第16話 灰は傷を塞ぐ
灰置き場の入口には、炉の灰が撒かれた。
ただ床に広げるだけではない。
リィンが青い封印針を打ち、セイルが震える手で古い門術式の線を読み、透がそこへ灰を通す。ガルドは骨杭を打ち込み、バルザはまだ封環をつけたまま、大きな岩を片手で運んでいた。
それぞれが、できることをした。
最初は、誰も透の近くに寄ろうとしなかった。
灰喰い。
その名は、灰置き場の者たちにとっても恐怖だった。呪いを削る手であり、同時に、何もかも喰い尽くすかもしれない手でもある。
だが、透が炉の灰を入口へなじませ、喰屍の匂いを散らす灰幕を作り始めると、少しずつ人が動いた。
片足の男が骨杭を持ってきた。
老婆が炉の灰を小さな壺に分けた。
焼き印の少年が、水で湿らせた布を運んだ。
ルカは行ったり来たりしながら、誰が何を必要としているかを覚えていった。
まだ拠点と呼ぶには弱い。
けれど、ただの隠れ場所ではなくなり始めていた。
「そこ、灰を厚くしすぎるな」
ガルドが言った。
透は入口の床に手をかざしたまま、顔を上げる。
「厚い方が強いんじゃないのか」
「喰屍は灰を嫌うが、濃すぎる灰は逆に呼び水になる。死骸の山に獣が寄るのと同じだ」
「面倒なやつだな」
「奈落の魔物は、だいたい面倒だ」
ガルドは当然のように言った。
透は灰を少し引いた。
広げすぎない。
深く沈めない。
入口を隠すための灰だけを残す。
黒鎖を通じて、炉の灰が薄く床に染みていく。青い封印線がその上から重なり、灰置き場の入口に、目に見えない膜ができていった。
喰うための灰ではない。
隠すための灰。
守るための灰。
戻る場所の匂いを、外へ漏らさないための灰。
透は息を吐いた。
「こんな感じか」
リィンが入口の線を見つめる。
「悪くない。喰屍の匂いを少し逸らせると思う」
「少しか」
「少しは大事」
「またそれか」
「本当だから」
リィンは真面目に頷いた。
セイルが少し離れた場所で、膝をついたまま術式を見ていた。顔色は悪い。だが、目はさっきより少しだけ術師のものに戻っている。
「灰の流れが、門術式と似ている」
セイルが呟いた。
透が振り返る。
「何かわかったのか」
「奈落門は、灰を完全に拒んでいるわけじゃない。むしろ、灰を流すための逃げ道があった。神殿がそれを塞いだせいで、歪みが溜まっている」
「つまり?」
「灰を全部消そうとしたから、逆に壊れた」
セイルは苦い顔で言った。
「神官長は、浄化と言っていた。でも、たぶん違う。灰は消すものじゃない。流して、眠らせるものだった」
リィンが静かに言う。
「灰の番人の役目」
セイルはその言葉にびくりとした。
「その名を、知っているのか」
「少しだけ」
「神殿では禁書扱いだった。灰喰いとは呼ばず、古い記録では灰の番人と……」
セイルはそこまで言って、透を見た。
怯えと、後ろめたさと、ほんの少しの期待が混ざった目だった。
透はその視線が苦手だった。
期待されることに、まだ慣れない。
「今は名前より、入口だ」
「……ああ」
セイルは頷き、術式の線へ視線を戻した。
その時、灰置き場の外で何かが鳴った。
こつん。
石が転がるような、小さな音。
全員が止まった。
喰屍の湿った音ではない。骸骨兵の骨が鳴る音とも違う。もっと軽く、乾いた音だった。
ガルドが手を上げる。
周囲の者たちが黙って下がった。
バルザが低い声で言う。
「何かいる」
「ああ」
透も感じていた。
灰幕の外側に、細い気配がある。
一つではない。
複数。
小さく、速い。
ルカが顔をこわばらせた。
「灰鼠かも」
「灰鼠?」
「物をかじる。肉もかじる。群れで来る」
説明を聞いた瞬間、入口の膜が揺れた。
灰色の小さな影が、膜の隙間から飛び込んでくる。
鼠に似ていた。
だが、普通の鼠ではない。背中に骨の棘が並び、口は顔の半分ほどまで裂けている。目は黒く、腹の下から灰をこぼしていた。
