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第17話 灰域

 灰置き場は、静かにならなかった。


 喰屍が去った後も、灰鼠の死骸を捨てた後も、空気の奥にはざわつきが残っている。誰も大声では話さない。だが、誰も完全には座り込まない。


 水瓶の周りには骨杭が増えた。保存食の箱は炉の近くへ移され、布と灰で覆われている。入口には灰幕が張られたが、小さな魔物を通したせいで、誰もそれを完全には信用していなかった。


 透も同じだった。


 壁際に座り、脇腹を押さえる。


 灰鼠に食われた傷は、血こそ止まっている。だが、皮膚の下に灰の板を埋め込まれたような硬さがあった。動けば痛い。息を深く吸えば、灰の継ぎ目が体の内側で軋む。


 治ったわけではない。


 塞いだだけ。


 リィンの言葉が、ずっと残っている。


「トオル、寝て」


 隣でリィンが言った。


「寝られる状況か?」


「寝ないと、灰が馴染まない」


「目を閉じたら鼠が来そうで嫌なんだよ」


「それは、私も嫌」


「だろ」


「でも、寝て」


「説得が戻った」


 リィンは透の脇腹に視線を落とす。


「このまま起きていると、傷を塞いだ灰が固まりすぎる。動くたびに肉を削る」


「怖い説明を後から足すな」


「先に言うと、トオルが動くから」


「信用が低い」


「経験」


 透は返す言葉を失った。


 確かに、言われてからも動こうとしている。


 灰置き場の入口では、ガルドとバルザが防壁の補強を続けていた。バルザは封環の痛みで時々首を押さえているが、それでも岩を運ぶ手は止めない。ガルドは骨杭の位置を調整し、どこに見張りを立たせるかを決めている。


 ルカは水瓶と保存食の間を行ったり来たりしていた。片手に小さな骨棒を持ち、もう片方の手で灰を入れた壺を抱えている。さっき保存食を守ったことで、本人なりに見張りのつもりらしい。


 小さい背中だった。


 その背中を見ていると、目を閉じる気になれなかった。


「眠れないなら、目を閉じるだけでもいい」


 リィンが言った。


「それ、寝るのと何が違うんだ」


「寝たら私が勝ち」


「勝負だったのか」


「少し」


 透は小さく息を吐いた。


 脇腹が痛む。


 笑うだけでも響く。


「じゃあ、少しだけ」


「うん」


 透は壁にもたれ、目を閉じた。


 暗くなる。


 すぐに、奈落の音が大きくなった。


 炉の灰が揺れる音。誰かが布を引きずる音。水瓶の蓋を押さえる骨杭がきしむ音。遠くの通路で石が落ちる音。バルザの荒い呼吸。ルカの軽い足音。リィンの指が封印針に触れる、かすかな金属音。


