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第12話 灰鏡の向こう

 貯蔵庫の中は、長い時間に押し潰されていた。


 棚の半分は崩れ、箱のいくつかは中身ごと灰になっている。床には黒ずんだ布や割れた瓶の破片が散らばり、壁際には何に使うのかわからない金属筒が何本も倒れていた。


 だが、すべてが失われているわけではなかった。


 リィンが青い刻印を手首に浮かべ、棚に残った封印を一つずつ確かめていく。透はその横で、壊れたものとまだ使えるものを分けた。


 重い水瓶を動かす時、透はまた自分の体の変化を思い知った。


 人の腰ほどもある石瓶だった。


 表面には乾いた封印布が巻かれ、持ち手らしいものもない。普通ならガルドと二人がかりで動かすべきものだろう。だが、透が両腕を回して持ち上げると、石瓶はあっさり床から離れた。


 軽くはない。


 重い。


 だが、持てる。


 その事実が、何より不気味だった。


「……まただ」


 透は石瓶を慎重に床へ置いた。


 今度は壊さなかった。力を入れすぎないように意識したからだ。それでも、指の跡が石の表面に薄く残っている。


 リィンが近づき、透の手を見る。


「指は痛む?」


「痛まない。石の方が痛そうだ」


「冗談を言えるなら、意識ははっきりしてる」


「確認方法が独特だな」


「大事。体が変わると、気持ちも引っ張られることがある」


 リィンは透の手の甲に触れた。


 冷たい指先だった。


「力が増えてる。でも、雑に増えてる感じじゃない。骨と筋が、灰を通しやすい形に変わってる」


「それ、いい変化なのか?」


「いいか悪いかは、使い方次第」


「また怖い答えだ」


「怖がっていて」


「ああ。そこは忘れない」


 ガルドは棚の奥から布包みを引きずり出していた。


 片腕しかないはずなのに、動きに無駄がない。灰の義手で箱を押さえ、残った手で封を切る。中から出てきたのは、薄い板のような食料だった。


 乾いた灰色の板。


 お世辞にも美味そうには見えない。


 だが、ガルドの顔が変わった。


「保存食だ」


 声が低く震えていた。


 透はそちらへ向かう。


「食べられるのか?」


「封が生きていればな」


 ガルドは一枚を手に取り、匂いを嗅いだ。表情は変わらないが、目の奥にわずかな熱が宿っている。


 リィンが刻印を読む。


「灰乾糧。浄水で戻して食べるもの。封印状態は……弱ってるけど、まだ大丈夫」


「どれくらいある?」


 ガルドが箱を数える。


「全部持ち帰れれば、灰置き場の連中が十日は食える」


「十日」


 透は棚に並ぶ箱を見た。


 たった十日。


 けれど、この場所では重い十日なのだろう。


 水瓶も三つ残っていた。一つは完全に割れていたが、二つは封が生きている。濾過布で確認すれば飲める可能性が高い。


 薬瓶らしきものもあった。


 封印布。灰導具の部品。古い骨針。刻印を一時的に写し取るための薄い金属板。


 リィンは一つ一つを見て、使えるものを分けていく。


「これは持っていきたい」


 彼女が手に取ったのは、細長い青い針だった。


「何だ、それ」


「封印針。小さな封を打つ道具。私の刻印だけだと不安定だけど、これがあれば一時的に固定できる」


「リィン用の武器?」


「武器というより、留め具。トオルの灰を止める時にも使える」


「俺用の首輪が増えていくな」


「首には打たない」


「そこは安心していいのか?」


「たぶん」


「たぶんか」


 リィンは少し考えてから、真面目に言った。


「腕か床に打つ」


「具体的になると怖いな」


「必要な時だけ」


「必要にならないように努力する」


 ガルドが短く笑った。


「灰喰いが封印針を怖がるとはな」


「刺されるのは誰でも嫌だろ」


「それもそうだ」


 貯蔵庫の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。


 しかし、その奥で白い鏡は揺れ続けていた。


 透は見ないようにしていた。


 だが、視界の端に入るたび、胸の奥がざらつく。


 鏡の中には、地上の光景が映っている。


