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第14話 喰屍を引く者

 黒い肉縄が、天井から落ちてきた。


 一本ではない。


 五本。六本。さらに奥の裂け目から、濡れた音を立てて次々と垂れ下がる。先端には白い歯のような粒が並び、石床に触れた場所をじゅう、と溶かしていた。


 透は息を止めなかった。


 怖い時ほど、息を止めると体が固まる。


 ガルドに棒で打たれた時に、少しだけ覚えた。息を吐き、足を置く場所を決め、体を動かす。


 以前なら、考える前に飲み込まれていた。


 今は違う。


 最初の肉縄が顔面へ迫る。


 透は首を傾けるだけで避けた。


 髪の数本が持っていかれる。


 二本目は右腕で弾いた。黒鎖に灰を通す。狙うのは肉ではない。先端に並ぶ歯の根だ。


 灰糸が走り、白い粒がぼろぼろと崩れた。


 肉縄が力を失い、床へ叩きつけられる。


 三本目は足元へ這ってきた。


 透は床を蹴った。


 体が跳ぶ。


 高すぎた。


 頭が天井近くまで届きかけ、そこで慌てて体を捻る。視界が一瞬、上下逆になる。肉縄が下を通り過ぎる。


 壁を蹴って戻った。


 石壁がひび割れた。


「……加減、難しすぎるだろ」


 着地した足元が沈む。


 だが、膝は壊れない。足首も捻らない。灰を喰った体が、衝撃を勝手に逃がしている。


 気味が悪い。


 けれど、助かる。


 透は黒鎖を振るった。


 灰糸(かいし)が肉縄の表面を撫でる。


 食らいつく歯。締め上げる粘液。こちらの熱を吸おうとする黒い筋。透はその三つだけを拾い、灰に変えた。


 肉縄が何本も枯れ、床に落ちる。


 天井の裂け目の奥で、喰屍が怒りのような音を立てた。


 ずるり。


 太い本体の一部が、裂け目から覗く。


 巨大な肉塊だった。


 人間の胴体ほどの太さを持つ黒い肉が、天井の奥で蠢いている。表面には歯だけでなく、目のような濁った黄色い粒がいくつも開いていた。


 透の足首に、前に噛まれた時の感触が蘇る。


 あれに捕まれば、終わる。


 今の体でも、全部を受け止めれば引きずられる。喰い返そうとしても、濁りが深すぎる。喰屍を丸ごと喰えば、力は得られるかもしれない。だが、その分だけ透の中に腐った飢えが入る。