 目を閉じると、聞こえすぎる。


 いや、聞こえているだけではなかった。


 空気の中に漂う灰が、動いている。


 透の周りに、薄い灰がある。


 炉から舞った灰。灰幕から剥がれた灰。透の手甲から漏れた灰。灰鼠の死骸を運んだ時に散った灰。誰かの靴に踏まれて砕けた古い骨粉。


 それらが、音より先に揺れる。


 誰かが動くと、灰が押される。


 息を吐くと、灰が流れる。


 入口の外で空気が震えると、灰がざらつく。


 透は目を閉じたまま、眉を寄せた。


「リィン」


「寝て」


「違う。灰が変だ」


 リィンの気配が近づく。


「痛い?」


「痛いけど、それじゃなくて。周りの灰が……見える、じゃないな。触ってる感じがする」


 リィンが息を止めた。


「どこまで?」


「わからない。近く。炉の方と、入口の方。ルカが動いてるのはわかる」


 少し離れた場所で、ルカが足を止めた。


「え、ぼく?」


 透は目を開けた。


 ルカは水瓶の横にいた。


 見えていたわけではない。


 でも、わかった。


 軽い足音。灰を踏む小さな重さ。壺を抱えているせいで、歩く時に少しだけ体が右へ傾く。その動きが、床の灰を通じて透の中へ入ってきていた。


 透は困惑して、自分の手を見た。


「何だ、これ」


 リィンは真剣な顔になっていた。


「灰が、領域になってる」


「領域?」


「トオルの灰が、周りの灰と繋がってる。目や耳じゃなくて、灰で周囲を触ってる」


「俺、何もしてないぞ」


「傷を塞ぐために灰が体の外まで少し漏れてる。その灰が、炉の灰と混ざったのかもしれない」


「漏れてるって、まずくないか」


「広がりすぎたらまずい。でも、今は薄い」


 リィンは透の右腕に触れた。


 灰殻の手甲の隙間から、灰が糸よりも細い霧のように流れている。目を凝らさなければ見えないほど薄い。それが床を這い、炉の灰や入口の灰幕と繋がっていた。


 透は喉を鳴らした。


「これで、鼠が来るのもわかるのか」


「たぶん。でも、試さないとわからない」


「試す?」


 リィンはルカを見た。


「ルカ、ゆっくり歩いて」


「どこを?」


「トオルの見えないところ」


「うん」


 ルカは少し緊張した顔で、透の背後へ回った。


 透は目を閉じる。


 足音を聞くな。


 空気を読むな。


 灰を見る。


 床に薄く広がった灰が、ルカの足で押される。小さな重さ。片目を布で覆っているせいか、時々歩幅が短くなる。骨棒を握っている手の位置まではわからない。ただ、どこにいるかはぼんやり掴める。


「右後ろ。五歩くらい」


 透が言うと、ルカが息を呑んだ。


「当たり」


 リィンが頷く。


「もう少し離れて」


 ルカが離れる。


 透は灰を追った。


 遠くなるほど輪郭がぼやける。炉の近くは灰が多く、逆にいろいろな気配が混ざってわかりづらい。入口の方は灰幕と繋がっているせいで、外の空気のざらつきまで流れ込んでくる。


 頭が痛くなった。


「左。炉の近く。でも、ぼやける」


「当たり。無理しないで」


「いや、もう少し」


「トオル」


「少しだけ」


 リィンの目が細くなった。


「その少しで倒れる」


「まだ倒れてない」


「倒れる前に止める話」


 透は渋々、灰を引いた。


 床に広がっていた感覚が薄れる。


 同時に、目の奥がずんと重くなった。情報が多すぎたのだと、遅れてわかる。


「……疲れるな、これ」


「新しい感覚だから。慣れないと危ない」


 リィンはそう言ってから、少しだけ考えた。


「でも、使える」


「不意打ち対策にはなるか」


「かなり。少なくとも、灰がある場所なら」


 その言葉に、ガルドが近づいてきた。


 いつの間にか聞いていたらしい。


「灰で周囲を読むのか」


「たぶん」


 透が答えると、ガルドは入口の方を見た。


「なら、灰置き場の防衛に使える。見張りが見えない穴も、床の灰が教える」


「まだそこまで正確じゃない」


「今はな」


 ガルドは当然のように言った。


「鍛えろ。見張りの目が一つ増える」


「俺を見張り台にする気か」


「動けないならちょうどいい」


「ひどい」


「合理的だ」


 バルザが岩を運びながら笑った。


「腹を裂かれた王様候補が、座ったまま敵を見つける。悪くない」


「その呼び方やめろ」


「嫌がる元気はあるな」


「お前の首輪、後回しにするぞ」


「困る。なら今のは忘れろ」


「忘れた」


「早いな」


 灰置き場の空気が少しだけ緩んだ。


 しかし、透の中では別の緊張が生まれていた。


 灰を広げれば、周囲がわかる。


 それは便利だ。


 だが、同時に怖い。


 さっき目を閉じた時、ルカの足音だけでなく、炉の灰、入口の幕、バルザの呼吸、セイルの震え、女のすすり泣き、子どもの寝息まで流れ込んできた。


 自分の外側が、自分の内側に入り込んでくる感覚。


 広げすぎれば、自分の境目が薄くなる。


 それは、灰補修の怖さに似ていた。


 リィンが透の表情を見て、そっと言う。


「名前を決めた方がいい」


「名前?」


「灰喰いの作法。形を持たせると、広がりすぎない」


 透は思い出した。


 喰うものを名付けろ。


 最初に見つけた灰喰いの作法。


 力は、ただ広げればいいわけではない。何をする力なのか、どこまで届く力なのか、名で縛る。


「探るための灰か」


「うん。喰べるためじゃなくて、知るため」


 透は床に手を置いた。


 灰が薄く広がっている。


 目ではなく、耳でもなく、皮膚でもない。灰が触れている範囲を、自分の周りの領域として読む。


 灰の領域。


灰域(かいいき)