 石造りの訓練場。光の剣を振るう相良。歓声を上げる騎士たち。満足げに頷く神官。そこには奈落の灰も、呪いの咳も、名を失いかけた者たちの沈黙もない。


 同じ世界とは思えなかった。


 透は保存食の箱を運びながら、鏡へ近づきすぎないようにした。


 だが、鏡の方が反応した。


 白い光が強まる。


 水面に石を落としたように、鏡の中の景色が揺れた。


 相良の姿が消える。


 代わりに、別の部屋が映った。


 見覚えのある広間ではない。もっと狭く、窓のない石室だった。壁には白い布がかけられ、床には魔法陣が刻まれている。その中央に、一人の少女が立っていた。


 三枝美琴。


 透は思わず足を止めた。


 彼女は白い訓練服のようなものを着せられていた。表情は硬い。向かいには神官が二人。少し離れた場所に、甲冑の兵士が立っている。


 鏡越しに声は聞こえない。


 だが、美琴が何かを訴えているのはわかった。拳を握り、神官を睨んでいる。兵士が一歩近づくと、彼女はびくりと肩を揺らしたが、それでも下がらなかった。


 透の喉が詰まる。


 あの時、彼女は止めようとした。


 篠宮くんは何もしてません。


 王国の広間で、そう言った声を覚えている。


 助けられはしなかった。


 でも、何も言わなかったわけではない。


 鏡の中で、神官が美琴へ何かを差し出した。


 白い腕輪だった。


 美琴は首を横に振る。


 兵士が彼女の腕を掴んだ。


 透の右手から灰が漏れた。


 黒鎖が鳴る。


 リィンがすぐに振り返る。


「トオル」


「わかってる」


 声が低くなった。


 鏡を喰うな。

 壊すな。

 ここからでは届かない。


 わかっている。


 だが、胸の奥で灰が冷たく膨らむ。


 美琴の腕に白い腕輪がはめられた。


 彼女の表情が歪む。


 腕輪から、薄い光の鎖が魔法陣へ伸びた。


 リィンの顔色が変わる。


「あれ、監視封環」


「何だ、それ」


「対象の魔力と行動を縛る道具。逃げたり、命令に逆らったりすると、痛みで止める」


 透は奥歯を噛んだ。


 王国は、あの場で抗議した美琴を自由にしていない。


 勇者たちの仲間として扱っているのかもしれない。聖女や賢者と同じように訓練しているのかもしれない。だが、少なくとも彼女は監視されている。


 白い腕輪。


 枷。


 形が違うだけで、同じだった。


 透の灰が手甲の隙間から滲む。


 鏡へ伸びかける。


 リィンが黒鎖を掴んだ。


「名前」


「篠宮透」


「ここは?」


「奈落の貯蔵庫」


「何をする?」


 透は鏡を睨んだ。


 美琴は腕輪を押さえてうずくまっている。神官は何かを記録している。兵士は動かない。


 今すぐ、鏡の向こうへ手を伸ばしたい。


 だが、届かない。


 届かないのに灰を伸ばせば、鏡の術式に引っかかる。地上側にこちらを知られるかもしれない。あるいは、鏡そのものが壊れて、唯一の手がかりを失うかもしれない。


 透は息を吐いた。


「覚える」


 リィンの手が止まる。


「腕輪の形も、部屋も、神官の顔も。今は覚える」


「それでいい」


「よくはない」


「でも、今できること」


「ああ」


 透は灰を引いた。


 胸の奥が軋む。


 それでも、引いた。


 ガルドが隣で鏡を見ていた。


「知り合いか」


「クラスメイトだ。俺を庇おうとした」


「それで縛られたか」


「たぶん」


 ガルドは低く息を吐いた。


「地上は明るいだけで、やることは奈落と変わらんな」


 透は何も言えなかった。


 鏡の中の景色がまた揺れる。


 今度は、美琴の石室から別の場所へ移った。


 そこは地下牢だった。


 鉄格子。濡れた石床。壁に繋がれた鎖。


 そこに、知らない人々がいた。


 ぼろぼろの服を着た男。幼い子を抱いた女。耳の尖った亜人らしき老人。腕に魔術の焼き印を押された少年。


 神官が牢の前で巻物を読んでいる。


 その背後には、奈落へ通じる黒い扉の紋章があった。


 リィンが小さく息を呑む。


「落とす準備……」


 透の手が止まった。


 ガルドの灰の義手が、ぎしりと鳴る。


「まだやっているのか」


「知ってたのか」


