第18話 壊れた機兵の忠誠
シェラは、灰の上に座っていた。
座れ、と言われたから座っている。
ただ、それだけのようだった。
背筋はまっすぐ伸び、壊れた右腕は膝の上に置かれている。胸元の装甲は割れ、半分露出した青白い核が弱く明滅していた。左目は閉じたまま動かない。開いている右目だけが、透を見ている。
その姿は、少女に見えた。
けれど、呼吸はない。
瞬きも少ない。
肌に見えるものは、灰を被った白い合金だった。
ルカは透の背後から、そっと顔を出した。
「その子、生きてるの?」
シェラの右目がルカへ向く。
「生命反応、分類外。稼働状態、低下。自己認識、維持」
ルカは少し固まった。
「えっと……?」
「たぶん、生きてるとは違うけど、起きてるってことだ」
透が言うと、シェラはこくりと頷いた。
「番人の解釈を優先」
「俺の解釈でいいのかよ」
「現番人、最上位認証」
「それもやめてほしい」
「命令確認。呼称変更を検討」
「検討じゃなくて変更してくれ」
シェラは数秒黙った。
「トオル、で登録可能」
「ああ。それでいい」
「登録。トオル」
短い声だった。
だが、その響きは不思議と硬くない。壊れた金属の奥に、誰かが長い時間抱えていた孤独が残っているようだった。
リィンはシェラの胸元を見ていた。
「核が欠けてる。灰路もかなり切れてる」
「動けるのか?」
透が聞くと、シェラは答えた。
「歩行、低速なら可能。戦闘、三十七秒以内。以後、崩壊率上昇」
「三十七秒って、具体的だな」
「現状態での最大安全稼働時間」
バルザが腕を組んで、シェラを眺めた。
「三十七秒でも、こいつは強いのか」
シェラの右目がバルザへ向く。
「対象、獣人族。現状態での制圧確率、六十二パーセント」
バルザの耳がぴくりと動いた。
「ほう」
「封環による出力低下を含む」
「首輪がなければ?」
「制圧確率、二十一パーセント。相打ち確率、四十八パーセント」
バルザは牙を見せて笑った。
「気に入った」
「敵対判定?」
「違う。腕試しは後だ」
「後、登録」
ガルドが低く唸る。
「壊れてその計算か。まともに直れば、かなりの戦力になる」
透も同じことを考えていた。
今のシェラは、片腕が壊れ、核が欠け、立つことすら危うい。それでも、バルザと渡り合う可能性を持っている。完全に修復できれば、灰置き場の守りは一段変わる。
ただし、修復には危険がある。
透の灰は、壊れたものに触れる。
錆、呪い、切れた灰路、死んだ魔力。
だが、シェラの核はまだ生きている。
雑に触れば、直すどころか喰ってしまうかもしれない。
「武装庫の部品がいるんだよな」
透が言うと、リィンは頷いた。
「灰導核と、細い灰路線。それと、機兵用の記憶留めがあればいいと思う」
「どこにある?」
「武装庫の第一層にはなかった。奥か、保守室の別区画」
シェラが口を開いた。
「灰殻機兵の補修部品は、武装庫第二層、または機兵眠り庫に保管」
「第二層?」
ガルドが反応する。
「第一層の奥か」
「認証段階不足。第二層の開放には、番人の灰路安定率、最低三段階が必要」
透は自分の右腕を見る。
灰殻の手甲は熱を持っている。脇腹には灰で塞いだ傷。灰域を覚えたばかりで、頭も重い。
「今の俺じゃ無理そうだな」
「無理」
リィンが即答した。
「そこは少し迷ってくれ」
「迷わない。今行ったら倒れる」
「だよな」
透は息を吐いた。
シェラはそのやり取りを見ていた。
「トオル、損傷状態」
「ああ。ちょっと噛まれた」
「ちょっと、ではない」
リィンが言った。
シェラの右目がわずかに細くなる。
「灰補修痕を確認。肉体組織の欠損を灰で代替。長期放置、非推奨」
「シェラにもわかるのか」
「機兵は番人の損傷確認機能を持つ」
「便利だな」
「修復権限があれば、処置可能」
透は少し身を乗り出した。
「俺の傷を?」
「軽度補助のみ。現状態では、完全修復不可」
リィンが警戒するようにシェラを見る。
「何をするつもり?」
「灰補修部位の過硬化を緩和。肉体への再馴染みを補助。番人の継戦能力を維持」
「危ない?」
「現状態での危険率、二十九パーセント」
「高い」
「低くはない」
シェラは淡々と答えた。
透は苦笑する。
「やめとこう。今、二十九パーセントを引く気はない」
「判断、妥当」
「妥当って言われると、なんか変だな」
リィンがほっとしたように息を吐いた。
「トオルが珍しく無茶しなかった」
