第13話 灰鏡の警鐘
エルドの名は、炉の石に刻まれた。
ガルドが膝をつき、生身の手で骨針を握っている。灰の義手ではない。残された方の手で、一画ずつ、深く、慎重に刻んでいた。
灰置き場の者たちは、その周りを黙って囲んでいる。
エルド。
貯蔵庫を守り、名を失い、それでも水を守っていた者。
透は少し離れた場所から、その名が刻まれるのを見ていた。
炉の灰色の火が揺れる。音はない。けれど、刻まれた名前の周りだけ、灰がほんの少し薄くなったように見えた。
リィンが隣に立つ。
「名前が残った」
「ああ」
「よかった、でいいと思う」
「そうだな」
透は自分の右手を見た。
エルドを縛っていた残り火を喰ったあと、体の中に別の感覚が残っている。貯蔵庫の封印の癖。水瓶の扱い方。腐った薬を避ける勘。そういうものが、記憶ではなく、体の奥に沈んでいた。
灰を喰うたび、何かが増える。
力だけではない。
目の届き方。耳の拾い方。足の置き方。物を持つ時の加減。傷を塞ぐ速度。疲れの抜け方。
透の体は、透の知らないところで少しずつ変わっている。
それが助かることもある。
だが、怖くないわけではなかった。
ルカが水を配る列のそばから走ってきた。
「トオル、ガルドが呼んでる」
「また試すのか?」
「違うと思う。顔が、怖い時の顔だった」
「いつも怖いけどな」
「もっと」
それはかなり悪い知らせに聞こえた。
透とリィンは炉のそばへ向かった。
ガルドはエルドの名を刻み終え、骨針を老婆へ返していた。彼の顔は、たしかにいつもより険しかった。
「灰鏡が鳴った」
「貯蔵庫の?」
「ああ。あれを見張らせていた。白い光が強くなったら知らせろと言っておいた」
透の胸の奥が冷える。
遠見灰鏡。
貯蔵庫の奥にあった、地上の封印室を映す鏡。
そこには、相良が訓練場で光の剣を振るう姿が映っていた。三枝美琴が監視封環をはめられる姿も見た。そして、地下牢で奈落へ落とされようとしていた人々も。
「地上で動きがあったのか」
「たぶんな」
ガルドは灰の義手を鳴らした。
「見に行く。透、お前も来い」
「わかった」
リィンがすぐに地図と封印針を手に取る。
「私も行く。鏡の術式を見る必要がある」
「来てもらうつもりだった」
ガルドはルカを見る。
「お前は残れ」
「今度は言う前に止めた」
「学んだな」
「少しだけ」
ルカは不満そうだったが、昨日ほど食い下がらなかった。腕の呪いを少し削られたことで、体力が戻ってきているらしい。それでも灰道を何度も往復できる状態ではない。
透はしゃがみ、ルカに言った。
「戻ったら、また腕を見る」
「ほんと?」
「ああ。無理に全部は取れないけど、痛いところから少しずつ削る」
「じゃあ、待つ」
「頼む」
ルカは小さく頷いた。
灰道へ向かう準備は早かった。
ガルドは保存食の箱を運ぶために使った骨の背負い枠を置き、代わりに短い斧を持った。リィンは封印針を三本、袖の内側に差す。透は灰殻の手甲と黒鎖を確かめ、灰筒を腰に下げた。
灰道の入口に立つ。
昨日より、穴の奥から聞こえる声は小さかった。
完全に消えたわけではない。だが、貯蔵庫までの道に打った封印針と、透が削った奈落縛りの穴が、まだ持っている。
ガルドが先に入る。
リィンが続き、透が最後に入った。
足元の灰が、また名を吸おうとする。
だが、昨日ほど深く沈まない。
透は歩きながら、自分の足が灰道の床を掴む感覚に気づいた。滑らない。沈みすぎない。どこに体重を乗せれば灰に足を取られないか、体が勝手に探っている。
エルドの残り火か。
それとも、炉の灰に慣れ始めたせいか。
理由はわからない。
だが、歩ける。
それだけで十分だった。
貯蔵庫に着くと、奥の鏡は白い光を強く揺らしていた。
水面のようだった鏡面は、今は薄い膜のように震えている。向こう側で大きな術式が動いているのだろう。鏡の縁に刻まれた古い文字が、白く点滅していた。