 短く呟いた。


 その瞬間、広がっていた感覚に輪郭ができた。


 ただ漏れていた灰が、薄い円のように整う。半径は広くない。透を中心に、せいぜい数歩分。炉や入口と繋げればもう少し伸びるが、無理に広げると頭が痛む。


 だが、さっきよりずっと扱いやすい。


 透は目を閉じた。


 ルカの位置。

 リィンの手。

 ガルドの足。

 バルザの重い歩幅。

 セイルの浅い呼吸。

 入口の灰幕に触れる、外の冷たい風。


 わかる。


 全部ではない。


 でも、近づいてくるものなら拾える。


 透は目を開けた。


「いける」


 リィンがほっとしたように頷いた。


「でも、長くは駄目」


「わかってる」


「本当に?」


「半分」


「トオル」


「全部、努力する」


「混ざってる」


 ルカがきょとんとしてから、少し笑った。


 その時、入口の灰幕がかすかに揺れた。


 透はすぐにそちらを見た。


 今度は音より先だった。


 灰幕の下、骨杭の隙間。小さな何かが、外側から鼻先を差し込んでいる。灰鼠ほど大きくない。もっと細い。虫か、骨片か、あるいは魔物の触角。


「入口の下」


 透が言った。


 ガルドが即座に動いた。


 骨杭を一本引き抜き、透が示した場所へ突き刺す。


 ぎぃ、と小さな悲鳴。


 灰幕の外へ、黒い虫のようなものが弾け飛んだ。鋭い脚を何本も持つ、灰色の甲虫だった。


 ルカが顔を青くする。


「灰喰い虫……。入ってきたら、保存食に卵を産むやつ」


「最悪だな」


 透は思わず言った。


 ガルドは甲虫を踏み潰し、透を見た。


「見えたのか」


「見えたというか、灰が揺れた」


「十分だ」


 ガルドは入口の者たちへ声を飛ばす。


「下の隙間を塞げ。灰鼠だけじゃない。虫も来る」


 場がまた動き始める。


 今度は、さっきより早い。


 透が気づいたことで、被害が出る前に防げた。それを見た者たちの目が変わる。


 恐れだけではない。


 役に立つ力を見た目。


 守られるだけではなく、一緒に守れるかもしれないと思い始めた目。


 透はその視線に落ち着かなくなった。


「そんなに見るなよ」


 小さく呟くと、バルザが近くで笑った。


「見られる立場になってきたな」


「嫌だ」


「慣れろ」


「嫌だ」


「二回言うほどか」


「三回でもいい」


 バルザは楽しそうだった。


 だが、その目は鋭い。


 彼もわかっているのだろう。


 灰域。


 この力があれば、灰置き場はただ怯えるだけの場所ではなくなる。


 見張れる。

 備えられる。

 拾った者を守れる。


 透は脇腹を押さえながら、もう一度目を閉じた。


 灰域を短く広げる。


 今度は無理に遠くまで伸ばさない。自分の周り、入口の足元、水瓶の周辺。必要な場所だけを点のようにつなぐ。


 情報が少しだけ整理された。


 さっきより頭痛が軽い。


 リィンが言った。


「上手くなってる」


「早くないか」


「トオルの体が、灰に合わせて変わってるからだと思う」


「それ、褒められてる気がしない」


「褒めてる。でも、心配もしてる」


「両方か」


「両方」


 透は床の灰を見た。


 灰域。


 使える。


 けれど、これもまた人から遠ざかる力なのかもしれない。


 普通の人間は、床の灰で人の位置を感じたりしない。空気の濁りで虫の侵入を読んだりしない。


 だが、普通の人間では、この場所を守れない。


 透は目を閉じたまま、静かに息を吐いた。


 その時、灰域の端に違和感が触れた。


 入口ではない。


 水瓶でもない。


 炉の奥、壁際。


 誰もいないはずの場所で、灰が沈んだ。


 重さがある。


 だが、人間の足ではない。


 もっと硬い。もっと古い。骨でもなく、鉄でもない。


 透は目を開けた。


「炉の奥に何かいる」


 場が止まった。


 ガルドが骨杭を構える。


 バルザが低く唸る。


 リィンが封印針を抜く。


 ルカが透の後ろへ下がった。


 炉の奥。


 名を刻んだ石のさらに向こう。


 灰を積み上げた壁の一部が、静かに崩れた。


 そこから、小さな手が出てきた。


 金属の手だった。


 指は細く、人間の子どものような形をしている。だが、関節には古い青い光が走り、手の甲には灰の番人の紋が刻まれていた。


 灰の中から、少女が這い出てくる。


 人間ではない。


 小柄な体。灰色の髪に見えるものは、細い金属糸の束だった。片目は閉じ、もう片方の目には弱い青白い光が灯っている。胸元は割れ、中の核が半分露出していた。


 壊れた人形。


 いや、古代の兵器。


 リィンが息を呑む。


「灰殻機兵……?」


 少女は灰まみれの顔を上げた。