一匹目が飛び込んだ直後、二匹、三匹、さらに奥から何匹も続いた。
灰幕は喰屍のような大きな魔物を逸らすには効いていたが、小さな魔物の群れにはまだ隙があった。
「下がれ!」
ガルドが叫んだ。
灰鼠が散る。
水瓶へ向かうもの。保存食の箱へ向かうもの。寝ている子どもの方へ走るもの。
透の体が先に動いた。
右腕はまだ熱い。
だが、止まっている場合ではない。
黒鎖が床を走る。
灰糸が鼠の足元を払った。骨の棘や肉をまとめて喰うのではなく、動きを支えている灰の筋だけを抜く。三匹が転がり、ガルドの骨杭に叩き落とされた。
バルザが低く唸り、灰鼠を踏み潰す。
封環が白く光った。
バルザの体が一瞬強張る。
「ちっ……!」
「動くな、封環が反応してる!」
セイルが叫んだ。
「うるせえ。動かなきゃ食われる」
バルザは痛みを無視し、もう一匹を蹴り飛ばした。
リィンが封印針を入口へ打つ。
青い線が床を走り、灰鼠の群れの進路を一瞬だけ止める。
「トオル、左!」
ルカの声。
透は振り返る。
灰鼠が一匹、女の抱く子どもへ飛びかかっていた。
距離がある。
灰糸では間に合わない。
透は踏み込んだ。
速すぎる。
床が砕け、体が前へ飛ぶ。加減を間違えたと気づいた時には、もう子どもの前に出ていた。
灰鼠の牙が、透の左脇腹へ食い込む。
「っ……!」
痛みが走った。
牙が肉を裂き、黒い毒のようなものが傷口へ流れ込む。灰鼠は小さいが、食いつく力は異様に強い。引き剥がそうとすれば肉ごと持っていかれる。
透は左手で灰鼠を掴んだ。
潰さないように。
力を入れすぎると、中の毒が傷へ広がる。
灰を通す。
鼠の体を全部喰わない。牙の根元、毒の袋、食らいつく意志。そこだけを灰糸が撫でた。
灰鼠が力を失い、ぽろりと落ちる。
透はそれを足で弾き、入口の外へ飛ばした。
直後、脇腹から血が溢れた。
女が悲鳴を上げる。
「トオル!」
リィンの声が鋭くなる。
透は傷を押さえた。
熱い。
黒い毒が皮膚の下を這おうとしている。
体の奥の灰が、一斉に動いた。
喰え。
毒を喰え。
傷を埋めろ。
灰で塞げ。
動け。
まだ倒れるな。
透は歯を食いしばった。
傷口から灰が滲む。
血と混ざり、黒灰色の泥のようになって脇腹を塞いでいく。肉が戻るわけではない。切れた場所を、灰が内側から押さえ込んでいる。
痛みは消えない。
むしろ、熱と冷たさが同時に走り、吐き気がした。
だが、血は止まった。
透は息を荒げながら立っていた。
リィンが駆け寄り、傷を見る。
「動かないで」
「まだ鼠が」
「ガルドとバルザがやってる。トオルは動かない」
言われた通り、灰鼠の群れはほとんど片づいていた。
ガルドの骨杭が的確に鼠を串刺しにし、バルザが封環の痛みに顔を歪めながらも、残りを壁へ叩きつけている。ルカも小さな骨棒を持ち、保存食の箱へ近づいた一匹を必死に追い払っていた。
最後の一匹が入口へ逃げようとする。
セイルが震えながら手を上げた。
床の古い術式が光り、灰鼠の足元が一瞬沈む。
バルザの踵が落ちた。
湿った音。
灰置き場に、静けさが戻った。
透はようやく膝をついた。
リィンが脇腹に手を当てる。
青い光が傷口の周りをなぞった。
彼女の表情が硬い。
「治ってない」
「血は止まったぞ」
「塞いだだけ。灰で、無理やり」
「動けるなら十分だ」
「十分じゃない」
リィンの声が、いつもより強かった。
透は黙った。
リィンは傷口を見つめたまま続ける。
「肉が戻ったわけじゃない。灰が穴を埋めてる。このまま動いたら、傷の形で灰が固まる。何度もやったら、体の中が灰の継ぎ目だらけになる」
「それは、まずいのか」
「まずい」
即答だった。
「灰が増えれば、体は強くなる。でも、トオルの体がトオルのものじゃなくなっていく」
その言葉は、灰鼠の牙より深く刺さった。
透は脇腹に触れた。
皮膚の下に、硬いものがある。