リィンが息を呑む。
「地上側の封印室が開いてる」
「落とす準備か」
「たぶん。でも、それだけじゃない。勇者の訓練場にも繋がってる」
鏡の中が揺れた。
最初に映ったのは、訓練場だった。
石造りの広い空間。王国の騎士たち。白い法衣の神官。金髪の王女らしき少女。そして中央に、相良迅が立っている。
相良は光をまとっていた。
剣を振るたび、白金の軌跡が空気を裂く。向かいに立っていた騎士が盾を構えたが、次の瞬間、盾ごと後方へ吹き飛ばされた。
周囲から歓声が上がる。
鏡越しでもわかるほどの熱気。
相良は笑っていた。
自信に満ちた、あの教室でもよく見せていた顔。
ただし、今の相良は教室にいた頃とは違う。
速い。
強い。
剣筋は粗いが、光の力がそれを補っている。踏み込み一つで床が鳴り、振り抜いた剣圧だけで訓練用の人形が砕ける。
地上の騎士たちは、その一撃に目を輝かせていた。
ガルドが低く唸る。
「あれは、たしかに上澄みだな」
「強いのか」
「地上の兵なら、十人や二十人では止められん。王国が旗にしたがるわけだ」
透は黙って鏡を見た。
相良の動きは、確かに人間離れしている。
あの光をまとった一撃を、召喚直後の透が受けていれば、骨も残らなかったかもしれない。
だが、同時に奇妙な違和感があった。
相良の光は明るすぎる。
踏み込みの前に肩が光る。剣を振る前に魔力が膨らむ。攻撃の軌道が、輝きで先に見える。
地上の騎士は避けられない。
だが、奈落の魔物ならどうするだろう。
喰屍なら、光が膨らむ前に足元へ肉を伸ばす。灰の川なら、その眩しさごと記憶を流す。番兵なら、剣が振られる瞬間に関節を狙ってくる。奈落縛りなら、光をまとった心の隙間に入り込む。
相良が弱いわけではない。
むしろ、地上では強い。
ただ、奈落のものとは噛み合っていない。
透はそう感じた。
ガルドが横目で透を見る。
「どう見える」
「派手だ」
「それだけか」
「地上なら強いんだろうな」
「奈落では?」
透は少しだけ考えた。
「光る前に噛まれる」
ガルドは喉の奥で笑った。
「よく見えている」
リィンが鏡を見つめたまま言う。
「あの光は、勇者の祝福。魔物や不死者には強い。でも、呪いや灰とは相性が悪い。強い光ほど、影を濃くするから」
「勇者様にも苦手はあるわけか」
透はそう言ってから、少しだけ口の中が苦くなった。
相良の力を見ても、胸は騒ぐ。
あの日、彼は光の中にいた。
透は灰の中に落とされた。
その差は、まだ消えない。
だが、鏡の中の相良がどれだけ光っていても、透の右腕の灰は暴れなかった。
怒りはある。
けれど、今ここで喰うものではない。
鏡の景色が変わる。
訓練場が消え、地下牢が映った。
鉄格子の前に、神官と兵士が集まっている。牢の中には、昨日見た人々がいた。幼い子を抱いた女。耳の尖った老人。焼き印のある少年。ほかにも数人。
その中に、鎖で縛られた大柄な獣人の男がいる。
彼は膝をついていたが、頭は下げていない。兵士が槍を向けても、睨み返している。
神官が巻物を読み上げる。
声は聞こえない。
だが、床の魔法陣が黒く光った。
リィンの表情が硬くなる。
「奈落門を開く」
「ここに落ちてくるのか」
「場所はわからない。奈落の門は複数ある。封印区画か、もっと上層か……でも、灰道に近い可能性もある」
ガルドの灰の義手が軋んだ。
「落下地点がわかれば拾える」
「拾うのか」
透が聞くと、ガルドは苛立ったように答えた。
「拾わなければ喰屍が拾う」
「だよな」
鏡の中で、黒い扉が開き始める。
透の胸が重くなる。
あの扉。
似ている。
自分が突き落とされた扉と。
黒い穴が開く。
兵士たちが牢の者たちを引きずり出す。女が子どもを抱きしめ、老人がよろめき、焼き印の少年が抵抗して殴られる。
