の腕に触れた。
手甲の隙間から、灰色の筋が薄く浮かんでいる。血管のようにも、刻印のようにも見えた。
「やっぱり、膂力が上がってる。灰が筋と骨を補強してる」
「どれくらい?」
「今のは、普通の人間では無理だと思う」
「普通じゃなくなってるってことか」
リィンは透の顔を見た。
「嫌?」
「怖い」
「うん」
「でも、助かる」
「それも、うん」
透は息を吐いた。
ガルドが今度は床に長い棒を投げた。
金属の棒だった。先端には布が巻かれている。訓練用らしいが、当たれば普通に痛そうだ。
「次は反応を見る」
「殴る気か」
「避けろ」
「わかりやすいな」
「複雑なことをするほど信用してない」
「正直で助かる」
ガルドは灰の義手ではない方の手で棒を握った。
大柄な体に似合わず、構えは静かだった。
透も身構える。
武器は抜かない。灰も出さない。体だけでどこまで動けるかを見る。
リィンが少し離れた場所から言う。
「無理に受けないで。避けるだけ」
「了解」
「あと、床を蹴りすぎないで」
「どうなる?」
「たぶん滑るか、跳びすぎる」
「難しいな」
ガルドが踏み込んだ。
速い。
片腕の男だとは思えない。棒が横から迫る。
透は反射的に後ろへ下がった。
下がりすぎた。
体が思ったより軽く動き、足が床を強く蹴った。後方へ一気に跳び、背中が小屋の壁に当たりかける。
「っ」
透は壁に手をついて止まった。
木と骨で組まれた壁が、みしりと音を立てる。
ルカが叫ぶ。
「壊れる!」
「悪い!」
透は慌てて手を離した。
壁に指の跡が残っていた。
ガルドが低く笑う。
「力に振り回されているな」
「見ればわかる」
「なら直せ」
すぐに二撃目。
今度は上から。
透は横へ動く。小さく。必要な分だけ。
棒が肩のすぐ横を通った。
風が頬を打つ。
見える。
いや、見えているだけではない。
ガルドの肩の動き。足の踏み込み。棒が来る角度。骸骨兵の武器を見た時と似ているが、もっと生きた動きだった。
昨日までなら避けられなかったかもしれない。
今は、間に合う。
三撃目。
透は半歩だけ下がる。
棒の先が服を掠めた。
四撃目。
膝を沈める。
頭上を通る。
五撃目。
避けきれない。
透は腕で受けかけ、寸前で思い出した。
灰は使わない。
体だけ。
肩を捻り、棒の軌道から外れる。
布を巻いた先端が胸当てを叩いた。
衝撃。
だが、倒れない。
足が床を掴み、体の奥で灰が衝撃を散らした。痛いが、骨には響いていない。
ガルドが棒を止めた。
「十分だ」
「こっちは十分じゃない」
「息が切れていない」
言われて、透は気づいた。
心臓は速く打っている。だが、呼吸はまだ乱れていない。足も動く。昨日なら、数回避けただけで傷が開いていただろう。
灰が体を変えている。
確かに。
透は自分の足元を見る。
床の灰に、深い足跡がついていた。
ガルドは棒を肩に担ぐ。
「その体なら、灰道の入口までは持つ」
「奥は?」
「知らん。だから準備する」
「正直すぎるだろ」
「嘘をついても奈落は甘くならん」
リィンが近づき、透の胸当ての位置を直した。
「動きが大きい。力を入れる前に、どこまで動くか考えて」
「戦ってる時に考える余裕あるか?」
「最初はない。でも、何度もやれば体が覚える」
「訓練か」
「必要」
ルカが小さく手を上げた。
「灰だまりの子は、みんな最初にそれやる。力が変わる人、多いから」
「そうなのか?」
「うん。腕が骨になる人とか、目が赤くなる人とか、足が速くなる人とか。でも、慣れないと転ぶ」
「転ぶだけで済めばいいな」
「壁に刺さった人もいる」
「嫌な実例をありがとう」
ルカは少しだけ誇らしげだった。
透は肩を回しながら、炉の方を見る。
灰道へ向かう準備は始まっていた。
灰置き場の者たちが、古い布や骨の杭、濁った水の入った瓶を集めている。ガルドが指示を飛ばし、動ける者たちがそれに従う。こちらを信用したわけではない。だが、貯蔵庫への道が開くかもしれないという期待が、彼らを動かしていた。
老婆が透の前にやってきた。