肉ではない。
灰で固めた板のような感触。
痛い。
だが、立てる。
便利だ。
そして、怖い。
「自己回復っていうより、補修か」
透が呟くと、リィンは頷いた。
「うん。治癒じゃない。灰補修」
「かっこよくないな」
「でも、正しい」
「それは大事か」
「とても」
透は苦笑しようとして、脇腹が痛んでやめた。
バルザが近づいてきた。
彼の首の封環はまだ薄く光っている。痛みをこらえたせいか、額に汗が浮かんでいた。
「その傷で立ってたのか」
「立ってただけだ」
「普通は倒れる」
「俺も倒れたい」
「なら倒れろ」
「今はちょっと格好がつかない」
バルザは呆れた顔をした。
それから、女と子どもの方を見る。
女は震えながら子どもを抱きしめていた。子どもは泣いている。だが、傷はない。
バルザは透へ視線を戻した。
「お前が入らなければ、あの子は食われていた」
「たまたま間に合っただけだ」
「たまたまで腹を裂かれて立つやつは、そういない」
ガルドが灰鼠の死骸を入口の外へ放り捨てながら言った。
「入口の幕に穴がある。小さいものへの対策が足りなかった」
「悪い」
透が言うと、ガルドは眉をひそめた。
「お前一人のせいではない」
「でも、俺が作った」
「俺たちも見逃した。なら、全員の失敗だ」
その言い方に、透は少しだけ目を伏せた。
全員の失敗。
教室では、失敗はいつも誰か一人に押しつけられた。
ここでは違うらしい。
リィンが脇腹に封印針を近づける。
「少し固定する。痛い」
「もう痛い」
「もっと」
「先に言わなくていい」
「言う」
青い針が傷口の近くの布に刺さった。
痛みが走る。
透は息を詰めた。
灰で塞いだ傷が、青い封印に締められる。内側で暴れようとしていた灰が少し落ち着き、硬すぎた補修部分が柔らかくなる。
「これで、しばらくは動ける。でも、走らない。跳ばない。喰べすぎない」
「注文が多い」
「守って」
「……わかった」
「約束」
「約束する」
リィンはようやく手を離した。
ルカが近づいてくる。
手には、さっき使っていた骨棒を握ったままだ。震えているが、逃げなかった顔をしている。
「トオル、血、止まった?」
「止まった」
「ほんとに?」
「たぶん」
ルカはリィンを見る。
リィンが頷いた。
「今は止まってる」
「よかった」
ルカはその場にへたり込みそうになったが、踏みとどまった。
「ぼく、保存食守った」
「見てた。助かった」
「うん」
短い返事だったが、ルカの顔には少しだけ誇りがあった。
ガルドが周囲に指示を出す。
「鼠の穴を探せ。入口だけじゃない。壁の隙間も塞ぐ。食料は炉の近くに移せ。水瓶は二重に囲え」
「俺もやる」
透が立とうとすると、リィン、ガルド、バルザの三人が同時に見た。
透は立ち上がる途中で止まった。
「……休む」
「いい判断」
リィンが言った。
バルザが喉の奥で笑う。
「お前、止められる人数が増えてきたな」
「嬉しくない」
「必要だろう」
「それは否定できない」
透は壁際へ戻り、腰を下ろした。
脇腹が重い。
灰で塞がれた傷は、体の中に異物を抱えているようだった。だが、同時にそこから力が流れてくる。毒を喰い、傷を塞いだ灰が、透の体へ少しずつ馴染んでいる。
回復力が上がる。
耐久も増す。
次に同じ牙を受けても、もう少し深く耐えられるかもしれない。
けれど、そのたびに人間の体から遠ざかる。
透は目を閉じた。
強くなることは、ただ気持ちいいだけではなかった。
代わりに、何かを置いていく。
その事実を、脇腹の硬い痛みが教えてくる。
しばらくして、バルザが隣に腰を下ろした。
大柄な体が座ると、石床が少し鳴った。
「お前、王にはなりたくないと言ったな」
「またその話か」
「今のを見て、思った」
「何を」
「俺のいた傭兵団では、先頭で血を流すやつに人がついていった。命令が上手いやつでも、金を持ってるやつでもない。自分が傷ついても、後ろのやつを食わせないやつだ」