獣人の男だけは、兵士二人を振り払った。
だが、神官が白い杖を掲げると、首に巻かれた封環が光り、獣人は苦痛に膝をついた。
透の指先から灰が漏れた。
リィンが黒鎖を掴む。
透は先に言った。
「わかってる。壊さない」
「ならいい」
「でも、落ちる場所を探る」
リィンは一瞬だけ透を見た。
「鏡に干渉するのは危ない」
「喰わない。灰を流すんじゃなくて、向こうから漏れてくる灰を読む」
「……できる?」
「たぶん」
「たぶんが怖い」
「俺も怖い」
リィンは少しだけ眉を寄せた。
だが、止めなかった。
「私が鏡の縁を封じる。逆流しそうなら切る」
「頼む」
透は鏡に手を近づけた。
触れない。
白い鏡面の周囲に漂う細かな灰だけを見る。
地上の奈落門が開く時、こちら側にもわずかな灰が漏れる。扉の向こうとこちらの奈落が繋がる。その瞬間の匂い、温度、呪いの流れ。
透はそれを拾った。
喰わない。
読むだけ。
灰が伝えてくる。
落ちる。
深すぎない。
古い処刑路。
水音。
赤い苔。
折れた女神像。
喰屍の縄張りに近い。
透は目を開いた。
「赤い苔がある通路。折れた女神像。水音がする。喰屍が近い」
ガルドが顔を上げる。
「処刑路だ。灰置き場から近い」
リィンが地図を広げる。
「ここ。浄水室へ向かう途中の分岐」
「間に合うか」
ガルドが問う。
リィンは地図を見つめる。
「普通に歩けば間に合わない」
「走れば?」
「危険。灰道を抜ける時に名を取られる」
透は自分の足を見た。
昨日より動く。灰道の床も、少しは読める。
だが、リィンとガルドを連れて全速で行くのは無理だ。
鏡の中で、最初の一人が扉へ押し込まれた。
幼い子を抱いた女。
透の喉が詰まる。
間に合わないかもしれない。
それでも、動くしかない。
「俺が先に行く」
リィンが即座に言う。
「一人は危ない」
「三人で行って間に合わない方がまずい。場所は見えた。俺が先に走って、喰屍を引き離す。リィンとガルドは後から来てくれ」
「灰道を一人で抜けるつもり?」
「抜ける」
「名前を取られる」
「取られそうになったら、呼んでくれ」
「距離がある」
「それでも聞く」
リィンは言葉を詰まらせた。
透は自分でも無茶を言っているとわかっていた。
だが、今ここで迷っている間にも誰かが落とされる。
昔の自分と同じように。
ガルドが透を見た。
「走れるのか」
「たぶん」
「灰喰いの体は、灰道に慣れ始めている。だが、速く走ればその分、道も深く吸う」
「なら、吸われる前に抜ける」
「馬鹿の理屈だな」
「他にあるか」
ガルドは少し黙り、灰の義手で自分の胸を叩いた。
「処刑路の入口で落ち合う。先に着いたら、喰屍を殺そうとするな。引き離せ。あれは一体でも面倒だ」
「わかった」
リィンが透の黒鎖に封印針を一本打った。
針は鎖の輪に刺さり、青い光を帯びる。
「これで、少しだけ私の声が届く。無茶をしたら締める」
「距離があっても?」
「たぶん」
「たぶんが怖いな」
「怖がって」
「ああ」
鏡の中で、獣人の男が最後まで抵抗していた。
しかし封環が光り、彼も黒い扉へ押し込まれる。
透は鏡から目を離した。
今は見る時ではない。
走る時だ。
貯蔵庫を出る。
灰道の黒い床が目の前に伸びている。
透は息を吸った。
体の奥で灰が沈む。骨が軋み、筋が熱を持つ。心臓が一度、重く鳴った。
足が床を掴む。
ガルドが言う。
「名を忘れるな」
「篠宮透」
透は答えた。
リィンが続ける。
「私の名前は?」
「リィン」
「ルカは?」
「ルカ」
「ここは?」
「奈落の灰道」
「何をする?」
透は前を見る。
「落とされた人たちを拾う」
黒鎖が青く光った。
「行って」
リィンの声を背に、透は走り出した。
灰道の声が一斉に押し寄せる。
名を置いていけ。
速く走るな。
急ぐほど沈む。
お前も灰になる。
誰も待っていない。
