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第15話 灰だまりの盟約

 灰置き場に、新しい息が増えた。


 それは喜びだけではなかった。


 泣き声。咳。水を飲む音。誰かが名前を尋ねる声。答えられず、ただ震えるだけの沈黙。炉の灰色の火が、そのすべてを照らしている。


 落とされた者たちは、まだ奈落を理解していなかった。


 黒い扉の向こうへ押し出されたと思ったら、石床に叩きつけられ、喰屍に襲われ、見知らぬ灰の集落へ連れてこられたのだ。まともに話せる方がおかしい。


 透は壁際に座り、右腕をリィンに預けていた。


 灰殻の手甲は外していない。外せない、という方が近い。黒鎖ごと無理に外せば、手甲の中で熱を持った灰路が傷口のように開くかもしれないらしい。


 リィンは封印針を一本、手甲の隙間に当てていた。


 青い光が細く流れ、焼けた灰路を冷やしていく。


「痛い?」


「痛い」


「我慢できる?」


「できるけど、できるって言うと強めに続けるだろ」


「必要なら」


「正直すぎる」


 リィンは少しだけ目を伏せた。


「でも、今止めると後で困る。灰路が歪んだまま固まる」


「なら続けてくれ」


「わかった。痛かったら言って」


「もう言った」


「もっと痛かったら」


「はいはい」


「一回だけ」


「はい」


 リィンは満足したように、また封印針へ意識を戻した。


 青い光が右腕の中へ染みる。


 熱が少しずつ引いていく。代わりに、骨の奥が重くなるような感覚があった。灰が体の内側で沈み、焼けた場所を埋めている。傷を治すというより、壊れた道具を別の材料で補強しているようだった。