 それは駄目だ。


 今は倒す相手ではない。


 引き離す相手だ。


「立てる人から女神像の裏へ!」


 透は叫んだ。


 焼き印のある少年が、震えながら女を支えた。女は子どもを抱き直し、折れた女神像の影へ逃げ込む。耳の尖った老人は腰を抜かしていたが、獣人の男が片腕で抱え上げた。


 封環の痛みが薄れた獣人は、まだふらつきながらも動けている。


「お前、何者だ」


 獣人が荒い息の合間に言った。


「落とされた側だって言っただろ」


「その動きでか」


「文句は後で聞く」


 透はそう言って、天井から迫る肉縄をまた一本落とした。


 灰が床へ散る。


 その一部が、透の方へ流れかける。


 喰える。


 喰えば、反応が速くなる。筋が強くなる。喰屍の縄の動きも、もっと読めるようになる。


 だが、濁っている。


 透は歯を食いしばった。


「……いらない」


 灰を弾く。


 黒鎖が細く鳴った。


 天井の喰屍が、透を見た。


 濁った黄色い目が、いくつもこちらを向く。


 透はその視線を受け止めた。


「そうだ。こっちを見ろ」


 黒鎖を床へ叩きつける。


 灰が一瞬だけ広がり、すぐに戻る。


 匂いを出す。


 灰喰いの匂い。


 死骸と呪いを喰い、喰屍の飢えを削った者の匂い。


 喰屍が反応した。


 肉縄が、女神像の影ではなく透へ向かってくる。


「よし」


 透は走り出した。


 処刑路の奥へ。


 女神像から離れる方向へ。


 背後で獣人が叫んだ。


「おい、どこへ行く!」


「追わせる!」


「死ぬぞ!」


「今のところ、まだ死んでない!」


 我ながらひどい返事だと思った。


 だが、足は止めない。


 通路は狭い。


 赤黒い苔が壁に張りつき、水音が響いている。足場は濡れて滑りやすい。普通なら全力で走る場所ではない。


 しかし、透の足は濡れた石の凹凸を拾っていた。


 どこに苔があるか。どこが脆いか。どこに足を置けば滑らず、どの角度で蹴れば壁を壊しすぎないか。


 体が先に理解する。


 頭は後から追いつく。


 喰屍の肉縄が背後から迫る。


 透は走りながら黒鎖を振った。


 振り返らない。


 灰糸だけを後ろへ流す。


 肉縄の先端が触れた瞬間、並んだ歯が灰になって散った。


 削りすぎない。


 切り落としすぎると、喰屍が別の獲物へ向かうかもしれない。


 痛めつける。

 怒らせる。

 追わせる。


 必要な分だけ。


「こっちだ、喰い損ない」


 透はわざと声を上げた。


 喰屍に言葉が通じるかはわからない。だが、音と灰の匂いには反応する。


 天井の裂け目を、黒い肉塊が這ってくる。


 重い音。


 湿った肉が石に擦れ、細い通路全体が震える。


 やはり本体は大きい。


 狭い場所へ完全には入れない。だから肉縄を伸ばしてくる。なら、通路の細さを利用できる。


 透は曲がり角を抜け、少し開けた場所へ出た。


 壁が崩れ、半分だけ空洞になっている。床の中央には水たまりがあり、その周囲に白い骨が沈んでいた。


 嫌な場所だ。


 だが、使える。


 透は水たまりの手前で止まり、振り返る。


 肉縄が五本、通路から飛び出してきた。


 透は水たまりへ灰糸を沈めた。


 水は喰わない。

 骨は喰わない。

 水底に眠る古い痺れだけを起こす。


 水面に黒い泡が浮いた。


 喰屍の肉縄がそこへ突っ込む。


 瞬間、肉が硬直した。


 完全には止まらない。だが、一瞬だけ動きが鈍る。


 透は床を蹴った。


 黒鎖を横薙ぎに振るう。