「俺が落とされた時から、ずっとだ。神殿は要らなくなった者を奈落へ捨てる。罪人、失敗した実験体、都合の悪い証人、呪われた者。名目はいくらでも作れる」


 鏡の中で、牢の人々が怯えている。


 その中の少年が、鉄格子を掴んで何かを叫んだ。


 神官は表情を変えない。


 透の体の奥で、何かが冷えた。


 怒りはある。


 だが、それよりも先に、決まった。


 この鏡は壊さない。


 ここから見えるものは、地上で何が起きているかを知るための目になる。美琴のことも、これから落とされる者たちのことも、王国が隠しているものも。


 知らないままでは、また奪われる。


 透は鏡から目を逸らさずに言った。


「リィン。この鏡、こちらからだけ見えるのか」


「調べないとわからない。でも、古い遠見灰鏡(とおみはいきょう)だと思う。奈落側の管理者が地上の封印室を見るためのもの」


「地上側からこっちは?」


「本来は見えないはず。でも、こちらが強く干渉すると逆流するかもしれない」


「つまり、喰わなければ見つかりにくい」


「たぶん。絶対じゃない」


「十分だ」


 ガルドが鏡を睨む。


「これを灰置き場へ運べるか」


 リィンは首を横に振った。


「たぶん無理。鏡は貯蔵庫の刻印と繋がってる。動かすと壊れるか、地上側に気づかれる」


「なら、この場所を守る必要がある」


 透は貯蔵庫を見回した。


 保存食。水瓶。封印針。灰導具。遠見灰鏡。


 ここはただの物資庫ではない。


 地上を見る目であり、灰置き場の命綱になり得る場所だった。


「灰道を通れるようにしただけじゃ足りないな」


 透は言った。


「ここまでの道を、安定させる必要がある。灰置き場の人たちが何度も来られるように」


「できるのか」


 ガルドが問う。


 透は少し考えた。


「俺だけだと無理だ。道の呪いを削れても、削った後にまた戻る。リィンの封印と、ガルドたちの炉がいる」


 リィンが頷く。


「灰道の壁を完全に壊すより、通る分だけ開いて、封印針で留める方がいい。炉の灰を少し混ぜれば、道が灰置き場を覚えるかもしれない」


「道が覚える?」


「奈落の古い通路は、通るものを覚える。怖いけど、利用できる」


「怖いけど、が前につくものばっかりだな」


「奈落だから」


「もう突っ込まないぞ」


 リィンは少しだけ満足そうにした。


 その時、貯蔵庫の奥で箱が崩れた。


 全員が振り返る。


 乾いた音。灰が舞う。


 その灰の中に、黒い影が立っていた。


 人型。


 いや、人だったもの。


 全身が灰に覆われ、顔は崩れ、目のある場所だけがぽっかりと暗い。腕は長く、指先は床につきそうだった。胸元には、壊れた保管札が食い込んでいる。


 ガルドが低く唸る。


「貯蔵庫守りの成れの果てか」


 リィンが封印針を構える。


「違う。人が変わったもの。貯蔵庫に閉じ込められて、名を失ってる」


 黒い影が口を開いた。


 声は出ない。


 代わりに、灰が零れた。


 床に落ちた灰が、文字のように広がる。


 ――みず。


 透はその文字を見た。


 黒い影が一歩踏み出す。


 敵意はある。


 いや、飢えか。


 水。名。体。何でもいいから、失ったものを求めている。


 ガルドが前に出ようとした。


 透は手で制する。


「待て」


「襲ってくるぞ」


「わかってる。でも、喰い尽くす相手じゃない」


 透は右腕の黒鎖を伸ばした。


 黒い影が跳んだ。


 速い。


 さっきまでの骸骨兵よりずっと速い。長い腕が透の顔を狙って伸びる。


 だが、見えた。


 灰を喰った体が、反応した。


 透は半歩だけ横へずれ、影の腕を避ける。同時に黒鎖を巻きつけた。影の腕は軽い。だが、触れた瞬間にこちらの体温を奪ってくる。


 喰われる。


 透は灰を流す。


「腕に絡んだ飢えだけ削る」


 黒鎖が締まる。


 灰糸が影の腕の表面を削った。


 黒い影が震える。


 床にまた灰文字が落ちた。


 ――なまえ。


 透の懐にある骨札が熱を持つ。


 ミナ。


 さっき灰道で拾い上げた名。


 だが、この影の名ではない。


 透は影の胸元を見る。


 壊れた保管札。そこに文字が刻まれている。読めない。灰に埋もれている。