 透は左手を握る。


 力が入る。


 入りすぎる。


 手の中にあった水の器を、さっき危うく割りかけた。ルカに「器は大事」と真顔で注意されたばかりだ。


 自分の力加減がずれている。


 走る速度も、跳ぶ高さも、握る強さも。


 助けた命がある一方で、少し間違えれば壊していたものもある。


 透は息を吐いた。


 その時、目の前に大きな影が落ちた。


 バルザだった。


 獣人族の傭兵。肩幅が広く、腕も太い。落とされたばかりで傷だらけなのに、立っている姿だけで周囲の者たちを少し黙らせる迫力がある。


 首には、白い封環が残っていた。


 透が痛みの刻印を薄くしたおかげで、動くことはできる。だが、完全に外れたわけではない。白い輪はまだ喉元に食い込み、時折、薄い光を漏らしていた。


「その腕、まだ使えるのか」


 バルザが言った。


「休ませろって言われてる」


「なら俺の首輪は後か」


 透はバルザの首を見る。


 封環。


 王国か神殿の術式。


 命令に逆らう者を痛みで縛り、抵抗する力を奪う道具。


 あれを見ていると、奈落へ落とされる前にはめられた自分の枷を思い出す。


「外したいのか」


「当たり前だ」


「外すだけなら、たぶん壊せる」


 バルザの目が細くなる。


「なら頼む」


「でも、雑に壊すと首ごと焼けるかもしれない」


「……それは困るな」


「俺も困る」


 リィンが封印針を抜き、静かに言った。


「封環には持ち主の命令が残ってる。壊すなら、先に命令の線を抜かないと危ない」


「できるのか」


 バルザが問う。


 リィンは少し考えた。


「私だけでは難しい。トオルの灰だけでも危ない。二人でなら、少しずつ」


「また少しずつか」


「奈落では大事」


「それも聞いた」


 バルザは喉の奥で笑った。


「いい。首を吹き飛ばされるよりは、少しずつの方がいい」


 透は立ち上がろうとした。


 リィンがすぐに袖を掴む。


「今すぐは駄目」


「見るだけだ」


「トオルの見るだけは、触るところまで行く」


「信用ないな」


「ある。だから止めてる」


 透は反論しかけて、やめた。


 リィンの言い方は静かだが、目は本気だった。


 ガルドが近づいてきた。


「封環は後だ。まず落とされた連中の確認をする」


「人数は?」


「六人。女と子ども、焼き印の少年、耳長の爺、バルザ、それとまだ目を覚まさない男が一人」


「怪我は」


「全員ある。だが、死にはしない。水と食料が届いたのが大きい」


 ガルドの声は低いが、どこか重さが違った。


 昨日までは、灰置き場全体が少しずつ死に近づいていた。今は違う。水がある。食料がある。貯蔵庫へ続く道がある。完全な安全ではないが、息を伸ばすだけのものがある。


 その差は、住人たちの動きにも出ていた。


 老婆が水を薄め、ルカが器を運んでいる。片足の男が保存食を砕き、灰で汚れた布に並べる。誰かが落とされた者たちの名を聞き取って、炉のそばの石板へ書き留めている。


 名を失わないために。


 透はその様子を見ていた。


「ここ、少し変わったな」


 そう言うと、ガルドが鼻を鳴らした。


「水と食い物があれば、人は少しだけまともな顔をする」


「少しだけか」


「ここでは十分だ」


 またそれだ、と透は思った。


 だが、今はその言葉が少しわかる。


 十分。


 全部ではない。


 けれど、息を繋ぐには足りる。


 ガルドは炉の方を見た。


「それと、お前のせいだ」


「俺?」


「捨てられた者を拾った。水を持ち帰った。喰屍を引いて戻った。灰だまりの連中は、まだ半分疑っているが、半分は見た」


「半分ばっかりだな」


「全部信じるやつは早死にする」


「それも奈落基準か?」


「いや、地上でも同じだ」


 その言葉には、騎士だった男の苦さがあった。


 透はバルザを見た。


「王国のことを聞きたい」


 バルザの獣じみた耳がわずかに動く。


「俺にか」


「ああ。落とされる前、何を見た」


 バルザは少し黙った。


 喉元の封環が薄く光る。


 彼は不快そうにそれを指で弾いた。