透は黙っていた。
バルザは灰置き場を見渡す。
「ここは弱い。だが、牙はある。ガルドは兵を知っている。リィンは封を知っている。セイルは門を知っている。俺は戦える。ルカは道を覚える。ほかにも、使えるやつはいる」
「使えるって言い方は好きじゃない」
「なら、立てるやつはいる」
「そっちの方がいい」
バルザは少しだけ笑った。
「だが、向かう先がいる。誰かが決めなきゃ、みんな勝手に怖がって、勝手に逃げて、勝手に死ぬ」
「ガルドが決めればいい」
「あいつは守るのが上手い。だが、拾うのはお前だ」
透は返事ができなかった。
バルザは続ける。
「さっきの子どもを助ける時、お前は考えなかった。先に体が動いた。そういうやつの後ろには、人が集まる」
「危ないだけだ」
「危ないから、強いやつが隣に立つ」
バルザは自分の首に触れた。
白い封環。
「この首輪を外せ。完全に」
「今は無理だ」
「いつかでいい」
「外したら?」
バルザは獣の目で透を見た。
「俺の牙は、お前の敵に向ける」
透は息を止めた。
その言葉は軽くなかった。
傭兵の礼でもない。借りを返すというだけでもない。
もっと深い、獣の誓いに近かった。
「俺に従うってことか」
「お前が変な命令をしなければな」
「条件付きかよ」
「当然だ。俺は奴隷じゃない」
「その方がいい」
バルザは笑った。
「だが、戦場でお前が前へ出るなら、俺は横に立つ。逃げろと言われても、必要なら残る。王と呼ぶにはまだ早いが……」
そこで彼は、わざと口の端を上げた。
「灰だまりの王様候補くらいではある」
「やめろ」
透は即答した。
バルザは声を殺して笑う。
「嫌がると思った」
「わかってて言うな」
「嫌がる王は珍しい」
「王じゃない」
「今はな」
透は言い返そうとして、脇腹が痛んだ。
顔をしかめる。
バルザが真顔に戻る。
「休め。王様候補」
「その呼び方を続けたら、首輪外すの後回しにする」
「それは困るな」
バルザは立ち上がった。
「なら、今は透でいい」
「今もこれからもそれでいい」
「考えておく」
「考えるな」
バルザは笑いながら、ガルドの方へ歩いていった。
透は壁にもたれ、深く息を吐いた。
王。
そんなものにはなりたくない。
重すぎる。
似合わない。
けれど、灰置き場の者たちはもう、ただ隠れて震えているだけではなくなっている。水を運び、食料を守り、入口を塞ぎ、名前を刻み、役目を探し始めている。
その中心に、透は立たされつつあった。
自分で選んだつもりはない。
でも、拾うことは選んだ。
見捨てないことも、選んだ。
なら、その先にあるものからだけ逃げるのは、都合がよすぎるのかもしれない。
リィンが隣に座った。
「聞こえてた」
「どこから?」
「王様候補」
「忘れてくれ」
「難しい」
「リィンまで言うなよ」
「私は言わない。まだ」
「まだ?」
リィンは少しだけ首を傾げた。
「トオルがトオルのままなら、呼び方は後で決めればいい」
「呼ばない方向で頼む」
「努力する」
「それ、俺がよく言うやつだな」
「うつった」
透は苦笑した。
脇腹は痛い。
右腕も熱い。
灰置き場はまだ弱い。
喰屍も、灰鼠も、奈落縛りも、神殿も、何も終わっていない。
それでも、さっきより少しだけ入口は固くなった。水と食料は守られた。バルザは牙を向ける先を決めた。ルカは保存食を守った。セイルは術式を見た。
小さな変化だ。
けれど、小さな変化は積もる。
灰のように。
透は目を閉じた。
体の中で、傷を塞いだ灰が静かに沈んでいく。
治ったわけではない。
それでも、立つための形にはなった。
なら今は、それでいい。
炉の火が揺れた。
灰置き場の奥で、誰かが新しい骨杭を打つ音が響く。
こつん。
こつん。
それは、まだ小さな拠点が、自分の骨を作り始める音だった。