 青白い片目が、透を見つける。


 次に、透の右腕の灰殻手甲を見る。


 そして、かすれた声で言った。


「……番人、認証」


 透は動けなかった。


 少女は床に片膝をつき、壊れた腕を胸の前へ当てる。


 まるで、古い誓いの形のように。


「残存機、個体名シェラ。命令待機中」


 灰置き場の者たちが、息を呑む。


 バルザが低く笑った。


「また厄介そうなのが出てきたな」


 ガルドは少女を見つめたまま言う。


「敵か」


 リィンが慎重に首を振る。


「たぶん、灰喰いの装備側。番人に従う機兵」


 番人。


 透はその言葉を聞き、脇腹の痛みを忘れかけた。


 シェラと名乗った少女は、壊れた体を震わせながらも、透から目を逸らさない。


「指示を」


 短い言葉。


 だが、その響きには、長い時間待ち続けた重さがあった。


 透は何を言えばいいのかわからなかった。


 王でもない。


 主でもない。


 命令することに慣れていない。


 けれど、目の前の少女は壊れている。胸の核が露出し、片腕は半ば砕け、立っているだけで青い火花が散っている。


 命令より先に、言うことがあった。


「まず、座れ」


 シェラの片目がわずかに揺れた。


「命令、確認。座標固定」


「いや、そうじゃなくて。休めってことだ」


 少女は少しだけ首を傾げる。


「休息命令、未登録」


「今登録しろ」


 バルザが吹き出した。


 リィンも少しだけ目を丸くした。


 シェラは数秒沈黙し、それから灰の上にぺたんと座った。


「休息、実行」


 透は脇腹を押さえながら、ゆっくり立とうとした。


 リィンがすぐに止める。


「トオル」


「見るだけだ」


「また」


「今度は本当に見るだけ」


「信用は半分」


「半分あるなら十分だ」


「それ、ガルドの言い方」


 ガルドが片目を細めた。


「妙なところだけ覚えるな」


 透はシェラの前まで行き、膝をついた。


 灰域がまだ薄く広がっている。


 その中で、シェラの体は不思議な感触をしていた。


 生き物ではない。


 だが、死んだものでもない。


 壊れている。

 眠っていた。

 待っていた。

 灰の番人の命令を。


 透は胸の核を見る。


 半分ほど欠けているが、まだ青い光が残っている。灰を通せば、修復できるかもしれない。だが、雑に触れば核そのものを喰ってしまう。


 透は手を引いた。


「今の俺じゃ、直すのは危ない」


 シェラは瞬きしなかった。


「修復不可?」


「不可じゃない。後でやる。リィンと一緒に、慎重に」


 リィンが隣にしゃがむ。


「うん。修復するなら、武装庫の部品がいると思う」


「武装庫か」


 透は小さく息を吐いた。


 また行くべき場所が増えた。


 灰置き場を守る。

 灰域を鍛える。

 バルザの封環を外す。

 セイルから門の情報を聞く。

 シェラを修復する。

 昇降坑への道を探す。


 やることが多すぎる。


 だが、不思議と前より嫌ではなかった。


 一つずつ、ここが強くなる。


 拾ったものが、力になる。


 シェラは透を見上げた。


「番人。現任務は?」


 透は少し考えた。


 命令という言葉は、まだ重い。


 だから、別の言い方を選んだ。


「ここを守る。捨てられた人たちを、これ以上喰わせない」


 シェラの青白い片目が、静かに光を強めた。


「任務、受領」


 彼女は壊れた体のまま、もう一度頭を垂れた。


「シェラは、番人に従う」


 透は困ったように眉を寄せた。


「従うとか、そういうのはまだいい」


 バルザが後ろで笑う。


「無理だな。もう一人増えたぞ、王様候補」


「やめろって言っただろ」


「俺はまだ候補と言っている。優しい方だ」


「どこがだ」


 灰置き場に、また小さな笑いが生まれた。


 炉の灰が揺れる。


 入口では骨杭が打たれ、水瓶は守られ、保存食は残り、灰域は小さな虫を捉えた。そして、炉の奥から古い機兵の少女が目を覚ました。


 透はまだ王ではない。


 強くなりきったわけでもない。


 傷は痛むし、灰は怖いし、命令することにも慣れていない。


 それでも、灰置き場の中心に少しずつ何かが集まり始めていた。


 水。

 食料。

 名前。

 技。

 仲間。

 そして、待っていた力。


 透は右腕の黒鎖を見た。


 灰は静かに揺れている。


 喰うためだけではない。


 守るために。


 探るために。


 拾ったものを、もう一度立たせるために。


 灰域の薄い輪が、透の周囲で静かに息づいていた。


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