 灰が、肉縄の締め上げる筋をまとめて断った。


 肉は残る。


 だが、獲物を掴む力だけが落ちる。


 透はその隙に、水たまりを越えて反対側へ走った。


 背後で喰屍が吠える。


 声ではない。


 肉の奥で空気が潰れるような、低い振動。


 胸が悪くなる。


 だが、追ってきている。


 それでいい。


 その時、右腕の黒鎖が強く締まった。


 リィンの声が、遠くから響いた。


「トオル、行きすぎ」


 声というより、黒鎖の内側に落ちる感覚だった。


 封印針が働いている。


 透は走りながら返す。


「まだ引ける!」


「戻る道を忘れないで」


「赤い苔、水たまり、折れた女神像、灰置き場!」


「名前は?」


「篠宮透!」


「よし。続けて」


「今、採点されたか?」


「可より上」


 こんな状況で、透は少しだけ笑ってしまった。


 喰屍の肉縄が追ってくる。


 今度は七本。


 透は笑いを消し、次の曲がり角へ飛び込んだ。


 奥に、崩れた鉄柵が見えた。


 その向こうは縦穴だった。


 下から冷たい風が吹き上がる。深さはわからない。だが、底から喰屍とは違う唸り声が聞こえた。


 落ちたらまずい。


 だが、喰屍もここを嫌がっているのか、肉縄の動きがわずかに鈍った。


 透は鉄柵の手前で止まる。


 この先へは行けない。


 なら、ここで足止めして戻る。


 黒鎖を鉄柵の残骸に巻きつける。灰を通す。錆を喰わない。鉄を壊さない。輪を噛ませるだけ。


 喰屍の肉縄が迫る。


 透は黒鎖を引いた。


 鉄柵が斜めに跳ね上がり、通路を塞ぐ。


 肉縄が鉄柵に絡みついた。


 すぐに砕かれる。


 だが、一瞬でいい。


 透は灰糸を鉄柵へ滑らせた。


 肉縄と鉄を繋いでいた粘液が剥がれ、喰屍の動きが乱れる。


 透はその横をすり抜けた。


 戻る。


 喰屍は怒り、また追ってくる。


 しかし、さっきより遅い。


 先端を何度も潰され、痺れ呪いを受け、鉄柵に絡まったせいだ。完全に止めたわけではないが、女神像の方へ戻る時間は稼げる。


 透は通路を駆け戻った。


 走るほどに、体が熱を持つ。


 息はまだ続く。


 足も動く。


 だが、胸の奥の灰が騒ぎ始めていた。


 喰え。

 喰屍を喰え。

 追われるな。

 追う側になれ。


 透は奥歯を噛む。


「違う」


 声に出す。


「今は、逃がすために走ってる」


 黒鎖がまた締まった。


 リィンの声。


「聞こえてる」


「ああ、俺も聞こえてる」


「そっちじゃなくて、私」


「紛らわしいな!」


「怒れるなら大丈夫」


「それ、基準として合ってるのか?」


「たぶん」


 透は息を吐き、速度を落とさず女神像の前へ戻った。


 そこには、ガルドとリィンがすでに到着していた。


 ガルドは落とされた者たちを女神像の裏へ集め、リィンは青い封印で簡易の壁を作っている。獣人の男も、まだ苦しそうだが老人を支えていた。


 透が戻ると、リィンが一瞬だけ目を見開いた。


「無事?」


「今のところ」


「喰屍は?」


「怒らせた。遅らせた。でも来る」


「最悪だけど、必要」


「褒め言葉として受け取る」


 ガルドが透の背後を見る。


「どれくらい稼いだ」


「たぶん少し」


「奈落では十分だ」


「みんなそれ言うな」


 ガルドは獣人の男へ向き直った。


「動ける者は立て。子どもと老人を運ぶ。灰置き場まで走るぞ」


 獣人の男が険しい顔で言う。


「どこだ、そこは」


「落とされた者が集まっている場所だ。生きたければ来い」