深く皺の刻まれた顔。片目は閉じており、首元には小さな骨片を繋げた飾りを下げている。
「灰喰い」
声は掠れていた。
「透でいい」
「なら、透。手を出しな」
透は少し迷い、右手を差し出した。
老婆は骨片の飾りから一つを外し、透の手に置いた。
それは小さな骨の札だった。
表面に、細い傷で名前が刻まれている。
「これは?」
「昔、灰道へ入って戻らなかった子の名だ。持っていきな」
「なぜ俺に」
「お前が炉の前で頭を下げたからだ」
老婆は透を見上げる。
「喰うなよ」
「喰わない」
「忘れるな」
「……わかった」
透は骨の札を布に包み、懐へ入れた。
名前。
奈落で失われやすいもの。
灰の川も、奈落縛りも、それを奪おうとする。なら、持っていく意味はあるのかもしれない。
リィンが小さく言った。
「名札は、灰道で道標になるかもしれない」
「そんな効果が?」
「名前を覚えているものは、流されにくい」
「なら、大事だな」
「とても」
透は懐を押さえた。
そこに小さな骨の硬さがある。
知らない誰かの名前。
けれど、それは確かに重かった。
ガルドが灰道の入口へ向かう。
灰置き場の奥、炉のさらに向こうに、黒い穴が開いていた。穴の周囲には古い封印文字が刻まれているが、その多くは黒く焼け、読めなくなっている。中からは冷たい風が吹いていた。
風には声が混ざっている。
名を置いていけ。
顔を置いていけ。
痛みを置いていけ。
上などない。
戻る場所などない。
透は一歩近づき、すぐに胸が悪くなった。
リィンが横に立つ。
「ここから先は、奈落縛りが濃い。トオルの灰でも、全部は喰べないで」
「全部喰ったら?」
「たぶん、ここにいる人たちの記憶まで巻き込む」
「最悪だな」
「だから、道を塞いでいる部分だけ。人に絡んだものは、後にする」
「道の呪いだけ削る」
「そう」
ガルドが透を見る。
「俺も行く」
「その腕で?」
「この腕だから行く。灰道の中で何かに掴まれても、こいつなら千切れる」
灰の義手が軋む。
透はガルドの体を見た。
強い。
この男は、おそらく地上でもかなり戦えたはずだ。片腕を失ってなお、動きに隙が少ない。さっきの棒の扱いも、ただの生存者のものではなかった。
「元は兵士か?」
透が聞くと、ガルドは鼻で笑った。
「王国の騎士だった」
空気が少し変わる。
透は黙った。
ガルドは灰道の入口を見たまま続ける。
「神殿の処分任務に逆らった。落とされた。よくある話だ」
「よくあってたまるか」
「ここでは、よくある」
ガルドの声は乾いていた。
「お前を落とした連中と同じ鎧を、俺も着ていた。だから信用しろとは言わん」
「信用するかどうかは、これから見る」
「それでいい」
ガルドは片目で透を見た。
「俺も、お前を見る」
「どうぞ」
「逃げるなら、早めに言え」
「逃げる時は走ってる」
「なら追えんな」
少しだけ、ガルドの口元が動いた。
リィンが地図を確認する。
「灰道を抜けると、貯蔵庫の前に出るはず。そこから左へ進む道が残っていれば、昇降坑側に近づける」
「右は?」
「記録だと、灰捨て穴。行かない方がいい」
「名前からして行きたくないな」
ルカが近づいてきた。
「ぼくも行く」
ガルドが即座に言う。
「駄目だ」
「道、知ってる」
「灰道は昨日より濃い。お前の呪いでは耐えられん」
「でも」
「駄目だ」
ルカは唇を噛んだ。
透はしゃがんで、ルカと目線を合わせる。
「ルカは、ここで待っててくれ」
「置いていくの?」
「戻る場所を覚えてる人が必要だ」
「戻る場所?」
「俺たちが帰ってきた時、ここだって言ってくれる人」
ルカは片目を揺らした。
「……名前を呼ぶみたいに?」
「ああ。迷ったら、呼んでくれ」
「トオル。リィン。ガルド」
「それでいい」
ルカは小さく頷いた。
「わかった。でも、遅かったら呼ぶ」
「頼む」
リィンがルカの手首に触れた。
青い刻印が一瞬だけ光る。
「簡単な封。呪いが濃くなったら、少しだけ知らせてくれる」
「痛くない」
「よかった」
「リィンも戻ってきて」
「戻る。トオルが無茶をするから」
「それは大変」
「かなり」