「俺は北境の傭兵だ。魔王軍との小競り合いで雇われ、王国軍に加わっていた。だが、神殿の連中が獣人の部隊を前に出し、死んだら呪具の材料にすると聞いた」


「材料」


 透の声が低くなる。


「抗議したら、反逆だとよ。ついでに、俺が見たものは王国に都合が悪かったらしい」


「それで落とされたのか」


「そうだ。罪状は魔王軍との内通。笑えるだろ」


 バルザは笑わなかった。


 ガルドも黙っている。


 王国は、外れ職だけを落としているわけではない。


 罪人という名をつけ、反逆者という名をつけ、呪われた者という名をつけ、都合の悪い者を奈落へ沈めている。


 透は右腕の黒鎖を握った。


 強く握りすぎる前に、リィンが手を重ねる。


「器」


「あ」


 透は器を持っていなかった。


 握っていたのは黒鎖だけだ。


「今のは何の注意だ?」


「気持ち」


「そっちか」


「怒ると灰が出るから」


「……悪い」


「怒るなとは言ってない」


 リィンの声は静かだった。


「ただ、喰べるものを間違えないで」


 透は息を吐いた。


「ああ」


 バルザはそのやり取りを見て、低く笑った。


「灰喰いの手綱役か」


「手綱って言い方は嫌」


 リィンが即答した。


 バルザが片眉を上げる。


「なら何だ」


「止める役。あと、戻す役」


「戻す?」


「トオルが、トオルのまま戻るようにする」


 バルザはリィンをしばらく見た。


 それから、少しだけ真面目な顔になる。


「いい役だな」


「うん。大事」


 リィンは短く答えた。


 そこに、ルカが駆け寄ってきた。


「ガルド、眠ってた人が起きた。でも、変」


 ガルドの表情が変わる。


「どこだ」


「水の棚の横」


 全員がそちらへ向かった。


 灰置き場の端、布を敷いた場所に、落とされた男が寝かされていた。年は三十前後。痩せていて、片頬に火傷の痕がある。目は開いているが、焦点が合っていない。


 男は天井を見ながら、同じ言葉を繰り返していた。


「門が、ずれる。門が、ずれる。下じゃない。横へ。横へ。灰が、戻ってくる」


 透は足を止めた。


 リィンが男のそばに膝をつく。


「この人、術師?」


 ルカが小声で言った。


「手に魔法陣の跡がある」


 男の手首には、焼き切れたような魔法陣が刻まれていた。神官のものとは違う。もっと実務的で、細かい線が多い。


 ガルドが眉をひそめる。


「奈落門の管理術師か」


 男の目が、ぎょろりと動いた。


「管理じゃない。補修。補修だけだ。俺は落とす側じゃない。違う。違うんだ」


 彼は震えながら頭を抱えた。


「門が壊れてる。神殿は知ってる。知ってて開けてる。だから、落ちる場所がずれる。奈落の灰が、上へ逆流する」


 透とリィンは顔を見合わせた。


「上へ逆流?」


 透が言うと、男は彼を見た。


 その瞬間、男の顔が凍りついた。


「灰喰い……?」


 周囲が静かになる。


 男は後ずさろうとしたが、体が動かない。恐怖だけで息が詰まっている。


「違う。俺は知らない。あんたの職を隠したのは神官長だ。俺じゃない」


 透の胸の奥が、冷たく沈んだ。


 リィンの手が黒鎖に触れる。


 ガルドが低く言う。


「今、何と言った」


 男は自分が口を滑らせたことに気づいたらしい。


 顔が真っ青になる。


「知らない。俺は記録を見ただけだ。召喚前の職能照合で、灰喰いの反応が出た。だが、神官長は災厄職として処理すると決めた。古い記録は封じられた。俺は、ただ補修術師で……」


「待て」


 透は静かに言った。


 自分でも驚くほど、声が低かった。


 灰は漏れていない。


 怒りが深すぎて、逆に冷えている。


「召喚前から、俺が灰喰いだとわかっていたのか」


 男は口を開けたまま固まった。


 答えなくても、顔でわかった。


 リィンが小さく息を吸う。


「王国は、灰喰いの古い記録を知っていた」


 ガルドの灰の義手が軋む。


「災厄と呼びながら、役目を知って捨てたのか」


 男は震えながら首を振る。


「俺は詳しくない。神官長と上位神官だけだ。灰喰いは奈落に落とすべきだと……いや、違う。奈落を鎮めるために必要だと……でも、勇者召喚に混じった以上、表には出せないと……」