「信用できるか」


「できんだろうな。だが、ここにいるよりはましだ」


 獣人は一瞬だけ透を見た。


 透は短く言う。


「俺もそこで拾われた」


「……お前が?」


「正確には、俺が勝手に行った」


「どっちだ」


「説明は後だ。走れるか」


 獣人は歯を食いしばり、老人を背負った。


「走る」


 焼き印の少年は、まだ兵士に殴られた痛みで顔を歪めていた。透が近づくと、怯えたように後ずさる。


「大丈夫だ。触るぞ」


「な、何を」


「その足、痛めてるだろ」


 少年の足首は腫れていた。落下の衝撃か、兵士に蹴られたのかもしれない。


 透は手甲を近づける。


 骨は喰わない。

 肉は喰わない。


 足首に溜まった黒い濁りだけを見る。


 灰糸が触れると、腫れの奥で淀んでいたものが薄く抜けた。


 少年が小さく悲鳴を上げる。


 だが、すぐに目を見開いた。


「痛みが……」


「全部は取れない。走れる程度だ」


 少年は足を動かし、頷いた。


「走れます」


「なら走れ」


 女は子どもを抱いていたが、足が震えている。


 ガルドが彼女を支えようとした時、獣人の男が老人を背負ったまま言った。


「子を貸せ。片腕で抱える」


 女は一瞬怯えたが、子どもを見て、獣人へ預けた。


 獣人は老人を背負い、子どもを片腕で抱える。


 それでも倒れない。


 かなりの力だ。


 ガルドが感心したように鼻を鳴らす。


「まだ動けるな」


「首輪さえなければ、もっと動ける」


「生きて灰置き場へ着けば、考える」


 リィンが封印壁を解いた。


「来る」


 奥の通路から、湿った音が響く。


 喰屍の肉縄が戻ってきた。


 しかも、さっきより怒っている。


 赤黒い苔を削り、石壁を砕きながら迫ってくる。


 ガルドが叫ぶ。


「走れ!」


 集団が動き出した。


 先頭はガルド。


 その後ろに女と少年。獣人が老人と子どもを抱え、リィンが横から封印で足元の呪いを押さえる。透は最後尾に回った。


 喰屍の肉縄が、背後から伸びる。


 透は黒鎖を振る。


 白い歯が灰になって散る。


 次は横から。


 灰糸で弾く。


 三本目は足元。


 踏み砕かず、跳ぶ。壁を蹴り、着地してまた走る。


 体がよく動く。


 動きすぎる。


 ほんの少し力を入れるだけで、前へ出すぎる。壁を蹴れば石が割れる。黒鎖を振れば、肉縄を払うだけのつもりで床まで抉りそうになる。


 透は自分に言い聞かせた。


 必要な分だけ。


 走るのも、払うのも、力を入れるのも。


 必要な分だけ。


 通路の先に、灰置き場の灯りが見えた。


 ルカの声が聞こえる。


「こっち!」


 灰置き場の者たちが、入口に布と骨杭で作った簡易の防壁を用意していた。炉の灰を撒き、喰屍の匂いを誤魔化す準備もしている。


 ガルドが先に飛び込む。


 女と少年が続く。獣人が老人と子どもを抱えたまま走り込み、リィンが最後に入口の封印針を打つ。


 透はまだ外にいた。


 喰屍の肉縄が、灰置き場の入口へ向かう。


 ここで入れたら終わる。


 透は入口の前で立ち止まった。


 黒鎖を両手で握る。


 右腕だけではない。


 左手も添える。


 体の奥の灰が、一気に流れようとする。


 強くなった体が、その流れに耐えようとする。


 だが、全部を流せば危ない。


 透は入口に意識を絞った。


 入れない。

 広げない。

 喰屍の本体までは追わない。

 ここを越えようとする飢えだけを落とす。


喰い止め(くいどめ)