誰も救えない。
透は歯を食いしばった。
足が速い。
速すぎる。
一歩で思った以上に進む。床の灰が後ろへ流れ、壁の黒い模様が線になって過ぎる。以前の体なら、こんな速度で走れば膝が砕けていた。今は違う。骨が耐える。筋が伸びる。灰が関節を支え、衝撃を逃がす。
怖い。
自分の体なのに、知らない獣を走らせているようだった。
だが、止まらない。
名を思い浮かべる。
篠宮透。
リィン。
ルカ。
ガルド。
エルド。
ミナ。
灰道の出口が見えた。
透は床を蹴る。
黒い穴から飛び出した瞬間、灰置き場の者たちが驚いて振り返った。
ルカの声が聞こえる。
「トオル!?」
「処刑路へ行く!」
それだけ言って、透は走り抜けた。
灰置き場を横切る。炉の火が揺れる。何人かが道を空ける前に、透の体はその間を抜けていた。
速い。
世界が遅く見える。
水瓶を運んだ時より、骸骨兵を倒した時より、はっきりと体が変わっている。
喰った灰が、透の足を作り替えていた。
けれど、速さに酔っている余裕はない。
ルカが叫ぶ。
「赤い苔の道は左!」
「助かる!」
透は左の通路へ飛び込んだ。
壁に赤黒い苔が生えている。水音が近い。灰鏡で読んだ通りだ。
そして、奥から悲鳴が聞こえた。
透の足がさらに速くなる。
通路の先に、折れた女神像があった。
その前の空間に、人々が倒れている。
女。子ども。老人。焼き印の少年。獣人の男。
そして、天井の裂け目から、黒い肉の縄が何本も伸びていた。
喰屍。
落ちたばかりの人間の匂いに引き寄せられたのだろう。肉の縄が女の足に絡み、子どもを抱いた腕へ伸びている。
透は右腕を振った。
黒鎖が走る。
「喰屍の歯の根だけ削る!」
灰糸が肉の縄を裂いた。
女の足に絡んでいた歯が砕ける。喰屍の肉が怯み、天井へ引っ込む。
透はそのまま踏み込み、子どもの前に出た。
次の縄が迫る。
今度は避けない。
右手で掴む。
歯が手甲に食い込む。黒鎖が鳴る。喰屍の飢えが流れ込もうとする。
だが、前ほど深く入ってこない。
ルカの呪い。炉の灰。エルドの残り火。灰道の壁。
それらを喰った体が、喰屍の濁りを表面で止めている。
「先端の飢えだけ喰う」
灰が黒い肉を削った。
肉の縄が枯れ、灰になって落ちる。
天井の奥から、湿った咆哮が響いた。
透は倒れている人々へ振り返る。
「立てる人は、女神像の後ろへ! 動けない人は、声を出せ!」
誰もすぐには動けなかった。
当然だ。
奈落へ落とされたばかりなのだ。
透は女から子どもを受け取り、折れた女神像の陰へ運んだ。
軽い。
軽すぎる。
子どもを置き、次に老人を支える。老人は耳の尖った亜人で、震えながら透を見ていた。
「あ、あなたは……」
「落とされた側だ。話は後で」
獣人の男が立ち上がろうとして、首の封環に苦しんでいた。白い光が彼の喉を締めている。
透はそれを見て、右腕を伸ばす。
「封環の痛みの刻印だけ削る。首は喰わない。魔力も喰わない」
灰糸が封環へ触れる。
白い光が抵抗した。
勇者の光とは違う。神殿の術式だ。命令に逆らう者を痛みで押さえつける、嫌な光。
透の灰が、その表面を削る。
封環は壊れない。
だが、獣人の男を締めていた光だけが弱まった。
男が荒く息を吸う。
「……助かった」
「まだだ」
透は天井を見た。
喰屍の本体は、裂け目の奥にいる。
肉の縄が、また何本も垂れ下がってきた。今度は透を狙っている。灰を喰う者を、邪魔な餌だと判断したのかもしれない。
透は黒鎖を構える。
喰屍は倒しきる相手ではない。
今やるべきことは、落とされた者たちを灰置き場まで逃がすこと。
透は息を吸った。
体が熱い。
足も腕も、まだ動く。
なら、動かす。
右腕の黒鎖が、灰色に光った。
「来いよ」
透は天井の闇を睨む。
「こっちの方が、喰いでがあるぞ」
喰屍の肉縄が、一斉に透へ向かって落ちてきた。