 透は右腕を見た。


 灰殻の手甲。黒鎖。焼けた灰路。喰屍を引き、呪いを削り、水を運んだ腕。


 王国は、知らずに捨てたのではない。


 知っていて、捨てた。


 災厄と呼んだのは、無知ではなく、都合だった。


 その事実が、胸の奥に重く落ちる。


 灰が囁いた。


 喰え。

 この男の記憶を喰え。

 知っていることを全部奪え。

 神官長の顔も、記録も、門の仕組みも。


 透は男を見た。


 怯えている。


 嘘もあるだろう。隠していることもあるだろう。だが、今ここで記憶ごと喰えば、この男は壊れる。


 それは違う。


 透は黒鎖から手を離した。


「名前は」


 男は震えた。


「……セイル」


「セイル。知っていることを話せ。話すなら、喰わない」


「話さなければ?」


 透は少しだけ黙った。


 それから言った。


「ガルドが怒鳴る」


 ガルドが片目で透を見る。


「俺か」


「適任だろ」


「間違ってはいない」


 緊張していたルカが、少しだけ変な顔をした。笑いかけたのを堪えたようだった。


 セイルは混乱したように透たちを見回す。


 想像していた灰喰いと違ったのだろう。


 透は続けた。


「俺は、知りたい。なぜ落とされたのか。奈落門が壊れてるなら、次に誰が落ちるのか。地上へ灰が戻るって何なのか」


 セイルは喉を鳴らす。


「話せば、ここに置いてくれるのか」


 ガルドが答えた。


「働くならな」


「何をすれば」


「門を知っているなら、道を見る。灰置き場の封を補修する。水を運ぶ。逃げない。嘘をつかない」


「逃げても、外は喰屍だぞ」


 バルザが低く言った。


「ここにいる方がましだ」


 セイルは顔を歪めた。


 地上の術師だった男が、奈落で捨てられた者たちに囲まれている。


 立場が逆になった。


 だが、透はそれを面白いとは思わなかった。


 王国はこの男も捨てた。


 口封じか、失敗の責任を押しつけたのかはわからない。ただ、彼も黒い扉の向こうへ落とされた。


 透はリィンを見る。


 リィンは小さく頷いた。


「聞こう。今は、情報が必要」


「だな」


 セイルは水を一口飲み、震える声で話し始めた。


「奈落門は、本来は一方通行だ。地上から奈落へ落とすための穴じゃない。封印を点検するための管理路だった。だけど、神殿は処分に使ってる」


 ガルドの目が細くなる。


「昔からか」


「少なくとも、俺が神殿に入る前から」


「続けろ」


「門は歪んでいる。使いすぎたんだ。奈落側に灰が溜まり、地上側の術式に逆流している。神官長は勇者召喚で大聖杯を満たせば修復できると言っていた。でも……」


 セイルは唇を噛んだ。


「たぶん、無理だ。勇者の光は魔物には効く。でも、灰の歪みには合わない。むしろ、門の奥に影を作る」


 透は鏡で見た相良の光を思い出す。


 明るすぎる光。


 攻撃の前に膨らむ魔力。


 強い。


 だが、灰とは噛み合わない。


 リィンが静かに言った。


「灰を鎮めるには、灰喰いが必要だった」


 セイルは目を逸らした。


「古い記録には、そうあった。でも、灰喰いを表に出せば、勇者召喚の正統性が揺らぐ。災厄職を召喚したと知れれば、王国が責められる。だから……」


「だから、落とした」


 透が言った。


 セイルは答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 透は拳を握った。


 今度は器を壊さない。


 黒鎖も鳴らさない。


 ただ、爪が掌に食い込む。


 痛みがある。


 その痛みで、灰が少し静まる。


 リィンがそっと言う。


「トオル」


「大丈夫だ」


「大丈夫じゃなくても、ここにいる」


 透はリィンを見た。


 青い瞳が、まっすぐこちらを見ている。


「……助かる」


「それならいい」


 セイルは二人の様子を見て、少しだけ声を落とした。


「もう一つある」


「何だ」


「勇者の訓練が早すぎる。普通、異界から来た者は魔力に体が馴染むまで時間がかかる。だが、勇者たちは異常に早く力を出している」


「いいことじゃないのか」


 バルザが言う。


 セイルは首を振った。


「たぶん、灰喰いが召喚直後に汚染を吸っていた。無意識に。だから、他の召喚者は魔力酔いを起こさなかった」


 透は黙った。


 ガルドが低く笑った。


 笑いというより、怒りに近い音だった。


「捨てた後で、困るやつだな」


「もう兆候は出ている」


 セイルは言った。


「聖女の治癒に濁りが出た。賢者の魔法陣が崩れた。勇者の光も、強くなりすぎて制御が荒い。神官長は隠しているが、このままだと召喚者たちは壊れる」


 三枝美琴の白い腕輪。


 相良の眩しすぎる光。


 透は目を閉じた。


 ざまあみろ、と思う気持ちはある。


 だが、美琴もいる。


 助けようとしてくれた者まで壊れるのは違う。


 透は息を吐いた。