「リィン、あの札!」


「見える。名前が残ってるかもしれない」


「読めるか?」


「灰を少し払って」


「札の灰だけ払う」


 影が暴れる。


 ガルドが灰の義手で影の肩を押さえた。


「早くしろ。こいつ、見た目より力がある」


「わかってる」


 透は黒鎖を影の胸元へ伸ばす。


 喰うのではない。


 払う。


 札の表面に積もった灰だけを、薄く削る。


 文字が現れた。


 リィンが声に出す。


「……エルド。貯蔵庫管理補佐、エルド」


 その名を聞いた瞬間、黒い影の動きが止まった。


 ぽっかり空いた目の奥に、かすかな光が戻る。


 影の口が震えた。


「……え、る……ど……」


 声が出た。


 掠れ、砕け、ほとんど灰に近い声。


 透は黒鎖を緩める。


「エルド。聞こえるか」


 影は透を見る。


 暗い目の奥で、何かが揺れている。


「みず……を……まも……」


 言葉は途中で崩れた。


 だが、意味は伝わった。


 この影は、貯蔵庫を守っていた。


 水を、食料を、誰かのために。


 名を失っても、役目だけが残っていたのだ。


 透は喉の奥が詰まるのを感じた。


「もう、開いた。水も食料も、灰置き場に持っていける」


 エルドの体から、灰がこぼれた。


「……そう、か」


 その声は、少しだけ人に戻っていた。


 だが、体はもう限界だった。


 名を呼ばれたことで、形を保っていたものがほどけ始めている。


 リィンがそっと近づいた。


「眠らせる?」


 透はエルドを見た。


 喰う、ではない。


 終わらせる。


 灰喰い(はいぐい)の本来の役目。


 燃え尽きたものを、無理に立たせ続けないこと。


 透は右腕を上げた。


 灰は静かだった。


 飢えていない。


 ただ、待っている。


「エルドを縛っている残り火だけ喰う。名前は残す。役目も、喰わない」


 リィンの青い封印が、エルドの保管札に触れた。


「名前を留める」


 透の灰が、エルドの体に絡んでいた黒い残り火を削った。


 影はゆっくり崩れていく。


 灰になりながら、最後に貯蔵庫の奥を見た。


「みず……とどけ……」


「ああ」


 透は答えた。


「届ける」


 エルドはそれを聞いたように、わずかに頷いた。


 そして、崩れた。


 床に残った灰の中に、小さな保管札だけが落ちる。


 そこには、もうはっきりと名前が読めた。


 エルド。


 ガルドはしばらく黙っていた。


 やがて、低く言う。


「こいつは、ここでずっと守っていたのか」


「たぶん」


「俺たちは、ずっと近くにいたのに開けられなかった」


「呪いが塞いでた」


「それでもだ」


 ガルドは膝をつき、エルドの保管札を拾った。


 灰の義手ではなく、生身の手で。


「炉に名を刻む」


「頼む」


「ああ」


 透は床に残った灰を見た。


 エルドを縛っていた残り火を喰ったせいで、体の中にまた変化が起きている。


 今度は、力ではない。


 記憶の残り香。

 物を守るための手順。

 貯蔵庫の封印の癖。

 水瓶の運び方。

 棚の奥に残る危険な箱。


 知識と勘が、灰の形で染み込んでくる。


 透は貯蔵庫の奥を見た。


「あの右奥の箱、触らない方がいい」


 ガルドが顔を上げる。


「なぜわかる」


「たぶん、腐った薬が入ってる。封が割れてる。開けたら煙が出る」


 リィンが箱の刻印を確認し、目を細めた。


「合ってる。薬封が壊れてる」


「エルドの灰か」


 透は自分の胸を押さえた。


「たぶん。少し、わかった」


「喰うたびに、体だけじゃなく知覚も変わるんだね」


 リィンが静かに言った。


「何を喰べたかで、伸びる場所が違う」


「便利だな」


「便利で、危ない」


「わかってる」


 本当にわかっている。


 エルドの残り火は、役に立つ。


 だが、もし名まで喰っていたら。


 もし彼の役目も記憶も、全部自分のものにしていたら。


 透はもっと多くのことを知れたかもしれない。貯蔵庫の全容も、灰道の構造も、一瞬で理解できたかもしれない。


 だが、それはエルドを消すことだった。