「珍しくって」
「珍しい」
「否定できないのが嫌だ」
バルザが笑い、ガルドもわずかに口元を動かした。
灰置き場の者たちも、遠巻きにシェラを見ている。
恐れている者も多い。
当然だ。炉の奥から突然、古代の機兵が出てきたのだ。しかも、透を番人として認証し、命令を待っている。普通なら、警戒しない方がおかしい。
だが、同時に違う目もあった。
期待。
また一つ、灰置き場を守る力が増えるかもしれないという期待。
その視線を、透は感じていた。
灰域を広げていないのに、わかる気がした。
いや、少し漏れているのかもしれない。
床の灰が、足音や呼吸の震えを拾っている。恐怖で浅くなる息。興味で近づく足。水瓶のそばに立つ少年の緊張。
透は額を押さえた。
「また勝手に広がってるな」
リィンがすぐに気づく。
「灰域?」
「ああ。使おうとしてないのに、周りの気配が入ってくる」
「傷のせいかも。灰補修した場所から、灰が漏れやすくなってる」
「便利なのか、不便なのか」
「両方」
リィンの答えはいつも通りだった。
シェラが透の右腕と脇腹を交互に見る。
「灰域の常時漏出は、番人初期訓練で発生する症状」
「訓練で?」
「灰を領域化した直後、境界設定が不安定になる。対処法あり」
「あるのか」
透は思わず声を強めた。
リィンも目を上げる。
「どうするの?」
「核を置く」
「核?」
「灰域の中心を肉体のみに置くと、番人の負荷が上昇。周囲に小さな灰標を置き、感知を分散する」
セイルが近づいてきた。
まだ顔色は悪いが、術式の話になると少しだけ目が生き返る。
「目印を置くのか。門術式の補助杭に近い」
シェラが頷く。
「近似。灰標は、番人の領域を固定する外部点」
透は床を見る。
「つまり、灰域を俺から全部広げるんじゃなくて、何かに預ける?」
「肯定」
「それなら、灰置き場の見張りにも使えるか」
ガルドが言った。
「入口、水瓶、保存食、炉。そこに灰標を置けば、透が寝ていても異変を拾えるかもしれん」
「寝てても?」
透が聞くと、シェラは首を傾けた。
「睡眠中の警戒機能は、番人の生存率を上げる」
「俺、寝てる時まで働くのか」
「必要」
リィンが言った。
「そこは味方してくれないのか」
「不意打ちで死なない方がいい」
「それはそう」
透は諦めた。
ただ、灰標を置くという考えは悪くない。
不意打ちが怖い。
灰鼠が入り込んだ時、気づくのが遅れた。子どもを守れたのは、たまたま体が間に合ったからだ。次も間に合うとは限らない。
なら、先に気づけるようにする。
それは必要だった。
「やってみる」
透が言うと、リィンがすぐに睨むように見た。
「脇腹」
「動かない。座ったままやる」
「本当に?」
「今回は本当に」
「半分じゃない?」
「全部」
リィンは少しだけ疑っていたが、頷いた。
シェラは左手を床についた。
壊れていない方の手だ。細い指が灰に触れると、青白い線が床に走った。
「灰標候補。炉灰、骨片、欠けた灰導石、灰鼠の歯」
「灰鼠の歯は嫌だな」
「感知性能は高い」
「嫌だけど性能高いのか」
「敵性残滓は警戒用に適する」
ガルドが灰鼠の死骸から小さな歯を取り出した。
「使えるなら使え」
「抵抗ないのか?」
「奈落で抵抗していたら死ぬ」
「それもそうか」
透は灰鼠の歯、炉の灰を染み込ませた骨片、小さな灰導石の欠片を受け取った。
指先に乗せる。
灰域を広げるのではない。
小さく畳む。
自分の中から薄く灰を伸ばし、それぞれの欠片に触れさせる。喰うのではなく、結ぶ。自分の目や耳の代わりではなく、床に置く小さな鈴のようなもの。
灰が、骨片の表面に染みた。
次に灰導石。
最後に灰鼠の歯。
その瞬間、歯の奥に残っていた小さな飢えが跳ねた。
透は反射的に喰い潰しそうになり、黒鎖を握る。
リィンの封印針がすぐ横で光った。
「浅く」
「わかってる」
歯の中の飢えを全部消すのではなく、鈴の芯として残す。危険なものほど、危険が近づいた時によく震える。
嫌な理屈だ。
だが、使える。
灰鼠の歯が、黒灰色に変わった。
シェラが告げる。
「灰標、形成確認」
透はそれらを床に置いた。
入口に灰鼠の歯。
水瓶のそばに骨片。
保存食の箱の近くに灰導石。
目を閉じる。
灰域を広げる。
今度は、自分の周囲から無理に伸ばすのではなく、三つの灰標に意識を触れさせた。
入口の冷たい風。
水瓶の周りの静けさ。
保存食の箱に近づくルカの足音。