「地上へ行く道はあるのか」


 セイルは怯えたように目を上げる。


「奈落門を逆に使うのは無理だ。門が壊れてる。上へ出るなら、昇降坑か、古い灰の管理路を使うしかない」


 リィンが地図を広げる。


「灰置き場から貯蔵庫、灰道、昇降坑。やっぱり繋がる」


「行けるか」


「今すぐは無理。封を整えないと、途中で奈落縛りに捕まる」


 ガルドが頷く。


「なら、拠点を固める。水、食料、封印、見張り。落とされた者の名も刻む。ここを、ただの灰だまりで終わらせない」


 その言葉に、周囲の者たちが少しざわめいた。


 ただの灰だまりで終わらせない。


 透は炉を見た。


 名を刻まれた石。灰色の火。拾われた者たち。まだ怯えている新入りたち。呪いを抱えたルカ。封環をつけたバルザ。嘘と恐怖を抱えたセイル。


 ここは弱い。


 危うい。


 喰屍が本気で押し寄せれば、すぐに崩れるかもしれない。


 それでも、ここには戻る場所がある。


 透は静かに言った。


「なら、俺も手伝う」


 ガルドが片目を向ける。


「手伝う、で済むと思うか」


「何がだ」


「お前が拾った。お前が水を持ってきた。お前が喰屍を引いた。お前が灰を削れる。ここの連中は、もうお前を見る」


「見るだけなら勝手だろ」


「違う。見てしまえば、期待する」


 透は返事に詰まった。


 期待。


 それは重い。


 教室では、期待などされたことがなかった。いてもいなくても同じ。そんな扱いの方が多かった。


 だが、ここでは違う。


 灰置き場の者たちは、透を見る。


 怖がりながら。


 疑いながら。


 それでも、見てしまう。


 灰を喰い、呪いを削り、落とされた者を連れて戻った少年を。


 透は右腕を見る。


 その腕はまだ熱い。


 痛みもある。


 けれど、動く。


「俺は、王様とか、そういうのは無理だぞ」


 ガルドが呆れたように眉を上げた。


「誰も王にしようとは言っていない」


「ならいい」


「だが、旗にはなる」


「それも嫌だ」


「嫌でも、目印は必要だ。奈落で迷った者が、どこへ向かえばいいかを示すものがな」


 リィンが静かに言った。


「灰の目印」


 ルカがぱっと顔を上げる。


「それ、いい。迷った人が来られる」


 バルザが腕を組む。


「喰屍も来るぞ」


「だから守る」


 ガルドが言う。


「灰置き場の入口を増やし、隠し、必要な時だけ開く。リィンが封を打つ。セイルが門の歪みを見る。透が呪いを削る。俺とバルザで戦える者をまとめる」


 セイルが震えた。


「俺も?」


「働くと言っただろ」


「まだ言ってない」


「なら今言え」


「……働く」


「よし」


 ガルドの進め方は強引だった。


 だが、不思議と場が動いた。


 片足の男が「見張りならできる」と言った。老婆が「名を刻む石を増やす」と言った。焼き印の少年が「水を運べます」と小さく言った。


 女は子どもを抱いたまま、まだ何も言えない。


 それでいい。


 今は息をしていればいい。


 透は炉の前に立った。


 灰色の火が揺れている。


 この場所が拠点になる。


 奈落の底に落とされた者たちが、ただ朽ちるのではなく、息を繋ぐ場所になる。


 そのためには、道がいる。水がいる。食料がいる。封印がいる。戦える者がいる。


 そして、灰を削れる手がいる。


 透は右腕を握った。


 力を入れすぎないように。


 壊さないように。


 それでも、逃げないように。


「ガルド」


「何だ」


「まず、入口の幕を強くする。喰屍がまた来る前に」


「腕は休ませるんじゃなかったのか」


 リィンが言う。


 透は少しだけ肩をすくめた。


「深く喰わない。炉の灰と封印針を使って、匂いを散らすだけだ」


「私が見る」


「頼む」


「無茶したら刺す」


「どこに?」


「床。たぶん」


「そこは決めておいてくれ」


 ルカが笑った。


 小さな笑いだった。


 灰置き場に、ほんの少しだけ柔らかい空気が生まれる。


 透は入口へ向かった。


 外の通路には、まだ喰屍の湿った匂いが残っている。赤黒い苔の向こうで、何かが蠢く気配もある。


 安全にはほど遠い。


 けれど、ここには人がいる。


 名前がある。


 戻る場所がある。


 透は黒鎖に指をかけた。


「やるぞ」


 リィンが隣に並ぶ。


「うん。今度は、広げすぎないで」


「わかってる」


「本当に?」


「半分くらい」


「そこは全部って言って」


「全部わかってる」


「嘘っぽい」


「難しいな」


 ガルドが後ろで低く笑った。


 炉の灰が、入口へ運ばれてくる。


 青い封印針が光る。


 透は灰を伸ばした。


 喰うためではない。


 守るために。


 灰置き場は、その日から少しずつ形を変え始めた。


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