「本人の前で言うなよ」
透が言うと、ルカは少し笑った。
灰道へ入る準備が整った。
先頭はガルド。片手に骨の杭を持ち、灰の義手を前に出す。
中央にリィン。青い封印で周囲の刻印を読み取る。
最後に透。右腕の手甲と黒鎖に灰を通し、後方と足元を探る。
灰置き場の者たちが見守る中、三人は黒い穴へ足を踏み入れた。
空気が変わった。
一歩入っただけで、音が遠くなる。
炉の明かりも、灰置き場のざわめきも、ルカの小さな息遣いも、背後の膜に遮られたように薄れた。
代わりに、灰道の奥から声が来る。
名を置いていけ。
名を置いていけ。
名を置いていけ。
透は懐の骨札を握った。
知らない子の名前。
自分の名前。
リィンの名前。
ルカの名前。
ガルドの名前。
それらを一つずつ思い浮かべる。
右腕の黒鎖が、静かに鳴った。
リィンが振り返る。
「大丈夫?」
「今は」
「今は、でいい。駄目になる前に言って」
「努力する」
「努力じゃなくて、約束」
透は少しだけ息を吐いた。
「わかった。約束する」
ガルドが前から言う。
「足を止めるな。灰道は、立ち止まった者の足元から名を吸う」
「説明が遅い」
「今した」
「いつもそれだな」
透は足元を見ないようにした。
灰道の床は、黒い灰で覆われていた。踏むたびに沈み、足跡が残る。だが、少しすると足跡は内側から崩れ、誰が歩いた跡なのかわからなくなった。
ここに長くいるのは危ない。
透は灰糸を細く伸ばす。
道を塞ぐ呪いだけを探る。
人の残り香には触れない。
名前の欠片には触れない。
床の灰を喰わない。
ただ、進路を塞ぐ黒い棘だけを見る。
やがて、前方に壁のようなものが現れた。
黒い灰が固まり、通路を塞いでいる。表面には無数の手形が浮かんでいた。手形は動いている。内側から押しているようにも、外へ出ようとしているようにも見えた。
ガルドが足を止める。
「ここだ」
リィンが青い刻印を浮かべる。
「奈落縛りが絡んでる。でも、人の名も混じってる」
「人の名を避けて、呪いだけ削る」
透は右腕を上げた。
体の奥で灰が目を覚ます。
昨日より太く、昨日より重い。
そして、昨日よりもいうことを聞く。
透は黒鎖を握る。
「道を塞ぐ奈落縛りだけ喰う」
灰糸が伸びた。
黒い壁に触れる。
声が爆ぜた。
戻るな。
出るな。
忘れろ。
ここで終われ。
上はお前を捨てた。
下がお前を受け入れる。
だから、沈め。
透は歯を食いしばった。
確かに、上は透を捨てた。
だが、下に沈む理由にはならない。
灰糸が黒い棘を削る。
壁の手形が蠢いた。
その中に、小さな手形があった。
子どものもの。
透の懐の骨札が熱を持つ。
名前が浮かぶ。
読めないはずなのに、灰の中でその名が震えた。
ミナ。
それが、骨札に刻まれていた名だった。
透は灰糸を止めた。
危ない。
今のままだと、ミナの名まで削る。
リィンがすぐに気づいた。
「左の小さい手形は触らないで。そこは名前」
「見えた」
「なら避けて」
「やってる」
透は灰糸を細くする。
黒い棘だけを削る。手形には触れない。名前の周りに絡む奈落縛りだけを剥がす。
難しい。
だが、できないほどではない。
ルカの腕でやった時より、少しだけ境目が見える。炉の灰に触れたせいだ。灰道の空気に慣れ始めたせいもある。
喰ったものが、透の目と指を変えている。
ガルドが低く唸る。
「壁が薄くなっている」
「まだ押すな」
「わかっている」
「本当か?」
「俺を何だと思っている」
「怒鳴る役」
「間違ってはいない」
黒い壁に、細い亀裂が入った。
リィンの青い封印が亀裂へ流れ込み、名前の欠片を押さえる。透の灰が、その周囲の呪いだけを削る。
灰と青い光が絡む。
喰う力と、閉じる力。
透一人なら広がりすぎる。リィン一人なら剥がしきれない。
二つが噛み合って、初めて壁がほどけていく。
亀裂が広がった。
向こう側から、冷たい空気が流れる。
ガルドが骨の杭を差し込み、壁を押さえた。
「開くぞ」
透は最後の黒い棘を削った。
壁が崩れる。
だが、崩れた灰は床に落ちず、いくつもの小さな光になって空中へ浮かんだ。