 短く名付ける。


 灰糸が網のように広がった。


 喰屍の肉縄がそこへ突っ込む。


 衝撃。


 透の足が床に沈む。


 だが、下がらない。


 黒鎖が軋む。手甲が熱を持つ。左腕の古い傷が開きかける。


 それでも、肉縄の先端が枯れていく。


 喰屍が吠えた。


 奈落の空気が震える。


 透の耳元で灰が囁く。


 もっと喰え。

 全部喰え。

 そうすれば止められる。


 リィンの声が飛ぶ。


「トオル、そこまで!」


「まだ来る!」


「深く入ってる!」


 透ははっとした。


 灰糸が肉縄の奥へ伸びかけている。喰屍の本体へ届こうとしていた。届けば、確かにもっと力を奪える。だが同時に、喰屍の濁りを深く喰うことになる。


 それは駄目だ。


 透は黒鎖を引き戻した。


「入口までだ」


 灰が縮む。


 肉縄の先端だけが崩れ、残りは通路の奥へ引っ込んだ。


 リィンが封印針を床に打つ。


 青い線が入口を横切った。


 ルカが炉の灰を撒く。


 ガルドが骨杭を打ち込む。


 灰置き場の入口に、薄い幕のようなものが張られた。


 喰屍の肉縄がもう一度伸びてきたが、その幕に触れると動きが鈍った。灰の匂いが入口の気配を紛らわせ、青い封印が中の生きた匂いを薄く隠している。


 喰屍はしばらく通路の奥で蠢いていた。


 やがて、湿った音が少しずつ遠ざかっていった。


 透はその場に膝をついた。


 呼吸が荒い。


 汗が流れている。


 右腕が熱い。


 だが、立てないほどではなかった。


 それが逆に怖かった。


 あれだけ走り、喰屍を引き回し、何度も灰を使ったのに、体はまだ動こうとしている。疲労はある。痛みもある。だが、底が深くなっている。


 灰を喰った体は、もう以前の限界を覚えていない。


 リィンが駆け寄ってきた。


「腕」


「先に無事確認じゃないのか」


「腕」


「はい」


 透は右腕を差し出した。


 リィンは手甲と黒鎖を確認し、封印針の光を見た。手甲の灰路はいくつか熱を持っていたが、焼き切れてはいない。黒鎖も歪んではいるが、まだ使える。


 リィンはようやく息を吐いた。


「無事。ギリギリ」


「ギリギリ多いな、俺」


「減らして」


「努力する」


「約束」


「……約束する」


 ルカが近づき、透の前に水の入った器を差し出した。


「飲んで」


「助かる」


「あと、すごかった」


 ルカの片目が輝いていた。


「喰屍をひとりで引っぱって、戻ってきた。灰だまりの人でも、あんなことしない」


「しない方がいい」


「でも、助かった」


 透は器を受け取り、水を飲んだ。


 喉が焼けるように冷えた。


 灰置き場の中央では、落とされた者たちが座り込んでいた。女は子どもを抱いて泣いている。少年は呆然としている。老人は獣人の男に礼を言おうとして、言葉にならず頭を下げていた。


 獣人の男は首の封環を押さえながら、透を見ていた。


「お前、本当に落とされた側か」


「ああ」


「あの動きで?」


「落とされた後に、いろいろあった」


「ありすぎだろう」


「俺もそう思う」


 ガルドが近づいてきた。


「よく戻った」


「戻るって言ったからな」


「言っただけで戻れる場所ではない」


「でも戻った」


「そうだな」


 ガルドは灰の義手で透の肩を軽く叩こうとして、途中でやめた。


「今叩くと倒れそうだ」


「それは助かる」


 リィンが横から言う。


「倒れはしない。でも、手甲が熱い。休ませる必要がある」


「俺も休みたい」


「それはいい判断」


 透は立ち上がろうとして、少しふらついた。


 リィンが支えようとする。


 だが、その前に獣人の男が手を伸ばした。


「借りを返すまで倒れられると困る」


「借り?」


「俺と、あの老人と、子どもの分だ」


 獣人の男は透の腕を支えた。


 力強い手だった。


 だが、透の体はその力に押されても揺らがなかった。むしろ、男の方がわずかに目を見開く。


「……見た目より重いな」


「そうなのか?」


「芯が変だ。石みたいだ」


 リィンが静かに言う。


「灰が体を補強してる」


 獣人は眉をひそめた。


「灰を体に入れているのか」


「そういう職らしい」


「らしい?」


「俺もまだよくわかってない」


 獣人はしばらく透を見ていたが、やがて喉の奥で笑った。


「俺はバルザ。獣人族の傭兵だった。首輪を外してくれた分は返す」


「完全には外してない」


「痛みが薄れれば十分だ。あれがなければ、神官の腕を噛み千切っていた」


「それはそれで問題になりそうだな」


「もう落とされた。問題は終わった」


「終わってない。ここからだろ」


 バルザは一瞬だけ黙った。


 それから、獣のように歯を見せて笑った。


「そうか。ここからか」


 透は灰置き場を見渡した。


 新しく落とされた者たち。

 水と食料を得た灰だまりの住人たち。

 喰屍を遠ざけるための灰幕。

 炉に刻まれた名。

 そして、貯蔵庫に残る遠見灰鏡。


 地上は、まだ人を落としている。


 王国は、まだ何も終わっていない顔をしている。


 なら、ここで拾う。


 捨てられた者を。


 落とされた者を。


 透は右腕の黒鎖を握った。


 その腕は熱を持ち、痛み、灰で補強されている。


 もう、ただの人間の腕ではないのかもしれない。


 それでも、その腕で誰かを引き上げられるなら。


 透は、まだその変化を拒みきれなかった。


 リィンが静かに言う。


「休んで。次に動くために」


「次がもうあるのか」


「あると思う。地上は、また落とす」


「だろうな」


 透は目を閉じ、深く息を吐いた。


 喰屍の匂いは、まだ遠くに残っている。


 だが今、灰置き場には新しい息が増えた。


 落とされた者たちは、まだ終わっていない。


 透も、まだ終わらない。


 炉の灰が静かに揺れた。


 それはまるで、誰かの名を待っているようだった。


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