 透は保管札を見た。


 喰うものを選ぶ。


 喰わないものも選ぶ。


 それを間違えれば、この力はただの災いになる。


 ガルドが保存食の箱を担ぎ上げた。


「運ぶぞ。灰置き場の連中に見せてやる」


「全部は一度に無理だ」


「わかっている。水瓶はお前が持て」


「俺か」


「持てるだろう」


 透は水瓶を見る。


 確かに持てる。


 それが少し怖く、少し頼もしかった。


「壊さないようにする」


「それが一番大事だ」


 リィンが封印針を使い、貯蔵庫の入口に簡単な封を打った。これで道が完全に閉じることはないらしい。透も灰道に残った奈落縛りの棘を、通行に必要な分だけ削った。


 水瓶を抱える。


 重い。


 だが、歩ける。


 ガルドが保存食の箱を運ぶ。


 リィンが地図と封印具を抱え、後方を確認する。


 遠見灰鏡は、白い光を揺らしながら静かに貯蔵庫の奥に残った。


 鏡の中では、地上の景色がまた変わっている。


 牢の前に、兵士たちが集まっていた。


 黒い扉が開きかけている。


 透は一瞬足を止めた。


 これからまた、誰かが落とされる。


 だが、今この水と食料を持ち帰らなければ、灰置き場の者たちが倒れる。


 透は目を閉じ、息を吸った。


 今できることをする。


 覚えるべきものは覚えた。


 救えるものから救う。


 透は水瓶を抱え直した。


「戻ろう」


 リィンが頷く。


「戻って、また来る」


「ああ」


 灰道へ戻ると、黒い空気はまだ重かった。


 だが、来た時とは違う。


 道の一部に、青い封印針が打たれている。透が削った奈落縛りの穴も、まだ塞がっていない。


 水瓶を抱えたまま、透は歩いた。


 足元の灰が名を吸おうとする。


 だが、懐の骨札と、背後の保管札と、リィンの青い光が、その声を少しだけ遠ざけていた。


 灰置き場の明かりが見えてくる。


 炉の周りに人々が集まっていた。


 ルカが真っ先にこちらを見つける。


「戻った!」


 その声が、灰置き場に広がった。


 何人もの顔がこちらを向く。


 透は水瓶を床に下ろした。


 重い音。


 ガルドが保存食の箱を置く。


 リィンが封印布と薬瓶を並べる。


 沈黙。


 それから、誰かが息を漏らした。


「水……?」


 老婆が震える声で言った。


 ガルドは頷く。


「水だ。食料もある。貯蔵庫は開いた」


 灰置き場の者たちは、すぐには喜ばなかった。


 信じられないのだろう。


 だが、ルカが水瓶に駆け寄り、透を見上げる。


「飲める?」


「リィンが確認してからな」


「待つ」


「偉い」


「待つのは得意」


 その言葉に、透は胸が少し痛んだ。


 リィンが水瓶の封を調べ、濾過布を使い、少量を器に移した。青い刻印が揺れる。毒や呪いの反応を見ているらしい。


 しばらくして、彼女は小さく頷いた。


「薄めれば飲める。呪いはほとんどない」


 その瞬間、灰置き場の空気が変わった。


 誰かが泣いた。


 声を押し殺すように。


 誰かが炉の前に膝をついた。


 誰かが名前を呟いた。


 透はその光景を見て、ようやく水瓶の重さが自分の腕から抜けていくのを感じた。


 運んだだけだ。


 呪いを少し削り、扉を開け、水を運んだだけ。


 けれど、それで誰かの息が続く。


 なら、この腕が変わっていく意味も、少しだけあるのかもしれない。


 ガルドが透の横に立った。


「透」


「何だ」


「信用はまだ半分だ」


「増えたのか」


「少しな」


「十分だ」


 ガルドは炉を見た。


「エルドの名を刻む。あとで来い」


「ああ」


 ルカが器に入った水を両手で受け取り、少しだけ飲んだ。


 黒い痣が、ほんのわずかに薄くなる。


 透はその様子を見ていた。


 背後の灰道は、まだ暗い。


 貯蔵庫の奥には遠見灰鏡が残り、地上ではまた誰かが落とされようとしている。


 開けるべき道は多い。


 削るべき呪いも多い。


 だが、今は灰置き場に水が届いた。


 それだけは、確かに前へ進んだ証だった。


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