その中の一つが、透の懐の骨札へ吸い込まれる。
骨札の名前が、少しだけはっきりした気がした。
ミナ。
会ったことのない子ども。
灰道へ入り、戻れなかった誰か。
その名が、ほんの少しだけ灰から引き上げられた。
透は息を吐いた。
「……通れる」
壁の向こうには、古い扉があった。
半分崩れているが、まだ形を保っている。扉の上には、薄く文字が刻まれていた。
リィンが近づき、読んだ。
「灰置き場、貯蔵庫。浄水薬、封印布、灰導具、保存食……」
「保存食?」
透とガルドの声が重なった。
リィンは少しだけ驚いてから、頷いた。
「そう書いてある」
ガルドの顔が変わった。
それは、初めて見る表情だった。
希望。
だが、すぐに彼はそれを押し殺した。
「残っていれば、だ」
「奈落では大事な条件、だろ」
「わかってきたな」
透は扉に手をかける。
重い。
だが、開けられる。
以前なら動かせなかったかもしれない。今は、腕と背中と足が連動する。灰が骨を支え、筋が軋みながらも力を逃がさない。
透はゆっくり押した。
扉が開く。
冷たい空気と、古い乾いた匂い。
中には、棚が並んでいた。
崩れているものも多い。
だが、残っている箱もあった。
壺。布包み。金属筒。封印された水瓶。灰色の小袋。
ガルドが息を止めた。
リィンが小さく言う。
「残ってる」
透は扉を開けたまま、貯蔵庫の奥を見た。
暗闇の中で、何かが光った。
赤い光ではない。
青でもない。
白い、小さな灯。
それは棚の奥に置かれた、古い鏡から漏れていた。
鏡の表面には、灰が積もっている。
だが、そこに映っていたのは貯蔵庫ではなかった。
石造りの広間。
白い法衣の神官。
甲冑の兵士。
そして、眩しい光の中で剣を振るう、見覚えのある少年の姿。
相良迅。
透の呼吸が止まった。
リィンが隣で緊張する。
「トオル?」
鏡の中で、相良が笑っていた。
周囲には王国の騎士たちがいる。歓声が上がっている。訓練場らしい場所で、相良は光をまとった剣を振り、鎧を着た兵士を軽々と吹き飛ばしていた。
神官が満足げに頷く。
鏡越しに、声は聞こえない。
だが、光景だけでわかった。
地上は、進んでいる。
透を捨てた後も、何もなかったように。
透の右腕から、灰が漏れかけた。
黒鎖が締まる。
リィンの声が、すぐ横で響いた。
「名前」
透は奥歯を噛む。
「篠宮透」
「ここは?」
「奈落の灰道。貯蔵庫の前」
「誰がいる?」
「リィン。ガルド」
「何をする?」
透は鏡を睨んだ。
怒りがある。
悔しさもある。
だが、今ここで灰を暴れさせても何も変わらない。
鏡を壊せば、情報を失う。
透は息を吐いた。
「見る。壊さない。喰わない」
リィンの青い光が、少しだけ緩んだ。
ガルドが鏡を見る。
「あれが、お前を落とした連中か」
「あの中心にいるのが、勇者様だ」
自分で言って、声が少し歪んだ。
ガルドは鼻を鳴らす。
「よく光る。奈落では目立ってすぐ死ぬな」
透は一瞬、言葉を失った。
それから、少しだけ笑った。
「そうだな」
怒りが消えたわけではない。
だが、灰に呑まれるほどではなくなった。
鏡の中の相良は、確かに強く見えた。
けれど、透の頭に浮かんだのは、番兵の斧、喰屍の肉、灰の川、奈落縛りの壁だった。
あの光が、ここでどれだけ持つのか。
そんなことを、ふと思った。
透は右手を下ろす。
「まず、物資を確認しよう」
リィンが頷く。
「その方がいい。鏡は後で調べる」
ガルドは貯蔵庫の中へ一歩踏み出した。
「保存食が本当に残っているなら、灰置き場の連中がしばらく持つ」
「水もあるなら、なおいい」
「ああ」
透はもう一度だけ鏡を見た。
地上の光景は、まだ揺れている。
自分を捨てた場所。
いつか戻る場所。
だが、今すぐではない。
この手で開けるべき扉は、まだ奈落にある。
透は灰筒を握り直し、貯蔵庫へ足を踏み入れた。
背後では、ほどけた奈落縛りの灰が静かに沈んでいた。
少しだけ、道が開いた。
それだけで、灰置き場の者たちの息は、昨日より長く続くかもしれなかった。