わかる。
しかも、自分で全部を抱えるより軽い。
「……楽だ」
透は呟いた。
リィンが表情を緩める。
「負担は?」
「さっきより少ない。頭痛も軽い」
シェラが頷く。
「灰域補助、成功」
ガルドがすぐに判断した。
「灰標を増やせるか」
リィンが首を横に振る。
「今は三つまで。増やしたらトオルが倒れる」
「三つで十分だ。入口と水と食料を守れる」
「十分って便利な言葉だな」
透が言うと、ガルドは平然と頷いた。
「便利だから使う」
バルザが入口の灰標を見下ろす。
「これに何か近づくと、お前にわかるのか」
「たぶん」
「なら寝られるな」
「全員それ言うな」
「寝ない王は早死にする」
「王じゃない」
「候補だったか」
「それも違う」
シェラの右目がわずかに光った。
「王。意味照合中」
「照合しなくていい」
「番人と王の権限差、確認不能」
「確認しなくていい」
バルザが笑いを堪えている。
透は片手で顔を覆った。
シェラは真面目に続ける。
「ただし、群れの中心個体を守ることは、機兵の優先任務」
「群れの中心個体って、誰のことだ」
透が聞くと、シェラは迷いなく答えた。
「トオル」
灰置き場に、妙な沈黙が落ちた。
ルカが小さく呟く。
「中心……」
セイルが目を逸らす。
ガルドは否定しない。
バルザはにやにやしている。
リィンだけが、透を見ていた。
透は深く息を吐いた。
「中心とかじゃない。ただ、今はここを守るために必要なことをしてるだけだ」
「それでいい」
ガルドが言った。
「中心というものは、だいたい本人が認める前にできる」
「嫌なこと言うな」
「現実だ」
透は言い返せなかった。
灰標は三つ。
入口、水瓶、保存食。
それだけなのに、灰置き場の形が少しだけ変わったように感じる。守るべき場所に印がつき、見えなかった危険へ手が届き始めた。
技が一つ増えた。
それは透個人の力であると同時に、灰置き場の力でもあった。
リィンが言う。
「名前、つける?」
「灰標でいいんじゃないか」
「そのまま」
「わかりやすいだろ」
「うん。悪くない」
シェラが記録するように呟いた。
「灰標。灰域補助点。登録」
透は苦笑した。
また勝手に技らしくなった。
だが、悪くはない。
灰域。
灰標。
灰補修。
灰糸。
喰い止め。
少しずつ、自分の力に形ができていく。
ただ暴れる灰ではなく、名を持った技になっていく。
その分だけ、透は灰に呑まれずに済むのかもしれない。
リィンが立ち上がった。
「これで、トオルは寝る」
「今の流れで?」
「今の流れだから。入口も水も食料も見られる」
「寝てる間に何か来たら?」
「灰標が教える。私も見る。ガルドもいる。バルザもいる。シェラも……座ってる」
シェラがこくりと頷いた。
「座っている」
「そこは守ってるって言ってくれ」
「守っている。座標固定状態で」
「それならいい」
透は諦めて、壁にもたれた。
灰標の感覚が、細く残っている。
入口の風。水瓶の静けさ。保存食の箱のそばで、ルカがそっと座り込む気配。
完全に安心はできない。
でも、さっきよりは目を閉じられる。
リィンが隣に座った。
「寝て」
「見張りは?」
「いる」
「シェラは?」
「座って守ってる」
「バルザは?」
「笑ってる」
「役に立たないな」
「たぶん、戦う時は役に立つ」
少し離れた場所で、バルザが言った。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言った」
リィンが淡々と返す。
透は笑いかけて、脇腹の痛みに顔をしかめた。
灰補修の硬さはまだ残っている。
だが、灰標のおかげか、周囲を全部自分で抱え込む感覚は薄れた。
少しだけ、眠れそうだった。
透は目を閉じる。
暗闇の中で、三つの灰標が小さく灯っている。
火ではない。
光でもない。
灰の中の目印。
戻る場所を守るための、小さな印。
その印を感じながら、透の意識はゆっくり沈んでいった。
炉の灰が静かに揺れる。
シェラは座ったまま、透を見ていた。
壊れた機兵の右目に、青白い光が細く宿っている。
「休息命令、継続確認」
誰にともなく、彼女は呟いた。
「番人保護、優先」
その声を、透は半分だけ聞いていた。
反論する気力は、もうなかった。
灰置き場の夜は深い。
けれど、入口には灰標がある。
水のそばにも、食料のそばにも。
小さな拠点は、初めて眠りながら見張る目を得た。




